第39話 分からない視線<兄弟は他人の始まり>  解説あり

文字数 12,079文字

 昨日の夜色々考えていたとしても、生活習慣が体に染みついているのか、今日もかけておいた目覚ましが鳴る前に、カーテンの隙間から降り注ぐ太陽に誘われるように、いつもの時間に目が覚める。
 私はいつも通り寝る前に出しておいた動きやすい服に着替えて、
「そう言えばブラウスもだっけ」
 朱先輩の言葉を思い出して、ボタンの取れたブラウスを親に見られたら話がややこしくなるのは目に見えているから、親の目に触れないように鞄の中に入れて下へ降りる。
「おはよう愛美。今日も出かけるの?」
 朝ごはんの用意をしていたお母さんの目が腫れぼったい。
「うん。ご飯食べて少ししたら出るよ」
 昨日の事もあって、直接視線を合わせるのが気まずかった私は、朱先輩が気に入ってくれている飲み物を先に作ってしまう。
 そんな私に椅子越しにお母さんが振り返るのが雰囲気で分かる。
「……お母さん。昨日の事だけれど――」
「――ねえ愛美。今日の夜一度で良いから慶久を除いた三人で話をしてもらえないかしら」
「……」
 少しの空白の後、朱先輩の飲み物を作り終えた私はお母さんと喋るために、正面のテーブル席に腰かける。
「お父さんに話したの?」
 目を少し腫らしたお母さんに聞く。
「いいえ。話してないわよ。ただ後一回で良いからお父さんの話を聞いてあげて欲しいの」
 昨日私の感情が漏れた時に、あの子と何かがあった事はさすがに分かったって言う。返事を渋る私を見て
「お母さんも一緒にいるから」
 懇願してくる。何だろう。何なのかな。
 友達の話とかを聞いたり話したりしていると、いくらでも仲の悪い姉弟だっているはずなのに。
「私。話を聞いても喋らないかもしれないよ」
 昨日のお父さんと言い、今のお母さんと言いとても不思議な感じがする。
「ええ。それでも良いわよ。愛美がどうするかはお父さんの話を聞いてからでも良いわよ」
「……分かったよ。今日も夜ご飯食べてくるだろうから少し遅くなると思うけれど」
 私はお母さんが立ち会ってくれるならと首を縦に振って軽く朝ご飯を頂く。
「それじゃ行って来ます」
 私はブラウスの入ったかばんを忘れないように、ご飯を頂いた後、朱先輩との待ち合わせ場所に向かう。


「愛さんがやっと来たんだよ~」
 いつもの待ち合わせ場所の公園まで来たところで朱先輩がいつも通りに駆け寄って来てくれる。
「いつもありがとうございます。先週は本当にありがとうございました」
 昨日の優希君の話も、優希君に対する気持ちに対しても、朱先輩の言葉が無ければ私の心は折れていただろうから、朱先輩に心からのお礼を言ったつもりだったのだけれど、七分丈の薄いミント色の服と足首までの長さのラベンダー色のギャザースカートに身を包んだ朱先輩が目尻を少し下げて、私の顔をじっと覗き込んだ後
「……ちょっと待ってね」
 手洗い場に小走りで行った後、濡れたハンカチを手に
「愛さん。今日は時々で良いからこのハンカチを目に当ててね」
 そのまま渡される。
「えっと。どうしたんですか?」
 少し悲しげな朱先輩の表情に少しの不安を持って尋ねると
「昨日かな? また愛さんに悲しい事があったんだね」
 また、私の事を言い当てられる。
 この時点で隠し通す事は半ば無理だと悟った私は
「今日朱先輩の家にお邪魔したときに話します」
 隠す意思が無い事を伝える。
 それでも朱先輩の目が悲しげに揺れていたので
「えっと?」
 朱先輩の思いは伝わってくるのはもう今更だから、何とか朱先輩に笑って欲しいなって思っていると
「わたし、最近愛さんの笑ってる顔をあんまり見てないと思うんだよ」
 朱先輩が答えを教えてくれる。
 そう言えば今週も色んな事があったからあんまり意識はしていなかったけれど全然笑う事が無かったわけじゃない。
「そんな事無いですよ。今週も色々ありましたけれど、ちゃんと幸せな時間もありましたよ」
 朱先輩言われた通り、水に濡れたハンカチを時折目に当てながら、優希君との二人だけの放課後の時間を思い出すと苦い気持ちも沸くけれど、それ以上に幸せな気持ちがあふれてくる。
 特に来週は楽しみな事もあるから。
 優希君の事を思い出した私の表情を見て、朱先輩の表情が初めて綻ぶ。
「幸せな時間って、空木君との時間の事かな?」
 朱先輩の少女のような表情で、今日の街の美化活動が始まる。


