ステージは常に我を待つ

文字数 8,924文字

 このたびは、『Planet Blue chronicle』をお読み下さり、誠にありがとう御座います。本稿では、本篇では詳細に解説できなかった出来事をも含めた、九州政治史に関する年表を掲載させて頂きます。


 今や私達は、新しき年号を迎えつつあり、「らかに」時代と、その先に開闢(かいびゃく)する「月風」の時代を謳歌していますが、この平和が成就されるまでの過程においては、瀬戸内海を始めとする日本列島での戦乱と、それに伴う数多の犠牲があったという事実を記憶し、後世にまで語り継ぐ使命がある…そう信じています。本書の主題である「西海戦争」、その発端とも言える年は、当時の暦では「未来三十年」及び「光復元年」と呼ばれ、この地球小惑星が衝突し、日本列島も隕石の被害を受けた「あの日」にまで(さかのぼ)ります。

年表「

・原案:八幡景綱

・編著:十三宮顯

 時は、戦争と革命の「世紀末」である。独裁政権の自由化・民主化を支援し、終盤に差し掛かった冷戦の勝利を目指すアメリカ連邦は、人権蹂躙を繰り返す日本人民共和国(日共)に対して、人道介入の武力行使「ダウンフォール作戦」を決行した。日共の革命暦では、未来三十年6月「収穫月(Messidor)」の事である。アメリカ委任統治領の琉球諸島(沖縄)では、本土から亡命していた吉野菫らの日本国臨時政府が、アメリカ連邦軍と共に九州へと上陸し、その大半を占領する事に成功した(オリンピック(Olympic)作戦)。九州では歴史的に、信教の自由を求めるキリシタン(Christian)が多く、中には「救世旅団」「人民十字軍」等の武装教団もおり、彼らの活躍もあって、米軍は短期間で制圧する事ができた。

 7月「熱月(Thermidor)」には、同じく米軍が侵攻した東京において、雲母日女(きらひめ)内親王を立憲君主・初代皇帝(女帝陛下)に戴く、日本帝国の建国を宣言し、東京政府が首都に樹立された。


元号は「光復」と定められ、ここに光復元年が始まった。


かくして日本七月革命(文月維新)が進展する中にあって、吉野らが率いる九州も日本帝国の政治体制に参画し、行政機関としては地方自治体「西海道」に編入され、軍事機構として「九州鎮台」と呼ばれる軍団が設置された。


米軍や住民に支持され、雲母日女とも仲の良い吉野菫は、西海道首相民主社会党・九州鎮台総司令に任命された。


また、「吉野五人衆」などと総称される5名の副官らが、米軍と協力して吉野首相を支え、彼ら自身も軍政を担った。


道政府・鎮台府は、筑前(福岡)大宰府にある。

 一方、アラビア帝国に亡命していた宇喜多清真は、出羽(山形)清水賢一郎らによる農民一揆の混乱に乗じ、マラッカ(マレーシア)経由で石州(せきしゅう)(島根)浜田に密航し、神戸を拠点に山陽道地方の教化を目指した。同じ頃、島根半島・出雲平野平田を統治する出雲介尊久は、神話の継承者を称して山陰道地方の征服を試み、公家(くげ)の末裔と伝わる持明院秀國・近衛和泉関西地方を、日共軍(日本人民解放軍)の星川(ほしかわ)(うい)大尉は埼玉・群馬を、隠れキリシタン十三宮(とさみや)(みこと)伊豆半島(静岡)を制圧した。その後、清水・十三宮は日本帝国への所属を受け入れたが、それ以外の指導者は、「軍閥」と呼ばれる独立国家的な武装勢力を「建国」して、各地を占領し続けた。

 アメリカ連邦と中華ソビエト共和国(中共)は、「光復停戦協定(東亜保全条約)と題する条約を締結し、東アジア取り分け日本列島の政治的現状維持…具体的には、それぞれの軍閥を国家に準ずる「交戦団体」として承認し、日本での内戦には戦時国際法を適用する事などを合意した。


