幕間:ある侍女の境遇

文字数 6,795文字


 勇者が二人同時に存在するようになったという異例中の異例が発生した日の翌日に、その勇者のうち一人が城から姿を消したという事実は、大きな騒ぎも起こることなく受け入れられた。

 最初に彼が居なくなったことに気が付いたのは、彼の世話係になっていた私だ。
 彼が城を出ることになったことは昨夜のうちに、他でもない彼自身の口から聞いていたし、朝にも上役から正式に連絡があったので把握していた。だから、準備もあるだろうと少し時間を置いて、昼前くらいに彼の部屋を訪れたのだ。
 扉をノックをする。少し待っても、何も反応がない。
 彼の状況や見知った性格を考えると、今日という日にこの時間になるまで寝ている可能性は低いとは思ったものの、まぁ一度では反応がないことはままあることかなとも思ったので、もう一度ノックをした。今度は少し大きな音を立てるように、強く扉を叩いた。しかし、それでも反応がなかった。
 流石に不審に思い、扉を開くか否か迷った一瞬迷ったものの――客人とは言え、部屋の主の許可なく部屋に入ることは許されない――思い切って扉を開くことにした。
 迷った瞬間に、私が昨夜この部屋の前を辞するときに彼からもらった労いの言葉が頭を過ぎったからだ。
 よくよく考えれば変なのだ。
 だって、あの言葉は、あのタイミングで言わなくても良かったはずだ。
 なぜなら彼は今日、この城を去る前に金銭を受け取る話になっていたからだ。彼の性格を考えれば、受け取らないという選択肢はないはずで。だから、城を去るその時か、私が部屋を訪れた今日この時に口にしても良かったはずなのだ。
 だというのに、まるでもう言う機会がないからというように、昨日言わなければならなかった理由は何なのか――ただの気紛れだったのかもしれないし、深く考えるようなことでもないのかもしれなかったけれど。
 今の状況を考えると、きっとこの扉が向こうから開かれることはないのだろうと感じてしまったから、普段なら決してしないことを決心できたのだろうと、そう思う。
「…………」
 もう一度だけと再度ノックをしてみたけれど、少し待ってみてもやっぱり反応はない。
 気持ちを整理するために深く息を吸い、吐いた後で、扉を開く。
 果たして扉を開いた先に広がっていた光景は、予想していた通りのものだった。
 まず目に入ったのは、開かれたまま揺れている窓だった。次に部屋の中を見回せば、シーツが剥がれた寝台と、その上に置かれた一冊の本が目に留まる。
 そして、それ以外には何も無い。彼の姿は、確認できなかった。
 もしかしたら、彼は城のどこかにいったん移動しただけかもしれないという考えが頭に浮かんだものの、一笑に付して却下した。もしそうであれば、寝台のシーツが無くなっているなんてことはないだろうし、他の者を通してそのことが私に伝わっていなければおかしい。私は今日、彼を王の下に案内するという仕事のためにこの部屋を訪れているからだ。
 それに、もっと部屋の様子を観察すればあるべき荷物が無くなっていることもわかる。加えて、寝台の上にこれ見よがしに置かれた書置きらしきものもあるのだ。
 ――ここまで状況が揃っていると、流石に推論を否定することはできなかった。
 彼は昨夜、誰にも言わず、誰にも気付かれることなくここを立ち去ったのだろう。
 なぜそんなことをしたのかはわからないが、彼がこの城にもう居ないということは間違いない。
 寝台に近づき、本の下敷きになっている布きれを取る。いかにも雑に破きましたと言わんばかりのそれには、赤黒く、かすれた跡が残っている。その跡はかろうじて読める程度の拙い、崩れた文字だったが、なんとか意味は読み取れた。
『勇者が二人居る事に疑問を持て』
 ただ、わかるのは文字が持つ意味だけだ。彼がどうしてこんな言葉を残したのか、その意図はわからない。
 しばらく彼が残した文字を見つめた後で、溜息を吐いて視線を外した。
 少しだけ彼の意図について考えてみたものの、答えらしきものは何も思い浮かばなかったからだ。