 みんなといる時は静かで普通の男の子なのに、優希君と二人きりになったとたん私をからかって来る事なんかを朱先輩に話すと、自分の事のように喜んでくれる。
「空木君も、愛さんにそこまで思われるなんて果報者だよ」
 優希君の事を人に話す事が無いから、なんだかとても新鮮な気持ちになる。
 まだお付き合いしているわけじゃないけれど、こう言うのを“のろける”って言うのかな。だったらのろける人の気持ちがわかる。
「でも私の気持ちなんて全く分かってない空木君は、いっつも私の事天然だって言ってくるし、私を恥ずかしがらせて遊んでくるんですよ」
 朱先輩に話しながら優希君の事を考えていると
「ゴミ。持とうか?」
 また朱先輩に男の人が声をかけてくる。ホント朱先輩は――
「えっと。お姉さん。ゴミ持ちましょうか?」
 返事をしない朱先輩の方を見ると、
「……愛さんだよ」
 朱先輩が私に咲き誇るような笑顔を私に見せて――って私?!
 私は恐る恐る男の人の方を見ると
「――っ?!」
 思いっきり視線が合って思わず朱先輩の腕を握ってしまう。
「びっくりさせちゃったかな?」
「い、いえ。大丈夫です」
 朱先輩と並んでいてまさか私に声をかける人がいるなんて思ってもいなかったから、ホントはびっくりした。
「この子は今日もわたしとペアを組んでいますので」
 朱先輩が私の頭に優しく手を置いて、私の代わりに答えてくれる。
 悪い事しちゃったかな。もう少し男性対する耐性って言うのかな。をつけないとダメだなって思いながら朱先輩の言葉に去って行く男の人の背中を見送る。
 今日はどうしたのか同じような事が2・3回あっていつもの河川敷に到着する。
「今日はあんまりゴミを拾えませんでしたね」
 いつもなら道の半ばでいっぱいになるゴミ袋をトラックに積む。
「それでもわたしは愛さんの幸せそうな話を聞けて良かったんだよ」
 朱先輩も同じようにゴミトラックにゴミを積みながら、少し不満そうに言う。
 その後河川敷のゴミ拾いと児童たちの相手をした後、今週も朱先輩の家にお邪魔する。