このような光復停戦協定が結ばれた結果、「軍閥割拠」による日本国家の分断・分裂状態が確定した。


かつての萩藩・山口県である周防・長門(防長・長周)は、日本帝国(九州)山陽軍閥(宇喜多)の緩衝地帯として、困難な舵取りを迫られる事になる。

 持明院秀國率いる畿内軍閥が、中國地方への遠征を開始。これに対して宇喜多清真は、出雲介尊久の山陰軍閥福原同盟を締結すると共に、日本帝国東京政府(国府)星川軍閥などとも外交を結び、徹底抗戦を試みた。畿内軍は因幡(鳥取)へと侵攻し、光復五年に伯耆(ほうき)夜見ヶ浜(境港)で決戦に臨み、持明院秀國・三好秀俊と出雲尊久・山路兵介らが激闘した。この防衛線で出雲軍は迎撃に成功するが、その後、出雲介尊久が玉造温泉(松江)で謎の急死に遭ってしまう。子の出雲孝久が出雲介を継承し、祖父(尊久の父)出雲盛久が後見したが、往時の力は無かった。山路兵介は、宇山真綾ら難民を救出し鳥取管区から撤退。

 出雲介の没落を止める事はできず、境港も攻め落とされ、山陰道の戦線維持は困難な情況になった。更に光復七年、関西大震災が発生し、大坂(大阪)・神戸という双方の軍事拠点が壊滅した結果、和平の機運が高まり、宇喜多清真は近衛秀保と交渉し、領土保全を条件に畿内軍閥への服属を決断した。出雲介の降伏にも尽力した宇喜多清真は、貢献を評価され、中國地方の軍政を管轄する太政官大都督に任命され、出雲介に仕えていた山路兵介・松田清保らも、都督府の指揮下に配属された。近衛和泉は、震災による犠牲者の魂魄を慰霊するため、比叡山に出家して「方広院」と改名したが、その後も関西の政局に影響力を及ぼし続けた。

 吉野首相は、吉野五人衆と兵站課長・松本國香の補佐で、比較的順調に九州を統治していた。グラビアイドルとして業界を知り尽くした彼女は、有権者の人心掌握に長けていたが、政権の長期化に伴って、バラ撒き福祉などのポピュリズム傾向も顕著になっていた。五人衆の内部でも、首相支持派の小倉(こくら)秀幸(ひでゆき)村中(むらなか)孝作(こうさく)と、不満を抱く江上慶也・波佐見則貫・飯塚(いいづか)徳一(のりかず)が対立した。光復十五年、アメリカ連邦とイングランド(England)帝国(英国)は、大量破壊兵器査察と独裁政権打倒のため、西アジアクルジスタン(Kurdistan)共和国を攻撃した。米英連合軍は首都バグダードを陥落させたものの、テロリズムの頻発で占領政策は混迷を極め、多くの在日米軍が、近東への援軍に出撃する事態となった。

 その結果、日本列島における米軍の抑止力が低下し、九州鎮台の内部対立を表面化させた。


権力独占を狙う松本國香は、クーデター煽動を画策し、「吉野首相が、福祉予算を増額するため九州鎮台を軍縮(リストラ)し、その穴埋め担当を米軍に『枕営業(おねだり)』している」等の風説を、虚実混交で江上中佐・波佐見大佐・飯塚副官らに流布して、遂に武力反乱を起こさせる事に成功した。


光復十五年の九州政変」勃発である。


江上中佐を総督(司令官)とする反乱軍は、首相を警護していた小倉秀幸・村中孝作を殺害したが、黒幕である松本兵站課長は首相・米陸軍に味方して迎撃し、波佐見・飯塚を返り討ち、江上中佐を佐賀へと転進させた。

 そして松本課長は、首相保護・クーデター鎮圧の名目で、大宰府を占拠しようと謀ったが、首相派の支持を得られず、大宰府守備隊の諫早利三(海兵少佐)に討伐されて滅亡。


一方、江上慶也は「江上護智斎」と号して決意を新たにし、筑後八女(やめ)糸島半島唐津湾に転戦して反乱を継続したが、対馬から上陸して来た陶山聖尚に追撃され、敗走中に絶命。


この政変の結果、九州鎮台の吉野五人衆は全滅し、彼らと松本國香を枢軸とする軍政体制は完全に崩壊。


反乱平定に活躍した諫早利三・陶山聖尚らが鎮台を守護し、諫早少佐に信任された吉岡秀典が陸海空の将軍を統制する、「円卓会議」形式の新体制が構築される事になった。


「大宰府の大天狗」國香は、吉野菫の才能を評価しており、彼女の利用価値を認識した上での専横だったとも言われる。

 光復二十年8月13日、星川軍閥の浦和連隊副将である岩月(いわつき)(あい)らの尽力により、東京国府と星川政権は「埼京防共協定」を締結し、相互の平和友好・不可侵・中立・領土保全などを約束した。


