ステージは常に我を待つ
文字数 8,924文字
このたびは、『Planet Blue chronicle』をお読み下さり、誠にありがとう御座います。本稿では、本篇では詳細に解説できなかった出来事をも含めた、九州の政治史に関する年表を掲載させて頂きます。
今や私達は、新しき年号を迎えつつあり、「平らかに成る」時代と、その先に
年表「戦史室」
・原案:八幡景綱
・編著:十三宮顯
時は、戦争と革命の「世紀末」である。独裁政権の自由化・民主化を支援し、終盤に差し掛かった冷戦の勝利を目指すアメリカ連邦は、人権蹂躙を繰り返す日本人民共和国(日共)に対して、人道介入の武力行使「ダウンフォール作戦」を決行した。日共の革命暦では、未来三十年6月「
7月「
元号は「光復」と定められ、ここに光復元年が始まった。
かくして日本七月革命(文月維新)が進展する中にあって、吉野らが率いる九州も日本帝国の政治体制に参画し、行政機関としては地方自治体「西海道」に編入され、軍事機構として「九州鎮台」と呼ばれる軍団が設置された。
米軍や住民に支持され、雲母日女とも仲の良い吉野菫は、西海道首相(民主社会党)・九州鎮台総司令に任命された。
また、「吉野五人衆」などと総称される5名の副官らが、米軍と協力して吉野首相を支え、彼ら自身も軍政を担った。
道政府・鎮台府は、筑前(福岡)大宰府にある。
一方、アラビア帝国に亡命していた宇喜多清真は、出羽(山形)の清水賢一郎らによる農民一揆の混乱に乗じ、マラッカ(マレーシア)経由で
アメリカ連邦と中華ソビエト共和国(中共)は、「光復停戦協定」(東亜保全条約)と題する条約を締結し、東アジア取り分け日本列島の政治的現状維持…具体的には、それぞれの軍閥を国家に準ずる「交戦団体」として承認し、日本での内戦には戦時国際法を適用する事などを合意した。
このような光復停戦協定が結ばれた結果、「軍閥割拠」による日本国家の分断・分裂状態が確定した。
かつての萩藩・山口県である周防・長門(防長・長周)は、日本帝国(九州)と山陽軍閥(宇喜多)の緩衝地帯として、困難な舵取りを迫られる事になる。
持明院秀國率いる畿内軍閥が、中國地方への遠征を開始。これに対して宇喜多清真は、出雲介尊久の山陰軍閥と福原同盟を締結すると共に、日本帝国東京政府(国府)や星川軍閥などとも外交を結び、徹底抗戦を試みた。畿内軍は因幡(鳥取)へと侵攻し、光復五年に
出雲介の没落を止める事はできず、境港も攻め落とされ、山陰道の戦線維持は困難な情況になった。更に光復七年、関西大震災が発生し、大坂(大阪)・神戸という双方の軍事拠点が壊滅した結果、和平の機運が高まり、宇喜多清真は近衛秀保と交渉し、領土保全を条件に畿内軍閥への服属を決断した。出雲介の降伏にも尽力した宇喜多清真は、貢献を評価され、中國地方の軍政を管轄する太政官大都督に任命され、出雲介に仕えていた山路兵介・松田清保らも、都督府の指揮下に配属された。近衛和泉は、震災による犠牲者の魂魄を慰霊するため、比叡山に出家して「方広院」と改名したが、その後も関西の政局に影響力を及ぼし続けた。
吉野首相は、吉野五人衆と兵站課長・松本國香の補佐で、比較的順調に九州を統治していた。グラビアイドルとして業界を知り尽くした彼女は、有権者の人心掌握に長けていたが、政権の長期化に伴って、バラ撒き福祉などのポピュリズム傾向も顕著になっていた。五人衆の内部でも、首相支持派の
その結果、日本列島における米軍の抑止力が低下し、九州鎮台の内部対立を表面化させた。
権力独占を狙う松本國香は、クーデター煽動を画策し、「吉野首相が、福祉予算を増額するため九州鎮台を
「光復十五年の九州政変」勃発である。
江上中佐を総督(司令官)とする反乱軍は、首相を警護していた小倉秀幸・村中孝作を殺害したが、黒幕である松本兵站課長は首相・米陸軍に味方して迎撃し、波佐見・飯塚を返り討ち、江上中佐を佐賀へと転進させた。