 朝はとってもご機嫌だったのに、朱先輩の家に向かう最中には
「全く世の中の男性には失礼しちゃうんだよ」
 前に聞いたのと一字一句違わない言葉を朱先輩が、不機嫌さを隠す事もなく口にする。
「えっと……何かありました?」
 考えても分からない。
「愛さんがかわいいのは前からなのに、どうして愛さんに好きな人が出来たとたんに声をかけ始めるのかな?」
 その答えを聞いてもピンとこなかったから、朱先輩の家に上がらせてもらって先にブラウスだけを忘れないように渡してしまってから
「今日声をかけられたのはたまたまだと思いますけれど、私にその……好きな人が出来たのって関係ないような?」
 優希君を思い浮かべて私の顔が赤らんでいるであろう表情で朱先輩に聞くと
「恋する女の子は無敵なんだよ。だから愛さんに涙させた理由をわたしにもちゃんと教えて欲しいんだよ」
 私の前にココアを置いて、さっきまで一緒に笑ってたはずの朱先輩が真剣な表情で私の目を見つめてくる。
「泣いては……いませんよ」
 朱先輩が紅茶を一口、口に含む。
 朱先輩はあの子と一度だけ電話越しに話しているから、朱先輩はあの子の事にすぐに気付くかもしれない。
 そうすると今私が話してしまうと、朱先輩が私たちの事を邪推されたことに気付くのは時間の問題になってしまう。こんなに私の事を大切に想ってくれている朱先輩を悲しませたくない。嫌な気持ちにもなって欲しくない。
「……空木君の事は大丈夫なんだよね」
 ……何だろう。朱先輩の空気が明らかに堅くなってる。
「そりゃあ色々あるので楽しい事ばかりじゃないですよ」
 私の不用意な一言が蒼ちゃんを追い込んでしまった事がどうしても、頭をよぎる。
「……じゃあ学校の友達?」
 帰ってからのお父さんの話もある。私が我慢すれば万が一にも朱先輩が嫌な思いをする事は無くなる。
「私の一言で大切な親友を追い込んでしまいました」
 だったら私の事より親友の蒼ちゃんの事を何とかしたい。何とかして欲しい。
 蒼ちゃんのささやかな望みは決して高望みなんかじゃ――
「――それは、愛さんが涙した本当の理由……じゃないよね」
 朱先輩の瞳が揺れて、とうとう答えを言い当てられてしまう。
「愛さん。弟くんと何かあったんだね」
 答えを言い当てたにもかかわらず、朱先輩の空気は堅いままだ。私をこんなにも大切にしてくれる朱先輩にもこんな表情っをさせたくなかったのに
 ――それ以上は高望みだって分かったから――
 蒼ちゃんの諦めたあの声が忘れられない。
「参考までなんですけれど、どうして私の原因が、泣いた事が分かったんですか?」
 余計な心配をかけたくなくて、今後の参考にしようと朱先輩に教えを乞う。私は、私の周りの人にはいつだって笑顔でいて欲しいと思うのだ。
「愛さん。それ聞いてどうするの?」
 朱先輩の事だから私の考えていることくらい分かっているのだと思う。朱先輩の真剣な表情の中に、一番初めの時のような怖さが入り始めているのが雄弁な証拠だと語っているような気がしてならない。
 私が温くなったココアを頂こうと手を伸ばしたとき、横に置かれたハンカチに目が留まる。朱先輩が私に濡れたハンカチを渡してくれた時、なんて言ったか。
「そのハンカチはもう洗濯するんだよ」
 私の視線の先に慌てたように、ハンカチを手にしてしまう。
「すいません。洗面台をお借りしても良いですか?」
 私が席を立とうと――
「愛さん。わたしとの約束忘れた? それとも約束守ってくれない?」
 ――したところで、私の両肩を押しとどめるように朱先輩の両手が添えられる。
 そしてそのまま私の正面に回り込むようにして
「ちょっと失礼するんだよ」
 そのまま寝転んでしまう……私の膝を枕代わりにして。
「えっと、洗面台をお借りしたいんですけれど」
 当然そうなると私は立ちあがる事も、鏡を見る事もかなわなくなる。
「愛さんは鏡なんて見る必要ないんだよ。私が代わりに見てあげるんだよ」
 朱先輩が下から手を伸ばして、私の背中を優しく叩く。
「目。ですね」
「……」
 朱先輩が無言で私を見上げる。
 何かで読んだことがある。涙には塩分があるから例え涙をこぼさなかったとしても目に涙がたまるだけで比較的皮膚の薄い瞼のあたりは炎症を起こしやすい事を。
「弟くんに暴力を振るわれた?」
「いえ違いま――」
 言わされたことに気付くも少し遅くて。
「じゃあ言葉の刃だね」
 もう話すしかなくなっていた。