半年後の光復二十一年春、中華ソビエト共和国が朝鮮人民共和国に武力介入した結果、光復停戦協定はその効力を失い、日本列島での戦争を禁止する国際法的根拠が薄弱化した。


この事態を受けて日本帝国は、列島の「天下統一」には武力行使も辞さない方針を決定し、畿内軍閥などに対する開戦準備を進めた。


九州鎮台は、畿内軍閥との「国境」最前線である、周防・長門の確保・守備を最優先任務に定めた。

 山口自治体県令(知事)を務める飯田長門は、西海道政府と協調し、長州を「日本帝国 山陽道」に編入する手続きを進めていた。


しかし、議会での質疑応答に登壇した際、極左テロリスト「日共残党」の難波香奈に襲撃を受ける。


飯田県令は死の直前、駆け付けた赤根(あかね)(たける)議長に、本件が宇喜多清真ら山陽軍閥の策略であろう事を伝えた。


現職死亡に伴い、副県令の杉良運が新県令に予定されたが、赤根議長は、宇喜多派に近いとされる副県令の関与を疑い、彼の県令就任を阻止せんとした。


ところが、その赤根議長も小郡(おごおり)(新山口)視察の帰路に、心不全で急死し、杉県令の繰り上げ就任が実現してしまう。

 飯田県令・赤根議長のタイミングが良過ぎる死亡事件と、杉県令の擁立に、宇喜多派による陰謀の存在は明白であり、これに反発した現地の陸軍大尉・吉見一太は、九州鎮台の一部から支援を受け下関でクーデターを起こし、瀬戸内海 防予諸島屋代島周防大島占領に至った。


これに対して、杉県令から救援要請を受けた宇喜多都督は、岡山第三歩兵旅団を屋代島に派遣した。


この「大島事変」によって、九州鎮台と畿内・山陽軍閥は遂に開戦。


吉野首相は一連の計画を知らなかったが、この展開を待っていた軍部に押され西海道政府は宣戦布告、中國地方に対する経略の足掛かりとして屋代島を制圧した。


長州戦争、そして瀬戸内海を(めぐ)る「西海戦争」の夜明け。

 大島攻防戦の後、小倉逆強襲を受け小倉の戦いが勃発。また、琉球米軍に支援された在沖縄訓練兵が、赤十字を装って四国に上陸、大島方面の増援も動員される。一方で、山陽軍の大島奪回作戦「回天」は失敗に終わり、劣勢に怒り狂った博忠発(海軍中校)畿内海軍令部は、事実上の「無制限潜水艦作戦(無差別攻撃)に走った。日本帝国は、この戦術を畿内軍閥による戦争犯罪と判断し、北太平洋の天皇海山(北西太平洋海底山脈)に建造された、(Anti)小惑星(Asteroid)隕石(Meteorite)(Cannon)イザナミ」を軍事転用させる結果となる。戦禍が拡大する中、他方では教会などの平和活動もあり、神戸の生田兵庫や、伊勢斎宮星見は、蘭木訓らと共に、十三宮 伊豆守 津島 三河守 長政に保護された。須崎グラティア優和らを派遣したのも、十三宮聖である。

 鳥取駐屯軍傭兵隊長イブン マスードらの発案で、コマンド海賊が諫早湾(長崎)天草諸島(熊本)を襲撃、放火・殺人・テロを頻発させる「内憂作戦」が決行される。


マスードは傭兵隊だけでなく、和久(わく)広太郎(こうたろう)陸軍中将・長船燎次(海軍中校)特別陸戦隊を実質的に指揮して、小倉救援のアレックス(Alex) ベイカー(Baker) クーパー(Cooper)海兵中将を奇襲、豊前 香春(かわら)籠手田泰志(陸軍機甲科中将)も壊乱させた。


