第6話

文字数 1,385文字






 事務椅子に座りながら、緋縅先生は「アルトーからの引用」と前置きしてから、喋りだす。
「実在するには自分を存在するがままにしておくだけでいい。しかし生きるには、誰かでなくてはならない。誰かであるためには、ひとつの〈骨〉を持たなくてはならぬ。骨をあらわにすること、同時に肉を失うことを恐れてはならぬ」
 ここで、ふぅ、と息を吐き、続ける。
「神は久しい死から彼らを十字架に釘付けしたものを信じていたか、彼らは反乱し、鉄、血、炎と骨で武装し、〈不可視のもの〉を罵倒しながら進んでいく。〈神の裁き〉を終えるためである」
 以上、アントナン・アルトーからの引用、と言って、それからひとこと、
「〈骨〉ってのはね、岡倉天心の書いた書簡で見た〈詩骨〉に近いんじゃないかな、って思うのよ」
 と、付け加えた。
 牙野原は、
「岡倉天心? 美術家が、詩のことを言ってんのか?」
 と、首をかしげた。
「〈詩骨〉とは、〈詩〉の〈骨格〉のことね。構造……ストラクチャーのことです」
「ストラクチャー、ねぇ」
「いわき市はフタバスズキリュウっていう化石が採れたことで有名でしょう。恐竜も、骨組みだけで立つその姿にすでに感動するわよね。〈骨をあらわにすること、同時に肉を失うことを恐れてはならぬ〉は、その通りだわ。あなたたちはひとつの骨を持たなければ鳴らない。〈詩骨〉という骨を、ね」
「骨……つまり、この流れで言うと〈可視化〉ってことになるのか」
 と、牙野原。
「詩は〈言葉〉。ランガージュ」
 と、緋縅先生。
 おれはiPhoneをいじる。「ランガージュ……言語活動とは、言語をはじめとする記号をつくり出し使用することを可能にするさまざまな能力およびそれによって実現される活動を指す。 この能力、活動には、発声、調音など言語の運用に直接関係するもののほか、抽象やカテゴリー化といった論理的なものも含まれる」と書いてあった。
 牙野原は言う。
「書き言葉……エクリチュール。脳内にとどまらない、具象化した、作品。それは〈不可視〉の領域を侵犯し、〈可視化〉させることかもしれないな。それを他者が脳内で咀嚼して、その他者に取り込まれる。取り込まれたら、それは不可視かもしれないが、一度そのブラックボックスに行く前に詩人によっていったん〈可視化〉される必要性があるってわけだ」
「そう、それが〈表現〉です」
 ほかの誰でもない〈誰か〉になりたいと〈欲望する〉ことは罪だろうか。恥ずかしいことだ、という風潮はあるし、どの道ほとんどの人間が行き着く先は〈ちっぽけな自分〉だ。だったら最初から〈誰かになりたい〉という欲望を〈抑圧〉するべきなのか。いや、違うだろう。それは違うはずだ。自分は誰でもなく自分だからだ。カテゴライズされるのはそれはレッテルであって、レッテルを貼られると殺ぎ落とされる自分の細部がある。だが、その〈細部〉にこそ〈神は宿る〉のではなかったか。
 これは〈集団〉と〈個〉の問題系統であり、〈詩〉は〈個人〉をこそを見る万華鏡であるのじゃないか。この万華鏡の美しさを、今のおれは説明が出来そうにないが、説明出来るようになりたいと思ってしまった。これはおれにとってクリティカルな出来事だった。
「緋縅先生、おれにも詩を教えてください」
 感極まって、おれは言う。

「死んでください」
 緋縅先生はじと目で、最初と同じ言葉をリフレインした。


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