第24話

文字数 1,226文字





 草野心平の『宮沢賢治覚書』を読んでいると、まるで牙野原のことを言っているのではないか、と思うような解説に、次々にぶち当たる。
「当時はプロレタリア文学運動の勃興期であったが、賢治はおそらくは啓蒙という言葉は嫌いだったろうと思われる。壇上から、または思想や実行を説くという上から下への態度は到底取ることの出来ない、極度に嫌悪した方法でもあった」
 この一文は、まさに権威主義に対抗する牙野原が考えて詩作している、そのスタンスと近しいだろう。
 世の中には〈トップダウン〉と〈ボトムアップ〉の二種類がある。トップダウンとは、上から下へ、天下りの方法論で社会的地位のある人物がありがたいお言葉とやらを宣う、その態度で成り立つモデルだ。牙野原も、いや、おれも、唾棄すべき態度であり制度だと思うが、日本はトップダウンが大好きだ。一方のボトムアップは、下から上がっていく方式だ。泥にまみれて、這い上がっていくスタイルだ。これを、牙野原は〈是〉とするだろう。欠点もある。それは即ち「成り上がり」であることである。成り上がりは、「どこの馬とも知れない」という言葉が指す通り、信頼性に欠けるので、失脚しやすい。手ぐすね引いて有象無象が待っている。だったら、トップダウンに任せて、補佐をする役目に甘んじよう、自分は表舞台で主役を張るのをやめよう、となり得る。だが、〈二番手はおいしいポジション〉だということで、候補生が跋扈する権謀術数の世界を生きることになる。よって、高望みはしないで「平凡に生きる」のが良いとなってしまう。

 そんな牙野原はどんな奴なのか。会うとひょうひょうとしているが、牙野原の書いた自由詩をここ数日、ウェブで読んでいるおれからすると、『宮沢賢治覚書』で書かれた、草野心平のこの言葉に当たる。
「賢治は真善美の中毒者であった。彼にとっては真善美も距離がなかった。それらはもはや彼の体内に中毒の症状を呈しておいても、思想と童話的ファンタジーと混淆状態のように、ごく天然に賢治を次々と訪問したのである」
 おそらくだが、牙野原もまた、〈真善美〉の中毒者だ。彼女には一体、なにが見えているのかと考えたとき、おれにはやっぱり詩人の嘆きなんてわかりゃしないが、真善美というこの言葉を使うには妥当性を感じる。

 おれは家の冷蔵庫から、レトルトのおでんを取り出し、パックのまま茹でていた。家族は旅行でまだ帰ってこない。一人で夕飯を取る。牙野原の家庭の事情も複雑だろう。だが、踏み込むにはまだおれは牙野原のことをなにも知らない。まだ、時間が必要だ。踏み込んでどうする気だ、おれは。わからない。だが、詩を学ぶためには、牙野原と緋縅先生の近くにいるのがいいと思うのだ。
 レトルトパウチからどんぶりにおでんを移すと、おれはそれをテーブルに運んだ。
 米と一緒におでんを食べていると、iPhoneが鳴る。相手は牙野原だった。
 口に含んでいた大根を咀嚼し飲み込むと、おれは通話をタップする。


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