福原 ???
文字数 3,356文字
山路兵介は戸締りをキチンとしたか納得するのに少し時間が掛かる。
気にしたら気にし続ける。
そういう人間だった。
だからこそ、再びここにやって来てしまう。
閑散とした地。
ジャングルとは言わないが、コンクリートの木々が次第に神戸という街に植えられていくに連れて、ここの地には異様な感覚が起きる。
福原の「無名」区。
呼ばれ方の通り、名無しの地である。
ここはかつての快楽の園、そして多くの女達と弱者の
歓楽街「
「未だに手も付かない、か。そりゃそうか」
分かり切った事。
しかし、それが何より率直な感想だった。
開発計画地という官営の看板が徐々に朽ちの兆しを見せているのが証左であった。
今はコンクリートで土を覆って、痕跡を潰しているその地で見たものを山路大隊長は一生忘れない。
そして、二度と日の目を得られなくなるまでに
抗う気も起きぬほどに人の手に掛かった人間というのはこうまで無惨であるのか。
ただそれを思い出すと、
山路大隊長は宇山真綾の事を不意に思い出し、頭を振った。
かつて、この地を焼き討ちにした時、宇山真綾の顔が女達に重なって怒りに震えたのは紛れも無く事実である。
宇山真綾とてこうならなかったわけではない。
時の巡り合わせ次第では有り得ないわけではなかったのである。
どうせ悔いるに決まっているのに、この青年は愚かしい事を浮かべる癖があった。
宇山真綾がでは彼女達のようになったなら、果たして自分は平然としていられるのか。
彼女達の親のように、娘を売りに出して逃げ出すような人間ではない。
山路大隊長は自分をそう思っている。
では、宇山真綾はどうだろう?
耐えられるのか、彼女達のように?
そんなに強いわけが無い。
きっと……
「強くある必要は無い。強くあって灌がれる穢れは無い。強いからこそ、その身は腐ったのだ」
「そんな……腐ってなんか」
「梅毒に冒された身だ。花も散り、鼻も落ちた身の有り様は、腐ったと言うほうが適切かと思うがね」
「そん……、っ!?」
今、誰と話していた?
山路大隊長は途端に身を翻し、来た道のほうを向き直した。
だが、誰も居ない。
「思い込み過ぎると、不意に応じられんぞ。気を付けておくべきだ」
右斜め後ろ。
山路大隊長はハッとしてそちらへ体を返した。
そこに男が居た。
「若人よ、懊悩は過ぎれば命を削る。これは先達からの忠告だ。心に留めておくといい」
「誰だっ!?」
山路大隊長は身構えた。
対する相手は長身であり、恐らく、2メートルに少し足らない程度のはずだ。
加えて着痩せしている。
どこの巨人連隊帰りだ。
山路大隊長はそう思った。
「俺を敵と見るのなら、無防備に過ぎるぞ。小人、せめて礫でも握れ」
「俺の背が低いんじゃない」
男に身構えた様子が無い。
男は表情も変えず、
「特段、俺の背が高いわけではなかろう?」
そう
身の構えを気持ち緩めた。
「……そういう事にしておく。他所で言って恥でもかくんだな」
「ふうむ。皆、そう言うのだ」
山路大隊長は何も言いたくなかった。
だが、
「どうして俺が考えている事が分かった。それに誰だ、あんた」
「問いは一言に一つまでとしてくれ。答え辛い」
「なら、あんた誰だ」
山路大隊長は少し苛立った物言いをしたが、相手は気にも留めなかったようで、そのままの顔で答えた。
「そうだな…城井宗房とでも答えておこう」
「とでも、ってなんだ」
「名は幾つか用意してある。どれも紛れも無い俺の名だ。城井宗房はその幾つかの一つだ」
「何を……」
「君が知るべき名はこれのみで良いはずだ、山路兵介」
山路大隊長は抑揚も無く勝手に人の名を呼んだ事に当然の違和感を持った。