 思い浮かぶのは疑問だけだった。なぜ彼はこの言葉を残したのか。この言葉を受け取った人間に何をして欲しいのか。金銭を受け取る機会を捨ててまでこの城から出ることを優先した理由は何なのか――わからないことが積み重なっていくばかりなのだから、溜息も出ようというものだろう。
 布を落とさぬようにポケットにしまい、開きっぱなしの窓を閉める。部屋を片付けるか迷ったものの、まずは報告が先だろうと判断して部屋を出た。
 足を向ける先は、王の居室だ。
 報告内容が報告内容だけに足取りは自然と重くなるものの、報告しないわけにも行かないのだからと、なんとか足を止めないように努める。そうやって逃げ出したい衝動と戦いながら足を進めていると、しばらくしない内に王の部屋が見えてきた。
 まぁ実際に見えるのは、その扉の前に立つ番兵の姿なのだけれど。結局は同じことだ。
 番兵の視線がちらりとこちらを向いた。番兵も私が今日ここに来ることと、その用向きを聞いているはずだ。だからこそ、こちらの姿を見て、珍しくその表情に疑問符を浮かべて聞いてくる。
「元勇者の姿が見えないが」
「そのことも含めて報告に来たの。……とても気が重いのだけどね」
 私がそう応じると、報告の内容を察したらしく、番兵がなるほどと頷いた。そしてそれ以上は何も言わず、扉の前から体をどけて、視線でどうぞと扉を示す。
 同情するような様子が見えれば蹴ってやろうと思っていたけれど、そうならなくて良かったような悪かったような、なんとも言えない気持ちを抱えつつ扉に向き直る。
 二三度深呼吸をした後で、扉をノックする。少し待っていると、入れという言葉が扉の向こうから聞こえてきた。失礼しますと返した後で部屋に入る。
 王が普段居るこの部屋は、客人に宛がわれる部屋よりも狭い上に物も少ない。作業部屋だからと、家具なども最低限しか用意していないためだった。誰かと面会する時のために、ある程度豪奢な部屋を別に用意してまでこの部屋で作業をするのは、単純に王自身が贅沢をあまり好まない性質だからだという話である。曰く、落ち着かないらしい。
 とは言え、庶民派な王だというのは確かなことかもしれないが、だからといって気安く接することができる相手ではない。どんな環境を好もうとも、王は王だ。己のために、国のために、決断するべきを決断し、為すべきを為すことができる方だ。そこを勘違いした態度や言動を迂闊にすればどうなるか――想像するだに恐ろしい。
 王はこの部屋の入り口から見て正面にある位置で、執務机に向かって作業をしていたようだった。扉が開く音を聞いてか、王の視線がこちらを向く。私の姿を認めた後で、隣にあるべき姿がないことに対して眉をひそめて言う。
「彼の姿が見えないが」
 王の視線を受けて、緊張で思わず息を吞む。
 数秒の間を置いて、自然と止まった息を、気持ちを落ち着けるために再開したけれど、胸のあたりが圧迫されたような違和感が湧いてきて段々気持ち悪くなってくる。正直叫んで逃げ出したい衝動に身を任せてしまいたくなったものの、そうするわけにもいかない。というか、そうするくらいならきちんと報告する方が状況的にはまだマシだろう。
 覚悟を決めて、事実を口にする。
「彼は既に城から出て行ったものと思われます」
「そう判断した根拠は何だ?」
「部屋にあった彼の私物がいくつか無くなっていたことと、寝台の上にこのような書置きが残されていたことから判断しました」
 王の問いにそう返してから、ポケットに入れていた布を取り出して示してみせた。
 王は取り出した布を怪訝そうに眺めた後で、視線で持って来いと伝えてくる。 その意図に従い、王の座る机の前まで近寄った。そして、王がきちんと文字を読めるように布の方向に気をつけながら、机の上に布を置き、一歩下がる。
 王は置かれた布を手にすると、そこに書かれた文字を黙って眺め始めた。
 沈黙が落ちる。
 私は王の反応を黙って待つしかないのだけれど、この沈黙は、心になかなかくるものがあった。王が視線を落とすあの布に書かれた文字は、簡潔な一文だ。あれを見て、王はいったい何を考えているのだろうか。彼の意図だろうか、それとも、目の前に立つ彼の逃亡を防げなかった役立たずの処遇だろうか。
