円卓
文字数 17,005文字
屋代島攻防戦は、九州鎮台・アメリカ連合軍の勝利に終わった。西海九州の枢軸、大宰府と博多湾を擁する
円卓会議は、大島事変の「戦争責任」を巡って紛糾し、首相が辛うじて議長としての主導権を維持したのも束の間、今度は同島の防衛計画に焦点が定められた。
畿内軍閥の謀将、宇喜多清真が反撃の駒を動かすのは、もはや時間の問題であろう。山陰・山陽地方には、
そして、「葡萄月」が最期の戦線に
「円卓の騎士は物語の作者、登場人物であると同時に聴衆となる」
(国際大百科事典)
夜中に一睡もできず、屋代島陥落の報を待ち侘びていた吉野菫と九州鎮台総監部は夜が白んで来るに至ってようやく陥落の報を聞き、安堵と共に一斉に睡魔に襲われる事となった。
本来は朝食を取りながら一同会して今後について協議するはずであったのだが、夜営や深夜勤務に慣れている総監部の軍人や首相府付きの官僚達に対し、飽くまで日が昇り、日が沈む、その間を勤務時間として定めて率先してノー残業デーを導入している吉野菫には夜通し待ちは
総監部に詰めていた高級幹部達が司令部の円卓を立ち、それぞれの仮眠場所へ去って行くと、今度は下っ端達の仕事が本格化する。
寝る事を知らないとされていた「鎮台の
高官達が眠りに入って2時間以上が過ぎた。
無茶振りをする幹部達に飼い馴らされたスタッフ達は手際良く職務を粗方全うした。
会議の準備は出来ている。
どーせ、小一時間で目が覚めて、ベッドの中であーでもないこーでもないって思案中なんだろうけどさ。
蓮池大尉は類推した。
長い付き合いである。
想定の範囲内だ。
アレなりの
…まあ、ホントに眠かったんだろうけど。
蓮池大尉は時計から目を徐々に近付く音の方へやると、陶山聖尚がそこに居た。
「君の目の下のファンデーションは実に濃くなった」
言われるまで気にもしなかったが、蓮池大尉の目の下には隈があった。
主と共に連日働き、自宅には既に一週間以上帰っていない。
そして、対面するいけ好かない婉曲口調の男にもそれは共通していた。
陶山聖尚はまして対馬守備隊の仕事を抱えつつ、総監部にて屋代島攻撃の作戦立案を手伝い、兵站作戦の指揮を採っていた。
数年前に起きた軍事クーデターにより多くの軍の有力幹部が討たれたため、その討伐の立役者である諫早利三とこの陶山の負担はその分だけ多くなった。
疲労は最高潮だ。
「首相も大分お疲れだったろう」
「で、あろうな。あの島が、即日落ちると思う方がどうかしている」
そっちかい。
蓮池大尉は小声で吐き捨て、スボンのポケットに手を突っ込んだ。
「会議前は禁煙だ」
蓮池大尉は箱の半分まで引っ張り出していた煙草を苛立ち共々押し込んだ。
具体的には、舌打ちが増え、歯軋りし、顔の陰影が濃くなるほどに顔を顰めるのだが、これが周囲には不評―と言うより恐怖―で、皆が近寄らないようになる。
しかし、この陶山対馬と空気を読めない小姑諫早だけは一向に構わず近くにやって来て、何事も無かったように接して彼女の機嫌を損ねる。
「間も無く刻限だ。君のリラックスタイムは長いのでな。2分以内に帰って来るなら認めよう」
顰めた面から覗かせた眼が陶山対馬の顔に突き刺さる。
喫煙所は会議室から歩いて5分の所にある。
なお、2分で戻って来られる所には化粧室がある。
さすがに蓮池達も仮眠中の吉野達を起こしには行かない。
以前、睡眠薬を飲んで眠った吉野首相をベッド蹴り飛ばして起こしに行った事はあるが、それ以後蓮池大尉と諫早少佐が睡眠薬を隠してしまったため、特に起こしに行く必要も無い。
それに、どうせもう起きているはずだ。
最近は(年齢によると断定できる)体力低下が原因で疲れが取れず、起きにくくなっていると首相本人は言うが、仮にも元アイドルである。
中には覚醒剤打って仕事する事を余儀なくされるアイドルが居るとさえいう業界に居た女であり、例え年増になっても、最近腰周りに肉が付き出していても、肌が衰えてシミが増えたのを悩んでいるのを見て思わず「もう見る影ないですね」って言ったら(言わずにはいられない、この愉快さ)、顔真っ赤でブチ切れた挙げ句号泣して東京とのテレビ会議がお流れになったりしても、いざとなればスクッと起きて来る。
ああ、煙草欲しい。
そう大尉は強く強く思っていた。
重要な作戦の前に深酒で寝過ごして大敗を呼び込んだ
ああ、
大尉は強く思った。
「おはよう諸君」
入って来たのは、千々石リカルド。