そして松本課長は、首相保護・クーデター鎮圧の名目で、大宰府を占拠しようと謀ったが、首相派の支持を得られず、大宰府守備隊の諫早利三(海兵少佐)に討伐されて滅亡。
一方、江上慶也は「江上護智斎」と号して決意を新たにし、筑後
この政変の結果、九州鎮台の吉野五人衆は全滅し、彼らと松本國香を枢軸とする軍政体制は完全に崩壊。
反乱平定に活躍した諫早利三・陶山聖尚らが鎮台を守護し、諫早少佐に信任された吉岡秀典が陸海空の将軍を統制する、「円卓会議」形式の新体制が構築される事になった。
「大宰府の大天狗」國香は、吉野菫の才能を評価しており、彼女の利用価値を認識した上での専横だったとも言われる。
光復二十年8月13日、星川軍閥の浦和連隊副将である
半年後の光復二十一年春、中華ソビエト共和国が朝鮮人民共和国に武力介入した結果、光復停戦協定はその効力を失い、日本列島での戦争を禁止する国際法的根拠が薄弱化した。
この事態を受けて日本帝国は、列島の「天下統一」には武力行使も辞さない方針を決定し、畿内軍閥などに対する開戦準備を進めた。
九州鎮台は、畿内軍閥との「国境」最前線である、周防・長門の確保・守備を最優先任務に定めた。
山口自治体の県令(知事)を務める飯田長門は、西海道政府と協調し、長州を「日本帝国 山陽道」に編入する手続きを進めていた。
しかし、議会での質疑応答に登壇した際、極左テロリスト「日共残党」の難波香奈に襲撃を受ける。
飯田県令は死の直前、駆け付けた
現職死亡に伴い、副県令の杉良運が新県令に予定されたが、赤根議長は、宇喜多派に近いとされる副県令の関与を疑い、彼の県令就任を阻止せんとした。
ところが、その赤根議長も
飯田県令・赤根議長のタイミングが良過ぎる死亡事件と、杉県令の擁立に、宇喜多派による陰謀の存在は明白であり、これに反発した現地の陸軍大尉・吉見一太は、九州鎮台の一部から支援を受け下関でクーデターを起こし、瀬戸内海 防予諸島の屋代島(周防大島)占領に至った。
これに対して、杉県令から救援要請を受けた宇喜多都督は、岡山の第三歩兵旅団を屋代島に派遣した。
この「大島事変」によって、九州鎮台と畿内・山陽軍閥は遂に開戦。
吉野首相は一連の計画を知らなかったが、この展開を待っていた軍部に押され西海道政府は宣戦布告、中國地方に対する経略の足掛かりとして屋代島を制圧した。
長州戦争、そして瀬戸内海を
大島攻防戦の後、小倉逆強襲を受け小倉の戦いが勃発。また、琉球米軍に支援された在沖縄訓練兵が、赤十字を装って四国に上陸、大島方面の増援も動員される。一方で、山陽軍の大島奪回作戦「回天」は失敗に終わり、劣勢に怒り狂った博忠発(海軍中校)と畿内海軍令部は、事実上の「無制限潜水艦作戦」(無差別攻撃)に走った。日本帝国は、この戦術を畿内軍閥による戦争犯罪と判断し、北太平洋の天皇海山(北西太平洋海底山脈)に建造された、
鳥取駐屯軍傭兵隊長イブン マスードらの発案で、コマンド海賊が諫早湾(長崎)・天草諸島(熊本)を襲撃、放火・殺人・テロを頻発させる「内憂作戦」が決行される。
マスードは傭兵隊だけでなく、
この戦闘は「香春崩れ」と呼ばれ、小倉市の陥落と、それに続く山陰・山陽軍の北九州上陸を許す結果となった。
広島駐屯軍の
吉野首相の大野城への移転案に、千々石リカルドが反対。
復帰した吉野首相が督戦し、小倉・香春の敗走軍と合流。八女の城原詮二郎(陸軍機甲科准将)と諫早旅団を率い、背水の迎撃を挑む。九州鎮台は光復女帝から兵站に関する密勅を得る事に成功、これを根拠に米軍から自走砲・装甲車などの機動力を提供された陶山聖尚が、1万数千の軍を率いて対馬から佐賀に上陸し、大迂回して小倉に到着。連戦で疲労していた畿内軍陸戦隊を横腹から突き撃破、救援に回ったマスードら傭兵隊を死闘の末に退ける。女帝陛下からの緊急勅令によって窮地を脱した九州軍だが、この勅命…実は雲母日女の御名御璽ではなく、東京国府次官の葉山円明が偽造した代物であった…。
吉野首相、総攻撃を指示。攻勢に転じた九州鎮台軍は和久中将を撃破、マスード・長船中校は敗残兵を