 わかりはしないが、私としては後者でなければいいなと願うしかなかった。
「…………」
 どれだけの時間が経ったのだろうか。
 緊張もあって恐ろしく長い時間が経ったような気もするものの、実際はきっとそう長くないだろう沈黙の後で、王は沈黙を破るように大きな溜息を吐いた。布を机の上に置いて、椅子の背にもたれかかるようにして天井を仰ぐ。
「君はこれを読んでどう思った」
 その姿勢のままで、問いかけが来た。
 正直なところを話せば、わかりませんという一言しか出ない。しかし、王が求めているのは別な言葉だろう。彼の部屋を訪れたときは思考を放棄してしまったが、ここでも思考停止するわけにもいかない。少しだけ思考をめぐらす。

 今わかっていることは、彼が金銭を手にしないまま城から出た事実だけだ。
 彼の考えていることなど、私が考えてみたところでわかりはしない。だったら、自分ならどういう状況であればそのような行動を採るかを考えるべきだし、そうやって想像してみれば、ひとつだけ理由は思いつく。
 彼は金銭よりも優先するべき何かがあって、受け取る機会を見送ってまで城を出ることを急いだのだ。
 金銭よりも重いものとは何か?
 それは、自分の命だ。
 命の危険を感じれば、なにはともあれその場から逃げ出すだろう。そして、その際に誰かへの言葉を残すのならば、それはおそらく危険そのものに関する情報だ。
 それを、自分を助けて欲しいから残すのか、それとも自分以外の誰かに警告するために残すのかはわからないが――

 そこまで考えてから、思考の熱を吐息とともに吐き出した後で、王に答える。
「もう一人の勇者が現れたことで命の危険を感じたために、城から逃げ出したのではないかと想像しました」
「私たちが不要になったものを処分するのではないかという不安に駆られてか」
 王の言葉に、私は思わず首を横に振ってしまう。王からは見えていないだろうということに、そうしてしまった後で気付いて、言葉を続ける。
「いえ、それは違うと思います。もしそうであれば、彼は書置きを残す必要がありません。……もっとも、それが彼の残したものであれば、ですが」
 そうだな、と王は私の言葉に頷きを返した。
 王は私以上に聡明な方だ。私が考えられることなど既に思い至っていたに違いない。この問いかけは王が自身の考えをまとめるために行っているもので、私の答えがどうであっても、あまり問題にはならないのだろうと思う。
 ただ、自分の考えに対して他者に共感してもらうことは重要だ。この状況だと特に、だ。なにせ、相手は私の身を文字通りにどうともでもできるだけの権力を持っている。間違っているからと言って即座に身が危なくなるようなことはないと信じているけれど、どうせなら、王の想像に近い考えを返せたと思える方がよかった。主に私の精神衛生上の問題で。
「では、これが彼の残したものであったとした場合、彼は私たちに何を期待していると思う?」
 現実逃避気味にそんなことを考えていると、王が視線を天井から私に移して、再び問いかけてきた。
 その内容に少しほっとする。この質問については考えるまでもないと、すぐに答えを返した。
「何も。期待などされていないのではないでしょうか」
 王は私の答えに、少し意外そうに目を見開いて驚いて見せた後で、なぜそう思うのかと問いを追加した。
 これについても、すぐに答えることができた。
「彼は私達のことを、よくも悪くも、なんとも思っていないはずだからです。
 彼が何かをするのなら、それは彼がするべきと考えたことだけでしょう。彼は自分の残した言葉が一笑に付され、気にも留められなかったとしても、それが私たちの選択であればそれでいいと考えているのではないかと考えます」
「……彼のことをよく理解しているようだ」
 王の言葉に、そうだろうか? と内心で首を傾げたものの、何も反応しないというのも気分を害されるかもしれないと、当たり障りの無い言葉を返しておくことにする。
