第21話「革命について」ハンナ・アレント

文字数 1,591文字

 革命についての小説を書いたのはもう十年も前である。自分で書いておきながらその結論的なものに自信が持てなくて、今もまだ眠ったままになっている。若い頃、政治の話でよく友人と喧嘩した。(三十年経った今でも親友だが、さすがに互いの地雷は踏まなくなった笑)当時から戦争と革命は僕ら芸術を志した者には避けられないテーマで、革命によって暴政に苦しむ人々が武力にて解放されることはどこか矛盾をはらんでいて、暴力を伴う革命を戦争と呼ぶのではないかという疑問を常に抱えていた。戦争の大義名分が暴政からの自由だったとして、暴力を暴力で解決させることの意味を考えてきた。革命は自由という概念から外れて論ずることはできない。歴史的にも自由を獲得するための戦いであった。そしてそれが戦争の正当化に繋がったことは明らかである。古代ギリシャでは正常な過程にある政治は暴力の支配には屈しないという前提があり、暴力ではなく専ら説得によりポリス(都市国家)は成立するとしている。暴力の行使は古代ギリシャ人にとっては正当化する必要のないものだった。それに対し古代ローマには正義の戦争と不正義の戦争とが存在した。戦争を正当化する必要があったのである。アレントは本書でポリスへの理想を述べている。人々の精神を力で変化させずとも、政治から戦争を無くすという希望を掲げている。戦争を抜きにしても外交政策ができないのは無能だとも言っている。その例として日本に投下された原爆は、実際に投下されなくても降伏に導くことができたのではないかと述べてもいる。アレントは人間は政治的な存在だと言っている。人は言葉を持つが、暴力は言葉を持たない。沈黙は人間という政治的な存在の限界を意味している。暴力が支配している限り、それは政治外のもの、つまり暴力と政治は相容れないものだという考えを理解することが本書を読み解く鍵となる。明らかに自由の概念は革命に起源を持っている。アレントは自由を獲得するための革命を肯定し、それが貧困などの社会問題に転化されることを否定した。なるほど・・・・・・と思う。この点が革命の分岐点なのかと腑に落ちた。社会問題への転化が全体主義的なものを生み出す可能性はある。貧困問題も核兵器の問題も、革命という形で解消されてはならない。アレントに言わせれば、政治的な問題は言葉で解決できるはずのものだからである。アレントは革命という言葉のイメージが、変化や旧秩序に終止符を打ち、何か新しい秩序が始まるかのような観念を持つことを否定する。革命とはそういう弁証法的な対立から新しいものを生むためのものでも、輪廻転生のような歴史は繰り返す的なものでもなくて、直線的で一回性のものであり、自由を回復するためだけのものであると何度も主張している。革命は自由の復興ではなく「はじまり」の問題であり、新しいものを生み出すことである。僕はすぐに大江文学と重ね合わせた。つまりここで何が言いたいのかというと、革命は暴力によって成し遂げられるものではなく、新しいものの誕生に起源をおくべきだということである。まさにその通りだと思う。そしてはじまりと革命の原理は同居する。原理は自分を救う絶対者でもある。ここでプラトンの一言が引用されている。「はじまりは、それが自身の原理を含むが故にやはり神であり、その神は人々の中に住み、全てのものを救う」そこには未来が内包されている。最後に僕の小説は革命の結論を、アレント同様、新しく生まれ出ずる者へと託した。これは逃げではなく、革命というものの本質が瞬間的な変化ではなく、長く太い時間の流れと共にしか成し得ない性質のものであると言いたかったのだ。そこに暴力の出る幕はない。アレントの思想の背後にプラトンの影を見るのは僕だけだろうか? それに関してはまた別の機会にするとして、今は著者に最大限の敬意を表したい。了
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