第11話「千のプラトー1」G・ドゥルーズ & F・ガタリ

文字数 1,542文字

 初めに本というものは対象も主題も無く、様々な素材や日付、速度などで構成されているだけで、一つの多様体である以外の何ものでもない。意味を求めてはならないし、理解すべき何かを探してもいけない。ただ単に受容体としての私との関係があるに過ぎない。エクリチュールは意味とは縁もゆかりも無く、読む人にとっての地図である。序章は「リゾーム」という概念について書かれている。リゾームとは根茎(地下の茎)である。地中に張り巡らされた根の地上への通路であり集合体である。表出しない出来事の地上への連絡通路。権力や社会に関わる出来事と連結している。リゾームは点ではなく線で構成される多様体である。これらは常に変化し続ける。途中で切れても構わない。そこからまた増殖して行くからである。その線は成長し積み重なり地層化される。そしてやがて領土化され、組織化され、意味される。我々が進化し、そして死ぬように。リゾームは地上に出て樹木になると息絶える。それは欲望の噴出に似ている。欲望が何かを生み出すのは常に地下にある時だからである。我々は地表という意識を持った時から樹木化を避けられないが、同時に意識を持つ以前の無意識の存在を分裂者の分析を通して知ることができる。ここではリゾームは意識下にあるものだと把握したい。実は二章、三章に苦戦した。この本は「資本主義と分裂症」という副題がある。「アンチオイディプス」の内容を把握していないとより難しいかもしれない。精神分析というものに疑問を投げかけ、分裂症から現れる素直に出てくる欲望こそが人間の意識の正体であり、本来を貫くものだという内容である。精神分析に関わっている方には失礼をお詫びしたいが、つまり、精神分析は表出したものに意味を持たせ、解釈し、有機化する。それが本当に正しいのですか? ということである。我々はシニフィアンとシニフィアンの関係の中で世界を形成している。記号と記号の関係と言い換えてもよい。それらは個々に意味など無い。なぜならそれらは常にシニフィアンであり続けるからだ。シニフィエはシニフィアンに内在しているわけではない。我々はシニフィアンとシニフィアンの関係から、自分の外にではなく内にシニフィエを解釈する。この時点で既に解釈でしかないというのに。シニフィアンは象徴みたいなものだ。決して何かを正確に表すことはない。シニフィアンがシニフィエを伝達するのではなく(それは例えば海を知らない人に海と言ってもわからないように)本当は解釈の伝達など存在せず、少し乱暴な言い方をすれば解釈すら存在せず、解釈があるとすればそれはシニフィアン以前の沈黙だけである。「顔貌性」とは我々が他人の顔色をうかがうようなものでシニフィアンの極みであるが、我々はそれに対しシニフィアンを投げ返すことでしかシニフィエに近づくことができないのである。実はそのことが序章に繋がっている。エクリチュールに意味など無いという根拠である。そしてこの本の中でもう一つ難解な概念が「逃走線」である。これはシニフィアンとシニフィエの関係について理解していないとわからない。単なる既成から逃れる自由への軌跡のことではない。どういうことかというと、シニフィエというのはシニフィアンを再認識した時、アレンジメントされた形で受容されるものなのだ。逃走線とはシニフィアン→受容体→シニフィアンと折り畳まれる際に途中でこぼれ落ちるものの軌跡のことで、我々がシニフィエだと思っているものは、アレンジメントされたシニフィエであり、オリジナルのシニフィエなどそもそも存在し得ないのである。「器官なき身体」とはこれら全ての意味性や解釈、有機的な関係、そして主体というしがらみのない状態のものをいう。
(2に続く)
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