――――――――――――—☆ 心の鍵の解き方 ☆――――――――――――— 

「私男の人から見たらはしたないみたいなんですよ」
 愛さんが話してくれたのを受けて、もう大丈夫かなと判断したわたしは一度起き上がってから先週と同じように愛さんが少しでも話し易い様に、愛さんにもたれるようにして、肩に頭を置いて、お互いの顔が見えないように座りなおす……手だけは握って。それにしても本当にこの子の鍵が固くなりつつある。
 わたしの心配事が現実になりそうで、わたしの心が張り裂けそうになる。
「それは弟くんが?」
「あの子と……お父さんに」
 愛さんが名前を呼ばずにあの子と言った事にもびっくりしたけど、それ以上に信じられない家族が飛び出してくる。
 でもせっかく、何とかわたしに開いてくれた心なのだから、乱暴な事も閉じるような事もしたくない。
 だからわたしは逸る心を押さえつけて愛さんの気持ちに寄り添う。
「そっか……男の人二人に言われたんだ……辛いね」
 身内に。それも比較的信頼の高いお父さんに言われたとなると、同じ女の立場としてはやるせない気持ちでいっぱいになる。
「私って好きな人と一緒にいるだけでもみんなからそう思われてしまうのかな……私って信用無いのかな?」
 愛さんがポツリとこぼした言葉にわたしの胸は悲鳴を上げる。
「わたしは前にも言ったけど愛さんを信用してるし、世界中が敵になったとしてもわたしだけは味方なんだよ」
 だから何があっても愛さんは一人にはならないって事を、今も一人じゃないって事を伝えないといけない。こんなにも良い子を一時(いっとき)でも一人にしたら駄目だ。愛さんがわたしの手をキュッと握り返してくれる。
 ここまでを無事に伝え終えられたなら、ほんの一瞬でも愛さんを孤独にしたくないわたしは次の一言に緊張する。
「辛いだろうけれど、しんどいだろうけれど愛さんのお父さんが正確になんて言ったか覚えてる?」
 愛さんにわたしが一滴でも疑っていると思われてもいけない。
 だからかなり高い信頼関係が必要にもなる。
 わたしは愛さんの手を“にぎにぎ”する。わたしは愛さんの隣に、近くに居 “続けてる” よって伝えるために。
 それくらいには傷つけられた言葉を自分で言うのは辛い事。
 後は優しく“にぎにぎ”を続けて愛さんが喋ってくれるまで辛抱強く待つしかない。
「……お父さんには、もしかして……男の所に、泊ったのか?」
「……あの子には……男と一緒に寝て、オトコとよろしくやってんだろって私の胸とか、足とか見ながら言われ……ました」
 壁にかかっている時計の秒針が耳障りになって来た頃合い。愛さんが口を開いてくれる。
「ありがとう話してくれて。そして辛い事を聞いてごめんね」
 まずはわたしに心を開けてくれた事に感謝を。そして自傷させてごめんね。わたしはこの二つは相手にまずは伝えるようにしている。
 考察や感想、対策なんて後で良いから。それよりも目の前にいるわたしにとって大切な女の子が第一なのだ。だから“にぎにぎ”もやめずに続けてる。
 でも、お父さんの方は娘を大切に思うが故だったので、ほっと一息つける。年頃の娘に言うにはあまりにも浅慮だとは思うけど。
 ただ、弟くんの方は相当厄介な事になってる。もうわたしの声も忘れたであろう三年も経てばさすがにもう一度電話か直接会って喋るかしないと無理かもしれない。
 だからって愛さんを放っておく理由にはならないので、お父さんの方の糸を解(ほど)こうと方針を決める。
「愛さんはお父さんの事を許せない?」
 一旦“にぎにぎ”を辞めたわたしの口の中が乾く。
「せめてあの子の前で言わなければ……」
 わたしと愛さんだけしかいない部屋の中、秒針の刻む音だけがゆっくりと流れる時間を教えてくれる。
 わたしは予想を確信に変えるため、もう一つ質問する。
「そんなお父さんはもういらない?」
 一呼吸分の時間の後、
「……要らないとか考えた事無いです」
 愛さんの答えに、優しさに今だけは甘える形で胸を撫で下ろす。
 それはもう愛さんの中にいて当たり前の存在だったから。
 でも、少しだけ……ほんの少しだけ……わたしの胸がチクリとする。
「お母さんは愛さんの事、大切にしてくれているんだよね」
 今の会話の中に唯一挙がって来なかった家族、そしてこの愛さんの純真と言っても良いくらいのまっすぐな性格。
 聞くまでも無い事だけど愛さん自身に再認識してもらう。
「お母さんだけじゃなくて、お父さんも……大切に……して、くれてました」