大隊長はこの男を知らない。
「君という人の前で、君に関わりを持つ俺は紛れも無い城井宗房、ただ一人だ。それ以外に関わりを持たない事を誓おう。もっとも、耳にしたとして、俺と認める事などできぬだろうがな」
「ハンドルネームかなんかとでも考えておこうか」
「……そういうのは造詣が浅くてな。良くは分からん」
「もういい、次だ」
山路大隊長は突き放すように言った。
僅かに宇都宮宗房の口元が緩んだようにも見えたが、気に留めない事とした。
「どうして、俺の考えが分かった? 口になんて出してないはずだ」
「ここに来て、足を止め、物思いに耽る輩など、大抵は皆同じ事を思う。そして、少なからず悔い、悩み、怒り、虚無に至る。どれも皆、代わり映えしない思索だ」
「つまらない事、とでも言うのか?」
山路大隊長は語気を強めた。
宇都宮宗房には相変わらず抑揚が無い。
「常なる事をつまらない、と思うのならばそうだろう。俺にとってはよくある事に過ぎんというだけだ」
「にしても、頭に来るな。勝手に覗くような真似をして」
「それは、どの女の事を覗かれたと思うからだ?」
「何っ!?」
山路大隊長は苛立ちを隠さなくなった。
今にも掴み掛からんばかりの顔で宇都宮宗房を睨み付けている。
「宇山真綾が凌辱された果てを思うのがやはり恥ずかしいか」
「お前、何様のつもりだっ!」
山路大隊長の激昂は辺り一杯に聞こえた。
夜はそれを呑んでいく。
宇都宮宗房は続けて何かを言おうとしない。
「お前に何が分かる!? 俺が何を見て、何を思ったかまで分かったような口をして! ふざけるのも大概にしろ!」
「仮にも愛すると言った女の哀れな姿を平然と思い浮かべる君が俺を罵れるか?」
「思っちゃいない!」
「では何を恐れている? どうして内心を悟られる事を嫌がる?」
「いい加減にしろよ、お前っ!」
山路大隊長は一歩前へ踏み込んだ。
そしてその勢いで宇都宮宗房の所まで小走りに駆けて宗房の胸倉を掴んだ。
「ふざけるなって言ってんだよ、何なんだよ、お前っ! ケンカ売ってんのかっ!」
「やはりな。心を閉ざすか、山路兵介」
「っ!!!」
山路大隊長は胸倉を掴んだ両手から
だが、宇都宮宗房は空いている左腕を素早く上げて大隊長の肩に左手を開いて押し当てた。
肩を止められた隊長は振り被ったままで、拳は宙に浮いた。
「心に
「それを、お前がどうして言う資格があるっ!?」
「世に立ち、人と関わる者が、どうして覗かれる事を嫌悪し、拒む?」
「そうじゃねえだろうがっ!」
山路大隊長は力一杯に肩を動かし、殴ろうとした。
しかし、宇都宮宗房の手は微動だにせず、いつの間にか掴んだ腕も宗房の右手によって引き剥がされ、咄嗟に離された右手が大隊長の胸に押し込まれそのまま突き飛ばされた。
「何処の誰かも分からぬ奴に、という所か。なら、それは己を知らな過ぎる、山路兵介」
「何をっ!?」
宇都宮宗房は尻餅をついたまま睨む山路大隊長に一歩近付いた。
「お前は既に、多くの眼に晒され、多くの好奇の眼がお前達を見ている。ここに度々寄って物思いに耽る事も『皆』が当然知っている」
「おかしな事を抜かすな! 誰が! なんのために! イカれてるっ!」
山路大隊長は酷く興奮し始めていた。
宇都宮宗房はそれを分かっていた。
「『皆』がこうしてお前を見ている」
宇都宮宗房はジャケットの裏に右手を入れてすぐに引き抜き、そのまま山路大隊長に向けた。
大隊長は一瞬で目が覚めたようだった。
宇都宮宗房の右手には彼が見慣れた物、それに近しい物が握られていた。
「こうやって、な」
右手は山路大隊長の知っている物より一回り小さい銃を握っていた。
これが「ライノ」という小型の銃である事を大隊長は知らない。