第14話「アンチオイディップス」G・ドゥルーズ F・ガタリ

文字数 1,238文字

 オイディプスコンプレックスとは、ギリシャ神話の中で実父を殺し実母と結ばれたオイディプス王のエピソードを切り取ってフロイトが提唱した概念である。男子が父親に対し嫉妬やコンプレックスを抱き、母親の愛情を得ようとする心理を神話になぞらえたものだ。ドゥールーズ&ガタリはこのような後付けされた意識に対し警鐘を鳴らしている。フロイト批判というより、フロイト的な形式に当てはめようとすることへの疑念である。この本の原題は「資本主義と分裂症」であった。資本主義が台頭する以前、こんなにも分裂症と呼ばれる症状があっただろうか? マルクスにも触れ、資本主義というものが欲望を内部に溜め込む為のシステムであると述べている。これはマックスヴェーバーも言っていることだ。そもそも分裂症とは何なのか? ドゥールーズ&ガタリは分裂症から現れる素直に出てくる欲望こそが人間の意識の正体であり、本来を貫くものだと言っている。分裂症というものが本来の欲求に対し内側に向かって抑圧され、私の言葉で言えばアンビバレントな形で押し込められたものだと言いたい。人間の意識の正体が欲望であるなら、無意識は欲望を持たない機械であるはずだ。ドゥールーズ&ガタリは無意識の全く何とも有機的な関係の無い抑圧されていないそのままの身体を「器官なき身体」と呼んでいる。この本のに関して言えば、器官なき身体とは何なのかイメージできなければ読み進めることができないだろう。もう一つアンビバレントについて話しておきたい。これは僕が20代の頃の小説のテーマだった。文字通り相反する感情を同時に抱くことではあるが、ここでの意味はそんなに浅くない。瞬間の次の瞬間が1/∞の選択に委ねられること、つまり次の瞬間はA/∞またはB/∞という離接的選択には違いないのだが、それがAB/∞という同居ではなくA/∞の次はB/∞、B/∞の次はA/∞という繰り返しによるものがアンビバレントの本質であるということだ。強調するが、同時にあるのではなく、交互に相反する感情がそこに存在するのがアンビバレントであり分裂症の本質である。これらのことを踏まえてドゥールーズ&ガタリが表現しようとしたことは、これまで人が病理として壊れた機械として除外してきた分裂症が、実は壊れているわけでも何でもなくて、我々が見過ごしてきた1/∞というものを認識するための一つの契機になるということ。そしてそれらはこの資本主義という神経症の火種となる世の中において、誰にでも起こりうるものであることを述べていると感じた。かなりの部分を自論にあててしまった。この本のレビューとしては相応しくないと思う。心理学や精神医学を勉強されている方には失礼があったらご容赦いただきたい。けれどもドゥールーズ&ガタリの本質が1/∞であることを考えれば、ここで1/∞の解釈をさせていただいたこともまた無意味ではないのかなと思う。少しだけ自分を紐解くことができました。私にとっては巨大な、偉大な本でした。了
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