 そっかちゃんと自分で分かってるんだ。語尾が弱くなっていくのを聞いて改めてこの子は聡い子だと思いなおす。そして大切なものは見失ってもいない。
 語尾が過去形なのは、今はお父さんの事が信じられない気持ちなだけだから。
 ……わたしもこのくらい純真だったら、今とは違った結果になっていたんだろうか。わたしは改めて気合を入れて愛さんから一度離れて、すぐ隣で正座をする。
「次は愛さんの番なんだよ」
 わたしは正座した太ももをスカート越しに叩く。そこに頭を乗せてもらうように。
「えっと?」
「次は愛さんを膝枕したいんだよ。愛さんばっかりずるいと思うんだよ」
 ここから先は愛さんにとって辛い話はもうない。
 わたしが愛さんの笑顔が咲く瞬間を見たいだけのただのワガママ。
 わたしは頬を膨らませて愛さんを見つめる。
「……わかりました。失礼しますね」
 愛さんが遠慮がちに頭を乗せてくるので、愛さんに力を抜いてもらうためにと、愛さんの短い髪に優しく優しく愛おしむように手櫛を入れる。
 下から見上げる愛さんの視線とぶつかったところで、お父さんとの事を、絡まった糸を解きにかかる。
 今度は“にぎにぎ”ではなくゆっくりゆっくり手櫛をしたまま。
「お母さんも、お父さんも愛さんの事がとっても大切だから、そう言う言い方にもなるし、そう思っちゃうんだよ」
「……私ちゃんと朱先輩……友達の家に行くって言ったのに」
 愛さんの目が寂しそうに揺れるのを見て、わたしの胸が切なくなる。
「人間って言うのは先に悪い事を考えるように出来てるんだよ。でも悪い事が全部無くなっちゃうと、後は良い事しか残らないよね」
 基本人間と言うのはマイナス思考が中心となるように出来ている。
 例え本人がポジティブだと前向きだと言っても、思っていても人間は基本マイナス思考の生き物なのだ。プラス思考の人は、マイナスが二つ掛かってプラスになってるだけで、その人本人がプラス思考でも何でもない。マイナス思考は人間の持つ防衛本能なのだから。
「例えばね愛さんの大好きな空木君が、雪野さんと仲良く喋っていたらどう思う? 二人きりで遊んできた話を目の前でされたらどう思う?」
 愛さんからイライラした雰囲気が伝わる。実際にそれらしい事でもあったのかな。
 さっきの幸せそうに空木君の事を話している姿と言い、愛さんがちゃんと恋愛しているのが嬉しくて仕方がない。
「夏休みみたいな長期の休みに二人ともが別々にどこかに泊まって、旅行に行ったとしても話しだけ聞いていたら本当は二人でどっかに泊りがけで行ったのかな? とか邪推しそうにならない?」
 話の途中で愛さんがわたしの顔を見たくないのか、顔を見られたくないのか横を向いてしまう。
「……」
 わたしは愛さんの髪を梳くのを止めて、少しだけ膨らんだ頬を潰さないようにゆっくり優しく人差し指の背の部分で撫でる。
 それにしても愛さんの頬も綺麗に治って本当に良かった。
 これで愛さんの頬に跡が残ったら、わたしが愛さんの代わりに話をつけに行っていた。よく見ると愛さんのまつ毛も震えている。少しだけ膨らんだ頬と言い、
 そんなかわいい“やきもち”にこの子は本気なんだって分かる。伝わる。
「でもそれは空木君の事を信用していないってわけじゃないって思うんだよ。愛さんなら空木君じゃなくて、雪野さんに腹立てるでしょ」
 わたしの言葉に心底驚いた表情でわたしの方を向く愛さん。
 本当に信用していなければその怒りは空木君に向くはずだけれど、逆に信用していればその相手の方に行くのは、心理的には当たり前の事。
 そして見る見るうちに顔全体が真っ赤になって行く。
 わたしは再び愛さんの髪を梳き始める。
「朱先輩。どっかで見てたんですか?」
「わたしは愛さんの事なら何でも分かるんだよ」
 でも実際はそんな綺麗なもんじゃない。自分の子供、動物のオス同士が一匹のメスを取り合う為の闘争本能、種の本能が形を変えただけの事だ。
「それとおんなじでね。大切な人、相手だからついついその先の知らない相手の事が気になっちゃうものなんだよ」
 愛さんが考え込んでいる。愛さんならどこにお父さんを当てはめるのかな。
「でもね。勘違いして欲しくないのはね、愛さんが悪いってわけじゃないって事なんだよ」
 愛さんの場合は必ず言っておかないといけない。
 徹底して他人を優先してしまうこの子には必ず言っておかないといけない事。
「男の人ってすぐにそう考えちゃうからホント嫌だよね。わたしならすぐにその場で親子喧嘩だよ」