この戦闘は「香春崩れ」と呼ばれ、小倉市の陥落と、それに続く山陰・山陽軍の北九州上陸を許す結果となった。


広島駐屯軍熊谷(くまがい)(なおし)司令官と、駐浜田歩兵師団長の亀井無我(陸軍歩兵少将)が、大宰府に進撃する足掛かりも完成した。


吉野首相の大野城への移転案に、千々石リカルドが反対。

 復帰した吉野首相が督戦し、小倉・香春の敗走軍と合流。八女の城原詮二郎(陸軍機甲科准将)諫早旅団を率い、背水の迎撃を挑む。九州鎮台は光復女帝から兵站に関する密勅を得る事に成功、これを根拠に米軍から自走砲・装甲車などの機動力を提供された陶山聖尚が、1万数千の軍を率いて対馬から佐賀に上陸し、大迂回して小倉に到着。連戦で疲労していた畿内軍陸戦隊を横腹から突き撃破、救援に回ったマスードら傭兵隊を死闘の末に退ける。女帝陛下からの緊急勅令によって窮地を脱した九州軍だが、この勅命…実は雲母日女の御名御璽ではなく、東京国府次官の葉山円明が偽造した代物であった…。

 吉野首相、総攻撃を指示。攻勢に転じた九州鎮台軍は和久中将を撃破、マスード・長船中校は敗残兵を(まと)め撤退。傭兵隊第一中隊長の八洲余一八洲精士郎の弟)が、首相を追い詰めるも木内(きうち)亮吾(りょうご)陸軍歩兵大尉に砲火され退却。鎮台軍は米軍増援を受け北九州・小倉口奪回へと向かい、熊谷・亀井軍は長州に撤退。一方、宇喜多都督は最後の攻勢で大島奪回を目指し、ヨハネ騎士団オスマン朝トルコ帝国の宗教戦争に(ちな)んで、「瀬戸内のマルタ(Malta)攻防戦」などと呼称される戦いが展開。大島守備隊司令官の千々石リカルド陸軍少将と、彼の率いる西玄可(ガスパール)旅団が「硫黄島戦術」で耐え忍ぶ間に、米軍艦隊が出撃、下関・山口への空襲を決行する。

 九州鎮台軍、下関に侵攻。下関は陥落するが、戦争は周防・長門の全土制圧へと波及し、美保関 大宰少弐 天満禅定門念々佳も山口市に進撃。方広院は山口死守を命ずるが、宇喜多都督はこれを無視し、独断で山口を放棄、後を託された杉県令は降伏を決断。17世紀『ブレダ(Breda)の開城オランダ(Nederland)独立戦争)に倣って、吉野首相は友好的な講和会議・降伏文書調印式を開いたが、九州側から提供された(あお)いだ杉県令は毒死してしまう。宇喜多都督は吉野首相の仕業として非難し、和平も破綻。安芸太田口(広島)石州口益田)を絶対防衛地点とし、宇喜多都督も厳島に着陣。事実上の最終決戦である、石州口・太田口の戦いが開幕。戦線は膠着し、この期に及んで遂に休戦交渉が試みられる。

 九州軍の山口進駐と非武装地帯化、屋代島の返還で妥結。日本帝国・九州鎮台からは吉野菫と籠手田泰志が、畿内・山陽軍からは宇喜多清真と長船燎次が調印式に出席。長船中校は過激派ではなく、吉野首相らを嫌う伝統的なキリシタン保守主義者であった。航空母艦「ジョージ(George) ウォーカー(Walker)」艦上において、アメリカ国務長官との会談を経て休戦宣言が成立するが、最期の一矢を報いようとしたマスードによる襲撃が発生。盟友である長船中校は決行を知っており惜別の歌を詠むが、吉野首相・国務長官と禅定門念々佳らは艦載戦闘機で脱出、残存空軍の美保関少弐と共にマスードを空母ごと爆砕した。闇夜の月下に、対米依存に反逆した江上の娘・蓮池夏希。義勇兵出身の義父・蓮池(はすいけ)冬弥(とうや)と衝突した、彼女の結論は…。

 一方、東部戦線では東京国府の軍団が大坂湾決戦に臨み、イザナミからの対小惑星隕石砲で畿内軍閥を降伏させたが、彗星の破片・ペルセウス座流星群が降り注ぐ8月13日、葉山次官による第一次東京クーデター「八月事変」が勃発。


関西も極度の混乱状態に陥り、方広院・許國鋒(陸軍砲兵少校)らが降伏に反対して暴発、彼らの行動を阻止するため宇喜多・長船・亀井らが戦う。


こうした中、関西から空路で東京を目指す吉野首相に対し、江上護智斎の娘であった蓮池夏希(参謀科大尉)が裏切り、首相の搭乗機を爆破して暗殺を狙うが、首相は陸路で脱出。


