第49話「有限性の後で」カンタン・メイヤスー

文字数 856文字

 二十代前半の頃、よく空に向かって手をかざした。様々な相対しているものの位置関係が時間と共に空間の中で常に変化しているという自論を持っていて、変化する相対的な位置関係こそ存在の根拠だと考え続けてきた。その考えは今でも変わっていない。自分の考えは、これまで触れてきた哲学者の中ではホワイトヘッドに近いと思っている。実はそんな中でメイヤスーを読んだものだから、私の理解が追いつかないだけかもしれないが、メイヤスーの哲学に新しさは感じなかったというのが正直なところである。かつてドゥールーズを読んだ時のような衝撃は得られなかったが、それでもデカルトから発してるであろう論理展開に非常に共感できた。メイヤスーは所謂相関主義つまり、我々がアクセスできるのは思考と物の相関関係のみであるという、カント以降に主流となった哲学を乗り越えようとしている。それはカント以前の形而上学的なものと相関しない「無関係」なものの存在を立証することで成し遂げようとしているように思えたが、メイヤスーはそれを絶対的な偶然性に貫かれた世界と言っている。それと同時に人間の思考から逃れられないとも認めている。だが果たして相関関係を逃れるものがあったとして、それは新しい哲学となり得るのだろうか? ここでまた自論とホワイトヘッドに戻るが、ホワイトヘッドは既に人間の思考から離れた物の存在を認めている。しかし物と物の相関関係を脱しない考えは、相関主義を越えようとすると人たちにとっては言い古されたものに違いない。けれども自分の考えは、物と物それ自体の相関関係とは別に、wada流に言うと「相対的位置」は相関主義を越えようとする無関係な物に対してもそれこそ無関係に覆い尽くす空間のような無関係さで、その相対的位置は存在し、これこそが変化し得る絶対性というか変化し続けることだけが真実であり続けられると考えている。そしてそれは人類が死に絶え、地球が、いや物理的な宇宙が粉々に破壊されたとしても、相対的位置だけは相対物を失ってさえ残り続けると考えています。了
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み