 ――わたしは深い郷愁に駆られる――

「……朱先輩?」
 今はわたしの話は胸の内にしまっておく。わたしは愛さんの呼びかけにかぶりを振ると
「だから愛さんに必要なのはお母さんとお父さんお気持ちを分かっておく事だけで良いんだよ。それ以外は全部男の人であるお父さんのせいにしちゃえば良いんだよ」
「お父さんのせいにって……今回は確かにそうですけれど」
 今日初めて見せるわたしに対しての信頼の笑顔に、わたしは愛さんを抱きしめたい衝動に駆られる。
「だってこっちは女の子なんだし愛さんとわたしの間でそんな事を考える男の人が悪いんだよ」
 もう愛さんも立派に恋愛してる女の子なんだから。
「もう一回言うね。今日も言うね――女の子はちょっとくらいワガママで良いんだよ。愛さんの場合はもっとワガママになっても良いんだよ――」
 愛さんの笑顔が戻ったところで、
「じゃあ少し遅くなったけど、今からお夕飯なんだよ」
 愛さんと二人で夕食の準備を始める。


――――――――――――☆ 心の鍵の解き方 完 ☆―――――――――――――


 夕食も頂いて、朱先輩の家からお暇する時
「今日愛さんの家ってご両親いるんだよね?」
「はい。今日はいますよ」
 私の返事に少し考え込んだ後
「弟くんの携帯番号を教えてくれるかな?」
 朱先輩のお願いに驚く。
「あの子のですか?」
「そう。三年前は固定電話しか聞かなかったから」
 またあの子と何かを話すつもりなのかな。
「大丈夫! 絶対に愛さんの悪いようにはしないんだよ」
 朱先輩の事は疑っていない。ただ朱先輩にあの子が何を言うのか、どうやってあの子の携帯番号を朱先輩が入手したのかとか、色々考える事はあったはずなのに
「愛さんが席を外した時に勝手に見せてもらった事にするんだよ」
「いやそれはちょっと……」
 朱先輩が手のひらを上に手を差し出す。
「……愛さんがわたしを信用してくれない」
「……」
「愛さんがまたわたしに壁を作ろうとするんだよ」
「……分かりました。電話番号だけですよ。あと私が教えた事にして下さいね」
 私は朱先輩にも根負けする形であの子の番号を伝える。
 出るか出ないかは分からないけれど。
「愛さんがわたしを信用してくれていて良かったんだよ~」
 そんなの当たり前なのに、何を言ってるんだか。
 そして帰り際、またいつもの、そう。本当にいつものやり取りをする。
「愛さん。わたしと愛さんの間では遠慮は無しなんだよ。本当にいつでも何時でも
“どんな事でも”連絡をくれて良いから。私の前では取り繕う必要は無いんだよ」
 朱先輩の家の玄関のノブを握る私の手が止まる。
「わたしはどんな事があっても愛さんの味方だから。だから愛さんはもう少しワガママになっても良いんだよ」
 そして、今日はその上さらに一言をもらう。
「次に今日みたいに隠そうとしたら一日中お説教なんだよ」
 やっぱり朱先輩は全部分かってたんだ……。
 私は握っていたドアノブから手を放して、朱先輩に向き直る。
「じゃあまただね」
 朱先輩の言葉が身に染みる。私は目に涙が浮かぶのを悟られないように、
