第53話「知の考古学」ミッシェル・フーコー

文字数 983文字

 若い頃、石膏デッサンをしていて、講師に言われたことがある。「その輪郭は、本当にその一本の線だと思いますか?」と。美術で言えば濃淡、それは無数の線が重なって浮かび上がる。そんなことを思いながら読み始めた。知の考古学とは起源から現在を貫く無数の透明な線の重なり。それは浮かび上がって表象する場合も可視化されない場合もあるだろう。時代によって色彩は変わり、明確にはできない枠組みが浮かび上がる。その枠組みを「エピステーメー」と呼び、連続した時代を貫くものをフーコーは「アルシーヴ」と呼んだ。それは多くの語られた言表の総体から浮かび上がる輪郭であり、顕在化した現在である。時、場所が変われば本質も変わる。多様性と一言で片付けるのではなく、その時点での価値観を定位しているものはアルシーヴによって浮き上がるもの以外の何者でもない。主体など無い。諸行無常。全ては変化している。だから、相似ではなく「類似」が重要なのであって、コピーではなく、模倣でなければならない。そしてフーコーが構造主義と一線を画している理由を、私の持論として言わせていただければ、それは「パラグラフ」的な選択の積み重ねを思考の根底に置いているということ。つまり物事の構造を組み換えて、その差異によってそのものを認識するのではなく、そうではなくて、物事の根底から分岐していることの総体をありのまま捉えること。差異が生じるのではなくて、初めから差異として始まっていることを認識すること。それは類似していて、殆ど差異がないかもしれない。けれどもそれを差異と捉えるために、心を研ぎ澄ませる。私は私自身なのだと。僕は今、全てが機械化された世界を想像している。フーコーの考古学とは「システマチック」に捉えることであり、そこに確定された意味や有機的な主体など無い。再構築などしない。弁証法的なものなど必要無い。差異は袂から分かれている。構造主義と一線を画すところから、私は私というこの時代の一つの地層として、人生を生きてみたいと思う。繰り返しになるが、知はその時代、その時代によって、時と場所が変われば本質も変わるのだ。だから、科学や学問を地層の全てだと思わずに、そうかといってその時代の叡智を軽んずることなく、自分は自分の歴史を創ればいい。それが知の考古学。そこにはきっと全ての時代を貫くアルシーヴがあるはずだから。了
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