第39話「純粋理性批判1」エマニュエル・カント

文字数 1,157文字

 恐らくデカルト以降、こんなにわかりやすく経験論を否定した哲学もないだろう。カントは形而上学がアプリオリにしか感じ得ないものだと承知した上で、人が理性で認識できるものの限界に挑戦している。理性は初め原則を必要とする。原則は条件をくぐり抜け普遍に近づこうとするが、条件は無限であり、常に不完全でしかない。そして理性は再び原則に逃避する。その時、理性はもはや経験を必要としない。カントはその経験から切り離されたステージを形而上学と位置付ける。アプリオリは形而上学に根ざしている。経験を一切必要としない。理性はアプリオリな認識の原理を生み出す能力のことであり、純粋理性はこれらの原理を含む理性のことである。我々がアプリオリに認識できるものは「時間」と「空間」でしかない。受容することは綜合としての表象を受け取る能力のことで、逆に表象を生み出す能力が「悟性」である。カントが強く言っていることは、認識は純粋理性と悟性によるということ。純粋認識は対象が直感において、つまりアプリオリに基づくということ。直感が無ければ我々は対象を失う。そして悟性のみになった時、我々は弁証法のような一般論理、つまり現象的な側、つまり形而下学的なものにより判断してしまう。カントが弁証法についてオルガノンと誤想された一般論理学とまで酷評している。ここで言っていることが核心部だと思うのだけれど、弁証法にて生成された綜合は、偽りのものでしかないということ。つまり何かと何かの綜合なんて嘘だと言っている。カントは純理の中で「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」と述べている。これはまさに実存主義である。ここからはちょっと脱線して、ドゥルーズとカントについて述べてみたい。ドゥルーズは自著の中で「カントは乗り越えるべき敵」と評している。勿論悪い意味ではない。ドゥルーズの若い頃は実存主義にどっぷりと浸かっていたという。カントの哲学とドゥルーズの哲学はどこか似ている。弁証法を否定したことも、質や量、幾何学、表象、内包性にしても、カントからインスパイアされた面は否定できない。つまり乗り越えるべき大きな大きな存在であったに違いない。最後にカントの言う「批判」について一言述べて締め括りたい。今では「無関心」という言葉は悪い意味で使われるけれども、本当は軽薄の結果などではなく、見せかけの知識、偽善に対する成熟した態度のことである。そこには自己認識という心の法廷が設けられ、それは理性による要請である。カントはその自己認識へと至る場のことを「批判」と呼んだのである。言ってみれば批判とは思考の場。知識を周囲に探し求めずとも、それは自己の心の中にある。つまりアプリオリのことを指している。純粋理性批判は形而上下を認識するための論理なのである。 了
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