 朱先輩に背を向けて、背中越しにお礼を言う。
「今日もありがとうございました」
 涙声にはならなかったけれど、朱先輩なら気付いているとは思う。
「……」
 朱先輩が無言で私を見送るのを背中で感じながら、私は雲が広がる夜道、出来る限り人通りの多い道を選んで帰路に就いた。


「ただいま」
 朱先輩の話を聞いて不思議とお父さんに対する嫌悪感は消えている。
 ただあの子の前で言ったお父さんの言葉はまだつっかえたままだ。
「愛美! 本当に済まなかった」
「おかえりなさい」
 私が考えながらリビングに足を踏み入れると、テーブル席に着いたお父さんが頭を下げる。そう言えば三人で話がしたい、お父さんの話を聞いて欲しいってお母さんが言ってたっけ。私は一つため息をついて
「お父さんの気持ちは分かったから自分の子供に頭を下げないでよ」
 朱先輩の話を聞いたからか、驚くほどスムーズに言葉が出てくる。
 私も席に着いたのを雰囲気で感じ取って
「許して……くれるのか?」
 恐る恐る上げたお父さんの顔が所々赤い。
「なんであの子の前であんなこと言ったの? あの子にはまだ早過ぎるし、あの子の前で言う事じゃないよね?」
 親の気持ちは朱先輩の言う通りなんだと思う。
 符合するところも多いし。でもやっぱりあの子に聞かせる話ではないとしか思えない。
「それに関しては申し開きのしようもない」
 私は自然に胸を隠すように腕を組む。女同士であるお母さんには私の気持ちが分かったのか
「慶久が “次に” 何か言ったりして来たりしたら、お母さん家に戻ろうと思うの」
 私の予想以上に衝撃的な言葉が出てくる。
「ああ。やっぱり年頃の娘と息子を二人きりにしておけないからな」
「でもそれでお父さんとお母さんは幸せ?」
 これは前にお父さんに一度聞いている。
 あの時は言葉に詰まったお父さんだったけれど
「お母さんとの幸せは減るかもしれない『だったら――』でもな! 親にとっては子供の幸せが一番なんだよ。それに今回はお父さんの不用意な一言が原因だから、子供の幸せを第一に考えるのは当然なんだ」
 私の言葉に止まる事無く、つまる事無く言い切る。
「だから愛美は……娘らしくワガママを言ってくれたら良いのよ」
 お母さんもまた目を赤くしてお父さんの補足をする。
「お父さんとお母さんの気持ちは分かったけれど、私はもうあの子とは喋る気はないよ」
 投げられたお弁当箱、私に向ける視線、あの乱暴な言葉遣い、それにそこまで蒼ちゃんが良いなら、悪いけれどもう私の手には負えない。
 私の言葉に泣き出すお母さん……でもどうしてそこまで……
「愛美。もしお父さんとお母さんがいなくなったら、愛美と慶久の二人だけで力を合わせなくちゃならない場面も出てくるんだ」
 いなくなったらって……どこか体悪いのかな。
「あの子と協力して?」
 今の私には無理な相談だよ。
「さっきもお母さんが言った通り、次に何かがあったらお母さんには家に帰ってもらう。慶にもこれでもかって言うくらいには言い聞かせた。だから――」
「――だから

