第48話 信じるまでもなく事実

文字数 1,972文字

 カナエと紫華(シハナ)は雷門の前の通りにある蕎麦屋に入った。二階席は地方出身者の団体向けの座席で昼時を少し外れた時間だったのでゆったりと座れた。

「天ぷらそば食べてもいい?」
「いいわよ。海老天でしょ?」
「ううん。わたしはかき揚げが好きなんだ」

 カナエはわたしも食べるからと言ってかき揚げ天蕎麦の他に天ぷらの盛り合わせも取ってやった。
 さっきまでは命の遣り取りをするような修羅場はあったがこういう些細なところで紫華が自分に甘えてくれることがカナエは嬉しかった。

「紫華」
「はい」
「まだわたしはよく整理ができてないんだけど紫華が言う『偉い人』って、神さまのこと?」
「・・・多分そういうことなんだろうけど、わたしにとってはなんとなく身近な人のような感じがして。もちろんわたしなんかが及ばないような偉い人なんだけど、『恩人』とでも言うのかな・・・」
「どんな人なの?」
「思い出せない。でも最近よく見る『空から落ちる夢』と関係あるんだと思う」
「天国とか天界、ってこと?」
「うん。多分そういう類のものだと思う。カナエはわたしの言ってること、信じてくれる?」

 カナエもやはり特別な感性の持ち主だった。紫華の問いにこう返した。

「信じるもなにも事実なんでしょう? 紫華の言ってることは」
「え」
「わたしが信じようが信じまいが事実はそのままだから。紫華が断片的にでも記憶に残ってるんだったらそれは事実でしょう」
「ありがとう」

 蕎麦屋から出てなんとなくぶらぶらするふたり。
 紫華が空を見上げて言った。

「スカイツリー、昇りたいな」

 思ったほど混んでいなかった。修学旅行生もそれなりに居るが、東京在住でいつかは登っておこうと考えたひとたちがやって来ているのだろうと思った。

 星空が映し出されたようなエレベーターの内部。これだけのスピードで上昇すると耳が、キン、となるものだろうがそういうことにも配慮したメカニズムなのか、耳の違和感を覚えないままに頂上に到着した。

「わあ。カナエ、見て」

 そう言って下界を指し示す紫華。
 大塚のマンションから池袋が近いのでサンシャインには何度か昇って下を見たことがあったが、その景色はミニチュアを見るようなそれだった。
 だがスカイツリーからのそれは高所恐怖を感じることすらないぐらいの高さからのそれであり、美しさしか感じなかった。(たと)えるならば山頂の一部が前方に出っ張っていてそこから大地を眺めるような景色だった。
 カナエは思い切って紫華に訊いてみた。

「その夢ってこういう所から落ちる感じ?」

 紫華は間を置く。慎重に言葉を探しているようだ。

「少なくとも飛び降りた、ってわけではないみたい」
「・・・落ちた、という感覚じゃないってこと?」
「なんだろう。スカイダイビングとかやったことないから分からないけど、着陸する前提で飛んだみたいな」
「そのひとは側にいたの?」
「気配はなんとなく覚えてる。でも、顔とか声とかは思い出せない。女なのか男なのかも分からない」
「そう・・・もしかして紫華って、かぐや姫?」
「ふ。カナエって意外と乙女なんだね」
「あ。言わなきゃよかった」
「ね。カナエ」
「うん」
「腕、組んでもいい?」
「・・・いいよ」

 紫華はカナエがパンツスーツのポケットに手を突っ込んだ腰の辺りにそっと体を寄せるようにして腕を絡めた。カナエはポケットに手を入れたまま腕をすぼめて紫華をもっと引き寄せた。

「あったかい」
「暑くない? 空調が」
「ううん、あたたかい、カナエの隣は」
「ふふ。ならよかった」
「わたしはもしかしたらカナエのことが一番好きかもしれない」
「ほんとに?」
「うん。だって、信じるどころか『事実』って言ってくれたのがすごく嬉しかった」
「ふふ。わたしも紫華のこと、好きよ」
「恋愛の対象として?」
「まさか。でも、少しはあるかも」
「ダメだね、わたしたち」
「ほんとね」

 そんなに長い時間居たつもりはなかったのだが、太陽が徐々に橙色の視覚を増してきた。柔らかではなく鋭く射るようなオレンジだが、だからこそそういう声がふたりの周囲から上がった。

「おお・・・」

 それは同じ展望の場所に居るひとたちの感嘆の声。夕陽に対するものでもあり、一部の人は寄り添う女子ふたりのシチュエーションに感動を覚えたからなのかもしれなかった。

 カナエは訊いた。

「まだそのひとの所へは戻らなくてもいいのでしょう?」
「・・・分からない」
「紫華」
「はい」
「あなたのことを想うと涙が出るの」
「・・・うん」
「そばにいて」

 返事をしない代わりに紫華はカナエにくっついた腕に力を込めた。カナエはそっとそれを離して紫華の背中に回る。ストールのように優しく手で首を包むように抱き、片方の掌で紫華の髪をブラシで梳くように撫でた。

 愛撫のように何度も何度も。

 日が完全に暮れ果てて月の光が力を増すまで、ずっとそうし続けた。


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