「……この城では訓練担当者の次に、接する時間が長かったですから」
 なるほどなと、王は一瞬だけ表情を緩めた後で、表情をいつも通りに戻してから言った。
「君に頼みたい仕事がある」
「何でしょうか」
 姿勢を正して、王の言葉を待つ。
 少しの間を置いて王の口から飛び出た言葉は、意外なものだった。
「彼を見つけ出し、その所在をこちらに連絡してほしい」
「……目的をお聞きしてもいいでしょうか?」
「なに、渡すと言った以上、金は渡さなければ決まりが悪いだろう? だからだよ。一度口にした約束は果たしてこそ信用が生まれるものだ。違うか?」
 一息。王は自分で言った言葉がおかしくてたまらないというように笑みを浮かべた後で続ける。
「まぁ当然、これは建前だ」
「この書置きについて、彼の意図を聞き出せばいいのでしょうか?」
「それもあるが、それだけじゃない。彼がどこに居るのかを把握しておきたくてな」
 視線がよっぽど訴えかけていたのだろうか。王は彼の所在をなぜ把握しておきたいのか、その理由をすぐに話してくれた。
「勇者が二人居るのなら、二人とも利用できる状態にしておきたい。……当然のことだろう?」
 なるほど、と納得する。
 王以外は彼を偽者と決め付けて不要と判断したが、王自身はそう考えてはいないのかもしれないと、そう思う。
 あるいは、もしそうであったとしても、勇者と言い張れる誰かが居ればそれでもよくて、だからこそ替えを確保しておきたいということなのかもしれないが――それはまぁ、私が気にすることでもないだろう。
 仕事については、請けるしかない。王からの依頼を断ることができるほど度胸が据わっているわけでもないのだから当然だ。
 とは言え、聞かなければならないことはある。
「旅支度やその道中については、支援を受けられると考えていいでしょうか」
 重要なことだった。旅をするにはお金がかかる。それを全部自腹でやれと言われたら、流石に仕事を請けた後で別な国にでも逃げることを考えなければならない。
 王はこちらの意図をおそらく見抜いているのだろう。小さく笑った後で、私の言葉を首肯した。
「当然だ。この国から離れれば相応の時間がかかることになるが、必要な経費は出す。遊び呆けているようであれば容赦なく切るからそのつもりでな」
「わかりました。報告や連絡はどのような形で行うのでしょうか」
「詳細については別の者から説明をさせる。……そろそろ来てもいいはずなんだが」
 王がそう言ったところで、ノックの音が響いた。
 あまりにもタイミングが良かったことと突然のことだったので、思わず驚きで体が跳ねる。首を動かして視線を扉に向けると、王の許可の後で扉が開いた。
 扉の向こうから出てきたのは、一人の男だった。
 どことなく疲れたような表情を浮かべているこの男は、王の政務などを補佐する人物で、なるほど、こういった面倒事の説明に駆り出されてもおかしくないと納得する。
「ちょうど良いところで来てくれた。私からの依頼が終わったところだ。詳細の説明を頼む」
「わかりました。――別室に資料を用意しています。そちらで詳細の説明などを行いましょう」
 そう言って、男は部屋に入ってから早々に出て行ってしまった。
 なんとなく早く出て行かなければ置いていかれるような気がして、王に頭を下げた後で素早く退室する。
 部屋を出ると、案の定と言うべきか、男は既に部屋から離れて歩き出していた。心なしか足取りが荒々しい気がするのは、余計な仕事――私が請けた仕事のことだ――が増えたからだろうか。
 まぁ私が気にすることでもないのだが、説明の場で八つ当たりみたいなことはしないでもらいたいなぁと、思わず口から吐息が漏れた。
 さて、また妙な展開になってきたものだけれど、雇われの身では状況に流される他ないので仕方が無い。
 せめて、快適に旅が出来るように準備はきっちり整えられるようにしなければと思いながら、男の姿を見失わないためにその背を追うことにした。

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