首相不在の九州に着陣した蓮池大尉は、同志の城原詮二郎と合流して、亡き父の「江上軍」を再興、大宰府の戦いに臨むが、美保関少弐が猛反撃で時間を稼ぐ。

 星川初や十三宮(とさみや)メーテルリンク(Maeterlinck)(いさみ)らの活躍により、首都圏でのクーデターは短期間で鎮圧され、九州にも禅定門念々佳の官軍が反乱討伐に迫りつつあった。大宰府陥落に失敗した江上軍は1か月後、決戦となる八女の戦いで遂に諫早利三を討ち取ったが、6年前の九州政変でも江上撃滅に定評のあった陶山聖尚が、1万の増援を連れて官軍に合流。陶山将軍・美保関少弐・禅定門念々佳に完全包囲される中、乱戦で死に掛けた蓮池大尉は、城原准将に救い出され失踪。二人の消息は蓮池冬弥によって闇に葬られ、これを以て、八月事変の九州余波である内乱「鎮西騒動」も平定された。

 光復二十三年3月、雲母日女の生前譲位を受けて、皇太弟の西宮(にしのみや)堯彦(たかひこ)親王殿下(選帝侯爵)が新皇帝に即位し、元号は「聖徳」に改元された。


聖徳元年同月、吉野首相・陶山兵部卿(ひょうぶきょう)を担いだ十三宮勇が、無血の第二次東京クーデター「青鳥事変」を引き起こした。


十三宮勇は極めて確信犯的な「平和主義者」であり、彼女らの目的は…徹底的な破壊によって人間世界を、「二度と戦争できないレベル」にまで疲弊させる事だった。


吉野・陶山の古巣である九州鎮台を頼る十三宮勇に対し、現地で隠居していた宇都宮宗房が計画に反発して軍事行動、豊前 城井(きい)川航空基地築城(ついき)の爆破など妨害工作を謀る。なお西海・長周戦争において畿内軍閥や救世旅団と契約し、暗躍した傭兵「城井宗房」は、この人物とも言われている。

 3月31日、利根川銚子に追い詰められた十三宮勇は、関東最東端の犬吠埼における八洲精士郎との決闘によって、「戦争を引き起こす最後の脅威である自分自身」を滅ぼし、「東京錯乱」とも呼ばれた青鳥事変は幕を閉じる。翌4月1日、終戦(嘘ではない、はずだと信じたいが…)。かくして日本列島にようやく平和が訪れようとする中で、かつては選抜歩兵中隊長として小倉口の戦いなどに活躍し、後には宇喜多都督に保護され須崎司祭の和平工作を支援し、長周戦争の終結を見届け、遂にこの時を迎えた木内亮吾は、修道士として勤める傍ら、自らの戦記『西海之役』を著し、あの戦争を後の世代へと語り継ぎ、その売上げで両軍の戦没者を弔った。そして、それから8年近くの歳月が過ぎ…。

 聖徳九年1月1日、元旦の夜明け。九州鎮台や旧畿内軍閥、山路兵介の義妹になった難波香奈、生田兵庫・斎宮星見・塔樹(あららぎ)無教(むきょう)(蘭木訓)・美保関天満・禅定門念々佳ら「アプリコーゼン(Aprikosen)中隊」の活躍によって、救世旅団を含む「箱館コミューン」との最終決戦が終わる。皇帝陛下の御退位によって、「共和」の時代が始まった。蓮池夏希と城原詮二郎が失踪した八女市…その筑紫山地で、山奥に住む「幸せそうな夫婦」を見掛けたと報告があった。それを聴いた病床の吉野菫は、僅かな余命を執筆に捧げ、決死の自伝の完成と共に息を引き取った。彼女自身が合法化した、人工呼吸器を外す尊厳死だった。最期まで「弱者に寄り添う永遠の18歳」を演じ続けた女、吉野アイオライト菫の挽歌(dirge)は「人間に光あれ」。

