第31話

文字数 1,294文字





「〈天〉と〈空〉。手が届かない、人知を超えたもの。草野心平にとっての〈天〉は、〈時空の渾然とした場〉であり、〈人類全部にとって天ほど普遍はない。刻々と変わるその永遠〉としています。一方、中原中也はどんなときに〈空〉を出すか。それは〈空〉に向かって自己の苦しみを嘆いたり、懺悔したりと、個人的な感情の発露、その吐露の装置として扱っている。また、崇高なる存在へとつながる〈空〉と心身がつながっていく感覚があって、心平の〈天〉より中也の〈空〉の方が親しみを感じやすい、ということが言えるわね」
 放課後、ソファで茶を啜りながら、緋縅先生は草野心平と中原中也のモチーフの対比について語る。
 先生は言う。
「あとね、中也も、心平の影響を受けたのかは知らないけど、カエルのことも何度も自由詩にしたわよ」
 へー、とおれは頭がいっぱいになりながら売店の自販機で買った紙パックのイチゴ牛乳をストローで飲んだ。
 ぐでーっとしてソファで横になっている牙野原。
「大丈夫か」
 おれが言うと、牙野原は体勢を戻し、座り直してから、羊羹を一口食べてから、こんなことを言う。
「夜中に小説投稿サイトでたくさん自由詩を書いてその宣伝がてらSNSでつぶやいている時点で、ああ、こいつ話し相手いないんだな、というのがわかると思うし、暇人なんだな、と思われるのも当然だしそれをあたしは受け入れよう。それでもいいじゃんか。あたしは思う。あたしが書いているのはパルプマガジンみたいなもので、パルプスの作家、チャールズ・ブコウスキー、あたしは大好きだしほとんどの著作を読んだけど、いわゆる名作なんてブコウスキーは書かなかった。それと。パルプマガジンの作家はNIRVANAたちグランジバンドとどこか似ている。ブコウスキーと同様の種類の良さだとあたしはNIRVANAを思ってる」
「おお、牙野原もNIRVANAが好きなのかぁ」
「鯨瀬も、NIRVANAのボーカルギターのカート・コバーン好きそうだよな」
「まあな」
「ふぅ、疲れた」
「あれだよな、牙野原が描く自由詩の世界は、虚構なのかもしれないけど、現実感を伴って立ち現れるから好きだぜ」
 あはは、と牙野原は薄く笑った。

 緋縅先生は中原中也の〈空〉の詩ではこれが有名かしらね、と暗唱する。
「夏は青い空に、白い雲を浮ばせ、わが嘆きをうたう。わが知らぬ、とおきとおきとき深みにて青空は、白い雲を呼ぶ。わが嘆きわが悲しみよ、こうべをあげよ。――記憶も、去るにあらずや……湧き起る歓喜のためには人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや。ああ、神様、これがすべてでございます、尽すなく尽さるるなく、心のままにうたえる心こそこれがすべてでございます! 空のもと林の中に、たゆけくも仰ざまに眼をつむり、白き雲、汝が胸の上を流れもゆけば、はてもなき平和の、汝がものとなるにあらずや」

 詩への憧れは子守歌のように保健室に響いて聞こえる。
 退屈色した陽気な歌が空に響いている、この落下する夕方に、退屈に湿った肉をえぐり取り自由詩にすべし、と牙野原や緋縅先生や、それにおれに対してもそう言わんばかりに詩は響いて聴こえたのだ。


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