第36話

文字数 932文字




 玄関からぷりるとメイズースには出て行ってもらって、おれもコンバースの靴を履く。
「今夜は明るいな」
 と、おれ。
 家の外で待っていたぷりるは、
「今は西村彗星が、5等前後まで明るくなる頃合いだからだわ」
「彗星?」
「そうよ、今夜は天体ショーなのよ」
「へぇ」
「彗星が、かに座からしし座へと東進し、明け方の東の空に見えるの」
「そう、なのか」
「八月の下旬には西村彗星は双子座のボルックスの下あたりを通過。その後かに座のプレセペ星団を下がり、金星とおなじくらいの高さ。これからしし座に向かっていくわ。レグルスの方へ、ね」
「難しいけど、なんだかすごいんだな」
「すごいのだわ。ねぇ、鯨瀬くん、星々は好き?」
「星座とか天体ショーとか、そういうのは全くだけど、……好きだよ」
 おれたちが話す横で、メイズースがトンボの羽で人間の肩の高さまで浮きながら、
「のをあある、とをあある、やわあ!」
 と繰り返し鳴いている。
 ぷりるは詩を暗唱する。
「海はおのれの海鳴りをきき。天はおのれの天を見つめ。なだれる波に波はくずれ。天はどこまでも天につづき。海は非情の海鳴りをきき。天は非情のから鳴りをきき」
「草野心平……」
「鯨瀬くんに合わせてみた。別に他意ははないわ」
「そうなのか」
「あるとしたら」
「あるとしたら?」
「無のまえには、無限があった。底もない天上もない無限があった。はじめて胴震いする生命の歓喜があった」
「どういうこと?」
「〈はじめて胴震いする歓喜があった〉ってことだわ!」
「のをあある、とをあある、やわあ!」
 おれは静かに天を見上げ、星空のなか、今ぷりるが暗唱したふたつの自由詩を反芻した。
「〈天はおのれの天を見つめ〉て、〈天はどこまでも天につづき〉、そして〈天は非情のから鳴りをき〉くのか」
 ぷりるが歩き出したので、おれはぷりるの横を歩く。きらめく星のなか。
「あの大海原と同じようにこの大きな星空もまた同じようにあるの。同じ有り様であるのよ。……ひとのこころだって同じ。わたしのこころだって同じ。歓喜があるの」
「のをあある、とをあある、やわあ!」
 メイズースは背中を伸ばし。
 やれやれ、といった調子でメイズースも浮遊しながらおれたちの前をふらふら飛んでは鳴いていた。
 まだ暖かい夜だった。


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