第41話「プルーストとシーニュ」ジル・ドゥルーズ

文字数 2,217文字

 芸術の世界はシーニュの究極の世界である。シーニュを単なる記号と受け取ってはならない。シーニュは観念的本質の中に意味を見出す。嘘と真実が異なることは誰でも理解できるだろう。シーニュは時に感覚的である。芸術は感覚的シーニュを統合し、物質的な意味の中に具体化された観念的本質に我々が既に関係していたことを理解する。芸術のような感覚的なシーニュが存在しなければ、我々はそのことに気付かないし、一定の解釈のレヴェルを超えることはできないだろう。全てのシーニュは芸術へと繋がっている。そして最も深いレヴェルは芸術そのものの中にある。芸術は人生と深く結びついている。人生の質を高め、物事の真実を導き出そうとする。芸術は記憶の働きを超えたところにある。それは本質を把握する能力としての純粋な思考であり、我々に永遠と同じ時間を感じさせる効果を持つ。我々に過ぎ去った時間を再び見出させるものは芸術以外にない。芸術作品は失われた時間を取り戻す唯一の手段である。余談だが、芸術作品の鑑賞の仕方がわからないという声を聞く。その際はぜひ、あなたの大切な失われた時間を再び見出すことができるか自問自答してほしい。芸術や文学において知性が不意にやってくるのは常に後であって、先に知性があるわけではない。その点が科学とは異なる。先にシーニュの効果があって、後から来るものが知性である。シーニュを感じることができること、世界を解読すべきものとして考えることができることは恐らく才能である。しかしそれは、いつも言っていることだが、自身に埋もれたままであり、必要な出会いが不可欠である。本質を感じ取ることと言い換えてもいい。しかし、ここからが面白いのだが、本質は実は事物の中にあるのではなく、その向こう側にある。理解可能な表現の向こう側に反論理的または超論理的に存在する。本質はシーニュと意味との真の統一を構成するものであり、芸術作品の中に示される本質の正体が「差異」である。さあ、ドゥルーズ全開になってきた笑。差異は我々に存在というものを考えさせ、また存在自体を構成する。本質はそれ自身が差異であり、そこから浮かび上がるものがここではスタイルとしておく。だからスタイルは本質そのものであり、置き換えることができない。優れた音楽は繰り返し演奏される他なく、詩は暗記され語れる以外にない。つまり差異と反復は表裏一体なのである。これらのことを踏まえて、いよいよプルースト「失われた時を求めて」に触れたい。「失われた時を求めて」はシーニュのひとつの体系である。この芸術作品には四つの時間が描かれている。1、人が失う時間 2、失われた時間 3、人が再び見出す時間 4、再び見出された時間 である。そして4だけが全ての位置を見出すことができる。全ての時間の流れを包含していると言ってもいい。「失われた時を求めて」の本質は記憶と時間にあるのではなく、再び見出された時間のシーニュである。そのベクトルは過去に向いているのではなく、見出された過去から未来を見通すことにある。プルーストの本質は一種の上位視点、他のものに還元できないものであり、世界の誕生と世界の根源的性格を意味している。芸術作品が常に世界の始まりを構成、再構築すると共に他の世界とは全く異なる世界を形成する。重要なことは、本質が魂の状態を超えると同時に、視点が個人を超えることにある。これがプルーストの独自性である。「失われた時を求めて」には幾つかの不調和が存在する。現在と過去は調和よりもむしろ争いに似ている。全体性でも永遠でもなく「断片」である。何ものも愛によって和解されたりしない。しかし、プルーストの不調和は「横断線」によって肯定される。多様なものを一つのものに還元したり集約したりせず、多様性を多様性として受け止め、断片を統一ではなく横断、肯定するのである。時間は継続によって一つの全体を作っているのではない。同時に幾つもの時間を確認するという究極の解釈者である。時間は時空も含め、まさにあらゆる可能な空間の横断線なのである。「失われた時を求めて」は文学の生産という意味で「文学機械」である。なぜ機械なのか、説明するまでもないが、真の芸術作品は生産的であり、それも真実の生産だからである。さあ結論に入ろう。前に本質的なものは思考の外側に、思考を強制するものの中にあると述べた。それは暗がりの中から自分の感じているものを浮かび上がらせ、ひとつの精神的等価物に変換することである。我々はそれを自由に選択することができない。偶然の不可避的な仕方こそ、その感覚が復活させた過去の真実を支配しているのである。思考を強制するものはシーニュである。シーニュはひとつの出会いの対象であるが、思考されるものは、まさに出会いの偶然性である。思考することはシーニュを解釈することである。思考する行為としての創造は常にシーニュから始まる。芸術作品はシーニュを生ませると同時にシーニュから生まれる。シーニュが感受性の限界点であり、究極の作用である。感受性だけがシーニュをシーニュとして把握し、知性、記憶、想像力だけが特定のシーニュによって意味を展開する。純粋な思考だけが本質を発見できる。科学とは異なり芸術における知性は後からやってくる。ロゴスではなく象形文字だけが存在し、その本質は出会いの偶然性と思考の必然性の上に成り立つのである。了
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