第26話

文字数 1,563文字





「いや、キョトンとした声で〈なんで殴られてたの〉って訊くっての、結構笑えるよな。わけわかんねーで撃退して服まで引き裂いちゃってさ。牙野原も、恨まれてるぜ〜?」
「だろうなぁ。思い出せ、不良少年。その真っ青な空の色を!」
「なに言ってんだ? って、ああ、そうだ、な。そうだ。東北のグラスブルーの空、だな」
「当たり!」
「彼の色彩の主調をなすものは東北以北の晴天、透明なグラスブルーである。こんな色は色の見本にはないかもしれない。しかしあの晴天はやはりグラスブルーとしか言えない。もちろん灰色やねずみや暗黒あるいは種々華やかな色彩がまぶしく光ってはいるけれど、とどのつまりグラスブルーの上塗りなのである。そしてそれこそ宮沢賢治の象徴でもあるように思う。……っていう、草野心平の書いた賢治評だな」
「だが、だ。それを受けてか、草野心平自身の詩にも、こんなのがある。……いま上天は夜明けに近く。東はさびしいナイトブルーで。ああ、さようなら一万年の。楽譜のおたまじゃくしの群がり一列。静かに。動いている。静かに。動いている」
「ナイトブルー、か」
「……もしくは、これなんかがいいな。……無の前には、無限があった。底も天上もない無限があった。初めて胴震いする生命の歓喜があった」
「グラスブルーの、夜明け前のナイトブルーか」
「一緒に夜明けのナイトブルーを珈琲でも飲みながらベッドから眺めようか」
「なに誘ってるんだよ、おまえには先生がいるだろうが。緋縅先生が」
「よりは戻ってないぜ」
「そう……なのか?」
「観ろよ、不良少年。そのグラスブルーの空を」
「不良少女に言われたくないぜ。教師と生徒で、実の姉妹なんだろ」
「当然、両親が仲を引き裂くよな」
「そういうことか」
「〈東はさびしいナイトブルーで。ああ、さようなら一万年の。楽譜のおたまじゃくしの群がり一列。静かに。動いている〉っていうのは、葬送曲の演奏で、楽譜のおたまじゃくしがナイトブルーの空に浮かんで流れているのを想起させるよな」
「大きな意味合いがある詩だとしても浅い理解だとは言わないよ。壮大な詩は、説明しようとするとどうしても人為が介入するそれ自体によって規模が小さく、狭くなる」
「言うじゃねーか、鯨瀬」
「この問題はおれの課題でもある」
「そうなんだな。勉強、してるみてーじゃねーか」
「まあ、ね。そこそこだよ」
「で。なんで殴られてたの」
「そこに戻るんだな」
「戻るさ」
 おれは肩でiPhoneを耳にあて、両手を天井に向けて伸ばした。数秒間、伸ばしてから、手をだらんと下げ、それからiPhoneを右手に持って、
「上級生の女子に色目を使ったんだってよ」
 と言った。自分でもげんなりした口調だったかもしれない。
「ほぉ。色目使ったのか」
 ゲラゲラ笑う牙野原。電話越しだから、音が割れる。
「色目なんて使ってないぜ」
「なんで勘違いされたんだろうな」
「それはわかってるんだ」
「ふぅん、なんでなんだ」
「小さい白猫が、その女子の肩に乗っていたんだよ」
「猫?」
「ああ。それもトンボの羽みたいな形状の羽が両翼、二本ずつ付いているんだよ、その白猫」
「はぁ?」
「おれが訊きたいよ。てか、訊いたんだ、そのトンボの羽付きの白猫のことを、肩に乗せた女の子に。その子自身もセーラー服の上にトレンチコートを羽織っていて、異常な感じだったんだけどな」
「キャラが濃いな」
「声をかけたら、会話する前に、鋭い視線をそこら中から検知したから、ごめーん、と謝って、ダッシュでその場は逃げて切り抜けた。と、思ったらやっぱり部活に行くとき尾行されていて、殴る蹴るの暴行を受けたってわけさ」
「にわかには信じられないが、その白猫ちゃんに、あたしも会ってみたいな」
「どうなっても知らないぜ。また殴る蹴るの大騒動になるぜ」
「望むところだ」
「望むなよ、そんなもん」


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