九州鎮台軍、下関に侵攻。下関は陥落するが、戦争は周防・長門の全土制圧へと波及し、美保関 大宰少弐 天満・禅定門念々佳も山口市に進撃。方広院は山口死守を命ずるが、宇喜多都督はこれを無視し、独断で山口を放棄、後を託された杉県令は降伏を決断。17世紀『
九州軍の山口進駐と非武装地帯化、屋代島の返還で妥結。日本帝国・九州鎮台からは吉野菫と籠手田泰志が、畿内・山陽軍からは宇喜多清真と長船燎次が調印式に出席。長船中校は過激派ではなく、吉野首相らを嫌う伝統的なキリシタン保守主義者であった。航空母艦「
一方、東部戦線では東京国府の軍団が大坂湾決戦に臨み、イザナミからの対小惑星隕石砲で畿内軍閥を降伏させたが、彗星の破片・ペルセウス座流星群が降り注ぐ8月13日、葉山次官による第一次東京クーデター「八月事変」が勃発。
関西も極度の混乱状態に陥り、方広院・許國鋒(陸軍砲兵少校)らが降伏に反対して暴発、彼らの行動を阻止するため宇喜多・長船・亀井らが戦う。
こうした中、関西から空路で東京を目指す吉野首相に対し、江上護智斎の娘であった蓮池夏希(参謀科大尉)が裏切り、首相の搭乗機を爆破して暗殺を狙うが、首相は陸路で脱出。
首相不在の九州に着陣した蓮池大尉は、同志の城原詮二郎と合流して、亡き父の「江上軍」を再興、大宰府の戦いに臨むが、美保関少弐が猛反撃で時間を稼ぐ。
星川初や
光復二十三年3月、雲母日女の生前譲位を受けて、皇太弟の
聖徳元年同月、吉野首相・陶山
十三宮勇は極めて確信犯的な「平和主義者」であり、彼女らの目的は…徹底的な破壊によって人間世界を、「二度と戦争できないレベル」にまで疲弊させる事だった。
吉野・陶山の古巣である九州鎮台を頼る十三宮勇に対し、現地で隠居していた宇都宮宗房が計画に反発して軍事行動、豊前
3月31日、利根川の銚子に追い詰められた十三宮勇は、関東最東端の犬吠埼における八洲精士郎との決闘によって、「戦争を引き起こす最後の脅威である自分自身」を滅ぼし、「東京錯乱」とも呼ばれた青鳥事変は幕を閉じる。翌4月1日、終戦(嘘ではない、はずだと信じたいが…)。かくして日本列島にようやく平和が訪れようとする中で、かつては選抜歩兵中隊長として小倉口の戦いなどに活躍し、後には宇喜多都督に保護され須崎司祭の和平工作を支援し、長周戦争の終結を見届け、遂にこの時を迎えた木内亮吾は、修道士として勤める傍ら、自らの戦記『西海之役』を著し、あの戦争を後の世代へと語り継ぎ、その売上げで両軍の戦没者を弔った。そして、それから8年近くの歳月が過ぎ…。
聖徳九年1月1日、元旦の夜明け。九州鎮台や旧畿内軍閥、山路兵介の義妹になった難波香奈、生田兵庫・斎宮星見・
「日本連邦」の成立に伴い、九州鎮台は使命を終えた。今後は、連邦軍と各県の警察組織への改組が予定されるが、軍閥の既得権益も依然として根強く、一寸先は闇である。十三宮聖は死亡説もあるが、須崎優和はしぶとく生き延び、北東京の
さて、我が国の政治史を考察する上で軽視できないのは、一つは小惑星の衝突であり、あともう一つはそれに先立つ、冷戦による共産主義政権「日本人民共和国」の幻出です。御存知の通り、日共独裁政権による粛清・飢餓の犠牲者は、数百万人以上に達するとも言われております。もし…日本人民共和国も、あの小惑星も存在しなかったら、私達の歴史は、大きく変わっていたかも知れません。例えば、昭和時代に活躍した
最後に…本書の重要な「ヒロイン」の一人である、「首相」こと吉野菫に触れなければなりません。グラビアイドルの性的魅惑で国民を誘い、自身の裸さえも、選挙と政策に利用した彼女には、様々な評価がありますし、自伝の過激な題名・序文に戸惑ったのは、私だけではなく、多くの読者も同様かと思います。しかしながら…多くの仲間を戦乱で失い、時には裏切られ、遂には彼女自身も生命の絶望、死に至る病の渦中にあって、あのように希望に満ちた、前向きな言葉を紡ぎ続けたのは、