第55話「一般言語学講義(コンスタンタンのノート)」F・ソシュール

文字数 3,070文字

 ソシュールを初めて知ったのは、まだ高校生の頃だった。多分、現代文のテキストに載っていたんだと思う。当時の私にとっては(今でも)とても刺激的で、それ以来、私の哲学的思考の根底にソシュールの記号論がある。ソシュールは言語学だけだと思われがちだが、芸術、哲学へと応用され、基礎の基礎と言うか、この記号論なくして語ることはできないだろう。人間の思考の根源的な媒介は記号である。言葉も記号、音も記号。記号である言語は、社会の成員の合意により確定した記号の集合と言える。ただ、言語は記号の唯一のものではなく、音声も絵画も記号であることは理解しておきたい。言語はある意味「生物学」であると言ってよい。言語は時間と空間の中で変化する。それは例えば、未開の部族であっても、同じ言語を使わないもの同士の接触によって、多様性へと広がって行く事実を見れば、言語が無限の多様性を持っていることがわかる。レヴィストロースの「悲しき熱帯」にもあったと思うが、類縁性のある部族同士の比較からは証明し難いが、全く類縁性のない部族同士から発現されるものがある。それを今日、我々は「差異」と呼んでいる。その差異はどこから生まれたのだろうか? 我々はそれが場所(空間)の違いだと考えがちだが、実はそうではなくて、「時間」によってのみもたらされる。変化は時の流れを前提とし、地理的に連続した中で進化して行く。例えば、ある一定の連続した土地で暮らす人々の言語は、土地の変化が無くても、千年後、一万年後も同じ言語を使っている可能性は限りなく低い。ちなみに広い地域で言語が一貫性を持つ理由は、「交雑」のためだと言われている。この辺りも生物学と言われる所以ではなかろうか。さて、言語学に戻ろう。言語を成す記号は、抽象的なものではなく、頭の中にあり、画像のようなイメージに変換される。つまり、概念と記号の結び付き、これが言語の本質を成す。そして言語となるためには、多くの個人が話した言葉の集積が必要で、そこから合意が確立し、言語が発現する。言語がはじめにあったわけではない。音が先か、音と概念の組み合わせが先か、実はそれは些細な問題で、言語は偶然得られた分泌物のようなもので、例えるなら音楽作品は、作品を作り出すものを繰り返し演奏した結果の総体でしかない。頭の中でイメージされる言語記号は、二つの異なるものが頭の中で結びついたことを意味する。一つは概念、もう一つは聴覚イメージ。この二つが結びついたものが「記号」。そして、ソシュールがとても重要だと強調しているのが、それらの結びつきが「恣意的」であるということだ。つまり、記号は恣意的で、記号そのものには、概念と結びつけるものは何もない。そして、我々はそういう記号の性質を変更することができない。なぜなら、記号には過去から進化して継承されたものが込められているからである。概念は聴覚イメージの価値である。もし、心理上の対象を、言語上の領域に持ってくると、それは抽象になる。例えば、水を分解すれば水素と酸素に分かれることは化学的には扱うことができるが、言語上では水を水素と酸素に分けることができないというようなこと。我々が言語上の具体的な対象を前にすることが可能なのは、概念と聴覚イメージの結合があってこそなのだ。ここからは概念的なものを「シニフィエ」、聴覚イメージ、つまり記号を「シニフィアン」として話して行く。人間社会において、記号は自由に選べるわけではない。本来自由であるべきものが自由ではないという矛盾がある。名前は物に割り当てられ、その行為により、概念と記号、つまり、指し示すものと、されるものの間に契約が成立してしまう。なぜ言語は自由になれないのか? それは時間との関係のせいである。時間の力は常に恣意性、選択の自由という力を妨げる。時間は恣意性を消し去らないと同時に消し去りもする。要するに言語を作り上げる記号の不自由さは、言語の中にある時間という要因の現れ。その時間が連続していることに起因する。世代を越えて記号が連続しているからとも言えるだろう。そして、記号は何世代か経るうちに必ず変化する。言語たるためには、その言語を話す共同体が必要で、我々にとって言葉は、集団的な心の中に存在する。だから言葉は自由ではいられないのだ。言語に影響する社会的な力が、その効果を発揮する機会が、時間によって与えられるからなのだ。我々が知っているものは、全て時間と共に変化するという事実を、言語学の視点からも認めなければならない。言語はシステムだとソシュールは言う。全体を考える必要があるからこそのシステム。変化は部分に起こるが、それは全体に影響する。ただ変化は特定の部分にだけ起きたように見える。ここを間違ってはならない。変化はシステムに起きるのではなく、システムの要素に起きる。人は全体を変更したいのではなく、ある要素だけ変化させたい。あるシステムが急に別のシステムを生み出すのではなく、システムのある要素が変更されることによって、そこから別のシステムが生まれる。変化とはこうして生まれる。そして、言語同様、重要なのはその「状態」だけである。例えば、チェスというゲームでは、プレーヤーに意図があって、駒を一つ動かし、システムに変化を与える。一方で言語における「手」は事前には何も知らない。自然発生的に偶然にチェスの駒が、他の駒を前にして変化する。そして、それは相互の位置によって得られる価値に基づいている。余談だが、ソシュールと同時期に活躍した画家にパブロ・ピカソがいる。ピカソと言えばキュビスムが有名だが、このソシュールの「位置」とピカソのキュビスムの奇妙な共通点に、どれくらいの人が気付くだろうか? 本書にこういう記述がある。「点には次元がありませんが、点で作られた線には次元がある。あるいは面には一つしか次元がありませんから、面を組み合わせても立体にはなりません」と。これってキュビスムのことを言っている。キュビスムって、私の解釈では構造主義だから、ソシュールが構造主義の基本中の基本だと私が言っているのも理解してもらえるだろうか。そして、なぜ構造を見るかと言えば、その構造の隣にあるものとの関係、つまり差異によってしか、物事は認識し得ないと考えているからである。更には言語無しに二つの概念を区別する手段がないこと。言語から離れた概念は、形の無い雲のようなものである。つまり、思考の中には言語記号無しに明らかなものなど無い。ただ何度も述べたが、シニフィアンとシニフィエの関係は恣意的な結び付きでしかない。我々は概念が先にあると思い込んでいるけれども、必ずしもそうではなくて、つまり、シニフィエが先だと決まっていない。その辺はウィトゲンシュタインもドゥルーズも強調していたはずだ。ソシュールはそれが、どちらが先かではなく、両面から定まるものだと言っている。私の言葉で言えば、輪郭を得てから埋まって行く感じとでも言いましょうか。言語はシニフィエが無くても、シニフィアンが無くても存在しない。けれどもシニフィエは、それぞれの言語システムの相互関係を前提とした価値を要約したものにすぎない。結論として、言語には差異しかないということ。厳密に言うと、記号などではなく、記号間の差異しかないということ。物事は結局、記号の恣意性という根本的な原理に辿り着く。差異によってしか、記号に機能を与えることも、価値を与えることもできないということである。了
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