 「日本連邦」の成立に伴い、九州鎮台は使命を終えた。今後は、連邦軍と各県の警察組織への改組が予定されるが、軍閥の既得権益も依然として根強く、一寸先は闇である。十三宮聖は死亡説もあるが、須崎優和はしぶとく生き延び、北東京の禍津日原(まがつひはら)クレーターに建立された教会堂において、「東アジア地中海戦争」などと総称される、永きに及んだ日本列島の修羅地獄…その犠牲者を慰霊した。十三宮仁(死亡説あり)が振り向くと、そこに居たのは、救世旅団の指導者(Master)と酷似した、記憶喪失の修道女(Sister)であった。そして季節は共和元年4月、八重桜が広がる入学式の春。禍津日原第四学校で、新任教諭の泰邦(やすくに)清子(きよこ)が教壇に出御(しゅつぎょ)。クラスで最初に自己紹介した学生の名前は、「滝山(たきやま)未來(みき)」。歴史は紡がれ続ける、あなたの日々へ続く物語として…。

 さて、我が国の政治史を考察する上で軽視できないのは、一つは小惑星の衝突であり、あともう一つはそれに先立つ、冷戦による共産主義政権「日本人民共和国」の幻出です。御存知の通り、日共独裁政権による粛清・飢餓の犠牲者は、数百万人以上に達するとも言われております。もし…日本人民共和国も、あの小惑星も存在しなかったら、私達の歴史は、大きく変わっていたかも知れません。例えば、昭和時代に活躍した吉田(よしだ)(しげる)鳩山(はとやま)一郎(いちろう)(きし)信介(のぶすけ)、そして昭和(しょうわ)天皇といった方々の子孫が、今頃この国を率いる立場になられているのかも知れません。また…昭和の後、元化・未来・光復・聖徳・共和と続く、私達が知る年号とは別の元号を迎えた「日本国」が、もう一つの世界として存在している可能性もあるでしょう。

 最後に…本書の重要な「ヒロイン」の一人である、「首相」こと吉野菫に触れなければなりません。グラビアイドルの性的魅惑で国民を誘い、自身の裸さえも、選挙と政策に利用した彼女には、様々な評価がありますし、自伝の過激な題名・序文に戸惑ったのは、私だけではなく、多くの読者も同様かと思います。しかしながら…多くの仲間を戦乱で失い、時には裏切られ、遂には彼女自身も生命の絶望、死に至る病の渦中にあって、あのように希望に満ちた、前向きな言葉を紡ぎ続けたのは、受難(passion)においても信じ、望み、愛するという事の大切さを、私達に訴える遺言だったからであるように感じます。この想いを忘れないために…「帝國最後の偶像(idol)」吉野菫、その最期の「歌」を引用して、本書を終えようと思います。

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登場人物紹介

【空界月姫】はすいけ なつき

蓮池 夏希

西海道 筑紫県 筑後郡 八女市


 日本国民軍九州鎮台府、参謀科大尉。北九州蓮池冬弥に養育された後、日本国民軍に志願した。九州を統治する吉野菫西海道政府首相の側近として彼女を良く支えるが、不遜な言動で口論を招く事も少なくない。かつて「吉野五人衆」と呼ばれた九州鎮台総督、江上 護智斎 慶也機甲中佐の娘。


―ただ「愛してくれた」人のために―

【万物流転】なかうら Agatha まなみ

中浦 アガタ 愛美

西海道 肥前郡 島原県 平戸市 生月町


 日本天主教会に出没する、謎に包まれた修道女。「救世旅団」と呼ばれる武装修道会の主人であり、共産主義者らへの白色テロ(赤狩り)を繰り返してきた、中浦家の傭兵組織である。彼女自身も、医学や武芸に強い。瀬戸内海の戦いでは、十三宮聖須崎優和に協力する。幕下に家所花蓮(いえどこ かれん)・沼田忠吉(ぬまた ただよし)らが居り、代理人の指導者も存在するらしい。八洲家の宇都宮宗房(うつのみや むねふさ)と取引し、暗躍させる事もある。


―愛なかりせば堕ちたる者―

【地平天成】じみょういん ひでくに

持明院 秀國

関西州 河内府 摂津郡 大坂市 中央東区


 方広院和泉の弟で、近畿(関西)地方を統治する畿内軍閥の皇帝。京都の名門である藤原近衛(ふじわら このえ)の末裔で、出自相応の優れた人格と実力を以て東京政府と対峙する。


「我が誉は平らかなる世の為に」

【令月風和】うきた Amir きよざね

宇喜多 アミール 清真

関西州 播磨県 摂津郡 神戸市 兵庫区


 中國地方を治める山陽軍閥の指導者で、アラビアの一神教(回教)に帰依している。浮田郷家(うきた さといえ)の兄。


「個は全のため、全は個のため。願わくは我らを導いて、正しき道を辿らしめ給え」

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