水に流せって?」
 あの時の事はお母さんに言ってないはずだ。だから話が途中分からないかもしれない。
「……」
 お父さんの言葉が止まる。
「男には“カッコ悪い”はショックを受けるから言うな。女には“他の男と寝た”って言うのは許せ……何で女ばっかりなの? ひどいよ……」
 ホント女って損だし嫌だ。
「お父さんの事が腹立つなら口を利かなくても良い。慶久が話しかけても嫌なら返事をしなくても良い。愛美から折れる必要もない。愛美の心の整理がつくまで俺たちは待つからいや、お父さんが原因だから待つって言い方は偉そうだな」
「だけど、何かあった時だけで良いから二人で協力して欲しいのよ」
 お父さんの言葉をお母さんが引き継ぐ。
 二人共のお願いに私の心が揺れる。
「ねえ。どうしてそこまで? 友達の家もそうだし、他の家庭でも姉弟・姉妹の仲が悪い家なんてたくさんあるじゃない。どうしてそこまでするの?」
 でもこれが分からない。もちろんこの質問自体私の気持ち、信条に反している。
 家族と時間はとても大切なもののはずだから。
「……」
 お母さんは嗚咽を漏らしている。
 お父さんはだんまりで私の方に視線を合わせようとしない。
「時が来たら必ず言う。今はまだ言えないんだ」
 それは健康の事か……それともお父さんとお母さんの夫婦だけの話なのか。
 今の私には判断がつかない。
「厚顔無恥を承知で言うと俺たちとどうこうなるまでに、ちゃんと姉弟で仲直りしてくれるのが、俺たちの願いなんだ」
 ……最悪の場合はお母さんが帰って来てくれる。
 そうするとあの子との二人だけの生活は終わる。
 そうすると怖さの一つは解消される。
 だったら意識過剰にならなくて良いのかもしれない。
 ただどうしてもお弁当箱だけはフラッシュバックを起こす。
「洗濯だけはこっちがする。お弁当と夜ご飯は知らない。何かあった時だけ協力する」
 言っててやっぱり思う。これって私の信条にも反するし、私の求める、考える家族なのかなって。
「ああ……それで十分だが……名前で呼ぶのは抵抗かるか? 無理か?」
「……分かった。前の通り慶って呼ぶようにする」
 朱先輩と話をしていなかったら絶対に出なかった言葉だった。
「ありがとう。本当にありがとう。それと本当に済まなかった」
 お父さんが私の言葉にもう一度頭を下げる。
「今の愛美の意志を慶に伝えても大丈夫か?」
「大丈夫よ。ちゃんとお母さんも一緒に話をするから」
「……分かった。お願いするよ」
 どの道、慶と喋りたくない私には両親に任せるしかないのだから。
 私は慶の部屋に向かう両親の背中を見て、二人の健康状態を心配せずにはいられなかったけれど、お父さんとお母さんの雰囲気を感じていると最後までそれを聞く勇気もまた、持てなかった。

(解説)
https://novel.daysneo.com/author/blue_water/active_reports/112041553522289168315f0afe3eebcf.html

―――――――――――――――――次回予告―――――――――――――――――

          「おはよう愛美。今日も全校集会?」
           迎える月曜日。月に一度の全校集会
            「恥ずかしいから辞めてって」
               更に重なるトラブル
          「私が誰のカレシに手を出したって?」
               勝手な噂が走り回り

            『いつもありがとうね愛ちゃん』

            40話 5つの視線<男女の思惑>
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