第52話「エクリチュールと差異1」ジャック・デリダ

文字数 2,471文字

 第一章「力と意味」から第五章「発生と構造と現象学」まで。「語りえないもの」にかなり踏み込んだなという印象。構造主義を気持ち良く断裁してくれて、私の中で成仏できた気がします笑。さて、ちょっとだけ内容に触れていきましょうか。先に構造主義批判から。人が創造する力を持っていない時は「形式」が魅了する。文学批評が構造主義的である理由である。構造主義的意識は過去に関わる思考としての意識で、成就されたもの、建てられたものの反省でしかない。構造とは形式と意味との形式による統一のこと。構造主義は例えるなら、廃墟の街に似たところがある。住む者も無く、打ち捨てられたというより、意味と文化の亡霊に憑かれた街という感じである。構造主義的意識は破壊されると同時に破壊する意識である。この破壊は方法的なものになる時には、技術操作という錯覚しか与えない。デリダはバロック主義にも言及していて、バロックは破壊された構造、分裂とまで酷評している。構造主義とは願望と現状との間の差異の中で、差異によって生きるもの。生物学にせよ、言語学にせよ、文学にせよ、終極から全体の機構を知覚する。意味は全体の中でしか意味とならない。そういう基本構造によって全体が拡げられ、不確定な目標を予想することで全体が意味を帯びるのである。しかし、構造主義は、形而上学的な問題において内部に暗い影を落とす。このことが第四章の「暴力と形而上学」に繋がっている。簡単に要約すると、エクリチュールというものは構造主義的な方法で、我々はそれによって形而上学的な語りえないものを語ろうとする矛盾を常に抱えてきたということ。我々が構造主義的な記号、つまりエクリチュールという差異によって、全てを語ろうとしてきたことの矛盾について批判していると私は理解した。しかし、私も物書きの端くれ。ここで「書くこと」について少し弁明したい。デリダは文学行為の始めに「転換」の体験が必要だと言っている。そのことを世界の外への出口と表現し、それこそが書くことの可能性であり、およそ全ての文学的霊感の可能性であると言っている。書くことは単に不可能な可能性について考えることでも、神のような語りえないもの語るためのものでもなく、多くの天才たちによって試みられてきた一冊の書物があるだけである。書くことが苦しいのは、それが事始めであるからだ。書きながら自らその先は知れない。意味は書くことによって作りなされて行き、意味はその行く手にある。しかし、その行為は決して気まぐれなどではない。書くことは作家にとっては、作家が無神論者でない場合でも、作家である限りは、初めての、しかも恩寵の無い航海。書くことが事始めであるのは、創造するからではなく、既にあるものを記号として現れさせ、きっかけを引き受けるという、この絶対的自由のためなのである。書くことは、意味の即自性の外への脱出口。同一者が己の現象の鉱脈と誠の黄金とを探すため、他者の中で他者に向かって掘り進めること。彼は何者でもない。彼は同一ではなく、彼自らでもない。書くことは、存在の中に他者が始まる、あの始源の瞬間なのだ。上巻の核は第四章。そのための構造主義批判とエクリチュール。第四章の主役はレヴィナスである。レヴィナスの哲学概念に「超脱」がある。存在の彼方に「善」を置くプラトン的思考であるが、超脱とは存在に足場を取りながら、存在と存在を記述する範疇から外に出ること。その存在の彼方は、善の中性に向かうのではなく、そうではなくて「他者」に向かっている。レヴィナスは、フッサールが行っている分析の中で理論的意識の本源性を解いたり、組み上げたりすることに対し注意を払っている。つまり「非理論的行為や対象は存在する」ということ。理論主義の盲目さを告発するには、自己から絶対的外在性の方へ、全き他人の方へ、無限的に他なるものの方へ出て行くしかない。理論的客観性と神秘的合一の結合がレヴィナスの真の目的だった。私が進もうとしている方向は、一元性に融合されない多元論。レヴィナスの主著「全体性と無限」について、個人的に激しく同意できる部分があったので記したい。レヴィナスにとって全体性とは、所謂、有限的全体性という意味である。無限ではなく有限な全体。だからこそ「神」のみが暴力や不徳な世界の歯止めになっている。もし無限的他人が無限ではなく有限で、単独の生の人間であったなら、その世界では戦いが猛り狂うに違いない。レヴィナスは「赤裸々な素顔」という言葉を多用する。赤裸々な素顔とは、パロールであり、眼差しであり、そして、理論でも定理でもない素顔のことだ。戦いの中、赤裸々に生きた経験には(そこには既に神が語り始めているのだが)その素顔が十全に顧慮されるような世界では、もはや戦いなど無く、神と戦いは混ざり合い、神の名もまた、平和の名と同じように戦いの仕組みにおける一つの「機能」となっている。戦いは神を前提とし、また同時に排除する。我々人間は神との関係をこのような仕組みとしてしか保ち得ない。従って戦いとは、素顔と素顔の無い有限な世界の間の差異である。だが、この差異とは、これまで「世界」と呼ばれてきたところのものではなかろうか?世界の中では神の非在、現前が遊んでいる。世界の遊びによってのみ、神の本質を思慮することができるのである。全ての顔は「彼の顔」、それゆえ「彼」には顔が無い。素顔は「神」の相でも、人間の容姿でもない。素顔は両者の似姿なのである。我々はこの似姿を例え救いが無かったとしても、思考し続けなければならないと思う。哲学的な論では、わかりやすく言うと「神」と「身体」とを同時に救うことはできない。素顔が身体であるなら、それは死すべきもの。形而上学的超越は、同時に「死」としての「他人」に向かう超越であり、「神」としての「他人」に向かうものではない。それは「神」が「死」を意味しない限り有り得ない。だから「神」は全体であると同時に「無」、「生」であると同時に「死」なのである。了
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