第35話「シネマ1」ジル・ドゥルーズ

文字数 1,862文字

 若い頃、映画学校に通っていたことがある。映画を志すと必ず打ち当たる壁がある。純粋に映画が好きで入って来た者も、僕のように映画をアートと考えている者にも等しく「商業的」な壁が立ち塞がる。最終的に学校を卒業した者は半数以下、映画産業に進路を求めた者は数えるほどしかいない。私も映画の道には進まなかった。ドゥルーズは序文で既に私の気持ちを代弁してくれている。「映画作りの桁外れに大きな部分がくだらないものであるが、偉大な映画作家たちは他の芸術に比べ外的要因に潰されやすいというだけで、私たちに程度の差こそあれ偉大な映画作品を遺してくれている」先ずは映画は芸術か否かという初歩的な問いに答えたところからこの感想を始めることにする。映画は他の芸術と一緒ではない。映画以外の芸術はその世界を通して、むしろ非現実的なものを狙うが、映画はその世界そのものを非現実的なものに仕立て上げる。つまり映画によって世界が自らのイメージを生成する。イメージが世界へと生成するのではない。映画は画という切り取られたイメージを映像装置によって運動イメージに変換する。映画は一見このような偽りの運動であるかのように思えるが、そうではなくて私たちは映画から私たちの内部映写装置を作動させる。そこに映るものは画ではなく、平均的なイメージに近い。要するに映画というコマの連続を見て我々がイメージするのではなく、映画という運動イメージをそのまま我々は受け取ることになる。映画は運動イメージである。切り取られた一枚から想起するものとは異なり、運動という一つの切り離せない全体がイメージさせるものである。全体とは総体と総体の集合体である。ドゥルーズ的に言えば境界線の無い「内在平面」又は「襞」とでも言おうか。運動とは全体なるものの持続の変化。一方の全体と他方の総体の転換運動は連続であって、分別された時点で性質が異なってしまう。映画は敢えてその分割を組み合わせることで、新しい何かを生み出そうとしている。他の芸術作品との決定的な違いがそこにある。この本はイメージと記号について書かれたものである。運動は現前している。通過された空間は過ぎ去っており、常に現動態である。通過された空間は分割可能だが、運動は分割できない。分割された途端本性を変えてしまうからだ。その組み合わせは無限♾である。映画は偽りの運動なんかじゃない。勿論コマでもない。映画の中で人や物は始めは隠れている。展開の流れの中で現れ、我々に想起させる。我々は新しいものを予感する。我々は新しいものを生み出すために常に模倣せざるを得ない。本質は決してその始まりには現れないからである。芸術に必要なものは何だろうか? 美しさだろうか? 個性だろうか? 機械が複製可能な時代において、アートの境界線は黒く塗り潰されてしまった。価値が変化して行く。皮肉にも普遍は変化するという事実以外を支えられそうもない。「偶然性」という言葉がある。ドゥルーズは主語に従属する述語を嫌う。つまり必然性を否定する。芸術を構成する要素と聞かれたら、僕は偶然性と答えるだろう。それはつまり模倣と模倣の組み合わせの中から偶然生まれる新しいものを指している。そしてそれは一枚一枚切り取られた画ではなく、連続した一枚であるべきだ。映画という芸術はシークエンスを一度分解してショットを編集し、再構築する芸術なのである。実はまだこの本を完読できていない。終盤に非常に多くの映画作品が登場するが、僕が余りにも映画を観ていないので、イメージを捉えられなくなってきた。であるが、自分も観たことがある黒澤明監督の作品についての記述をまとめてこの感想を締め括りたい。ドゥルーズは黒澤映画を大きな円環と表現する。金持ちと貧乏人、上流と下流、天国と地獄を接合する大きな円環。社会の頂点の提示と同時に社会のどん底の探査を必要とする。黒澤の提示するシチュエーションという問いの中には、無数の「データ」が込められている。行動そのものに意味は無く、秘められたデータを我々は映画の中から発見しなければならない。「生きる」という映画がある。私も二十歳くらいの頃に観ている。主人公が癌になり余命を知らされた時、人間は何をなすべきか? ということが真の問ではない。主人公は果たすべき仕事に没頭するわけだが、我々が真に受け取るデータはそのようなヒューマニズムではなく、個々のシチュエーションを通じて幾つものデータを探究し発見することで、何かを世界に循環させることにあるのである。了
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