第47話「青色本」ルートイッヒ・ウィトゲンシュタイン

文字数 1,491文字

 最終的に「語の意味とは何か」に辿り着きたいが、言語ゲームが面倒臭過ぎて、結構しんどかった汗。ウィトゲンシュタインはきっとこの時、歯が痛かったんじゃないかな?笑。さて気を取り直して、と。私たちはよく「意味は無い」と言う。これはつまり、説明できないという意味で用いることが多い。しかし、本当だろうか?「直接定義」は指差し。説明する必要がない。そう、説明しなくてもそこに意味がある。説明しなければ定義できないという強迫観念を捨てなければならない。言語の働きは、その言葉を理解して意味する必要があり、それは人間の心を一度通すことで成立する。その過程無くして、言語は機能しないと皆さん、思ってませんか? そして、このような過程を喚起することが「記号」の機能であると誤解していませんか? 思考とは、基本的に記号を操作する働きであって、心の働きではない。ここを間違いやすい。つまり、心理というものは、私たちの思考とは無関係であると言ってよい。思考とは記号を操作すること、即ち「言語ゲーム」。子供が言葉を使い始めた時の言語形態。そこには心理的なものは無く、純粋な言葉の働きや反応があるだけで、一般的と呼ばれるようなものなど無い。この辺りが、心理学を学んだ人には受け入れ難いところなのかもしれない。私はドゥルーズをよく読むので(アンチ・オイディップス等)、心理学の脆弱性というか、統計学の危険性というか、慣れっこではあるが、ある意味、大抵は思考をひっくり返されてしまうかもしれない。それにウィトゲンシュタインは、これまで人類が積み上げてきた「科学」をも転覆させようとする。私たちは問題を解決するために、科学の方法に呪縛され過ぎていると。私たちの目の前には幾つもの科学の方法がぶら下がっていて、問題を科学と同じやり方で解答しようとする間違え。全てを解き明かせるはずだという人間の傲慢さ。何であれ、何かを何かに(笑)帰着させることは、もはや人間の仕事ではないのだよと。もし、どうしても何かを定義したい衝動に駆られるのなら、それは好きにすればよいが、ウィトゲンシュタインは、その定義が実際に一致することはないと断言している。では、私はどう考えるのか? 以前、ドゥルーズの「感覚の論理学」を読んだ時、私は持論で「感覚は脳の仕事ではない」と述べたことがある。ウィトゲンシュタインの言葉で言えば「使われ方」の問題。私の言葉で言えば「受容体」の問題。私は物書きなので、そういう例を挙げるが、表現されることによって思想は変化する。何かを思いついて書く場合も勿論あるが、書いているうちに意味が生まれてくる感覚に近い。私は記号を操作しているだけで、手の仕事というか、場の仕事というか、脳が後追いで意味に気付く感覚。言葉にしたって、頭に浮かんだ言葉を書いていると言うよりは、多くの中から選び取っている感覚。そして、原稿用紙に表現されて初めて、意味が生まれ、私の元々の思想が変化していることに気付くのだ。私は、極論過ぎるとご批判を受けそうだが、機械が思考することは可能か? と問われたら、答えはイエスと答えたい。その理由は上記に書いてきた通りである。本書の最後に、ウィトゲンシュタインから優しい忠告が書いてある笑。「表現の意味はその表現を我々がどう使ってゆくかに全くかかっている。意味を、心が事物との間に設定する神秘的な結合のように思わないようにしよう。この結合が一つの語の使用全部を含んでいると思わないようにしよう」と。この内容を哲学科の若い生徒に教えたというのが本当なら、それは羨ましくもあり、また残酷でもあるよね。了
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