ブラジルから帰化した日系人三世。
陸軍少将であり、鎮台随一の精兵「
かつて「我らがローラン」と呼ばれたガリア(フランス帝国)の将軍
姓の通り日系人だが、顔立ちは明らかに西欧人のそれであり、しかも所謂ラテンアメリカ人のステレオイメージとは離れ、色白で怜悧さを思わせる切れ長の眼をした北欧風な男である。
ミュンヘン生まれのドイツ移民も混じった家系でもあり、本人がそう言わなければ日系人だとは思われない長身の男である。
「おはよう御座います、将軍。少しはお休みになれましたかな?」
「ミスター スヤマ、そしてミス ハスイケ。貴方達の好意には感謝したい。すっかりこの通りだ」
胸を叩く身振りを付けて自身の健在を示すリカルドに、蓮池大尉は無言で軽く会釈した。
「将軍が一番乗りですね」
「ああ、こういう時ぐらい一番になりたいからね」
リカルドは屈託なく笑みを浮かべた。
この男にはこういう子供じみた感傷を抱く所がある。
「他の方もこちらへ?」
「ああ、先程ジェネラル コテダとアドミラル アリマを下の階の廊下で見掛けた。間も無くこちらに来られよう」
「そうですか」
蓮池大尉は腕時計にチラッと眼をやった。
定刻へ秒針が進んで行く。
リカルドは自身も会議室の時計を見て、会議の刻限を思い返し、誰に言うでもなく口をついた。
「さて、首相が来たら早速会議だ。…定刻通り始まると良いが」
ハハッ、とリカルドは軽く笑って数時間前まで座っていた席へと歩いて行った。
陶山対馬は何も答えず、席へ近付く後ろ姿をつまらなそうに見ていたが、軽く溜息をついて視線を離した。
リカルドの様子を見ていた蓮池大尉はおもむろに立ち上がって、少し足音大きめに会議室の戸へと向かった。
リカルドは眼球だけをずらして大尉の動きを見ていた。
「どこへ行く、蓮池?」
蓮池大尉はやや乱暴な手付きで戸を開き、そのまま執務室へと踵を向けた。
リカルドは流し目に戸を見ていたが、やがて関心を失って円卓に設けられた座席へもたれ掛かった。
軍の柱石にして保守派の筆頭格。
クーデター後に頭角を現したドイツ留学組領袖の籠手田と、同様に出世した英国留学組の指導者有馬。
鎮台の軍事増強に各方面へ著しい貢献をした。
千々石リカルドもそうだが、鎮台の軍人達は実直で熱心だ。
しかし、政治には関わらせたくない、そういう人物達だった。
かつて、同盟者たるアメリカ軍との関係の中で、九州鎮台は崩壊しかけていた。
反乱者を討伐した後は特に悲惨で、鎮台は各地の平定に失敗し続けた。
その最中台頭したのがかつて彼ら非アメリカ留学組の中級幹部達である。
反主流派であった彼らは自己矛盾の内でせめぎ合い内部崩壊したアメリカ留学組トップ達の失脚を好機として這い上がって来た、不甲斐ない先達と強敵との激戦の中で生き残り歴戦の猛者と言われて来た彼らは自分達こそ鎮台を支えて来た貢献者であるという自負が強く、反乱と崩壊の原因を作ったアメリカ留学組と、「彼らを重宝して手を噛まれた」吉野菫を内心軽んじている
特にドイツ共和国軍機甲師団で抜群の実績を得て帰国しながらも閑職に追われ、反乱平定まで這いつくばりながら生きて来た籠手田中将は吉野菫を激しく嫌っていた。
籠手田だけではない。
反乱者
もしくは意地汚く、こう呼んで
結局、籠手田達は吉野菫という人物を何一つ理解しようとはしなかった。
そういう意味で、吉野菫を日々支えて来た者達は、彼らを政治に決して関わらせたくはないと強く思っていた。
蓮池大尉が予想通りにベッドの中で円卓が揃うのを待っていた吉野菫首相を部屋から引っ張り出して会議室へ戻ると、座席には幾人か腰を着ける者が増えていた。
出て来た時よりも、少しばかり騒がしい。
会議室に入るなり、吉野菫は元気の良い、明るくはっきりした声を円卓へ掛けた。
蓮池大尉の機嫌はまた損なわれた。
円卓は静まり返り、一刻間が空いた。
「……ええ、それなりに」
首相吉野菫の対岸に居る有馬治三郎提督が冷めた目付きを首相へと向けながら、抑揚も無く答えた。
吉野首相は少し微笑み、座席を引いた。
蓮池大尉は視線を有馬提督の横へやった。
籠手田泰志中将は首相の顔すら見ず、手元の資料に眼を落として口を開く素振りも見せなかった。
そこから2席ほど離れた座席に居るリカルドも仕草こそ違えど、もたれ掛かったまま答えようともしない。
加えて、リカルドの隣に居て先程まで彼と談笑していた―廊下にも聞こえるほど愉快そうであったのに!―鎮台空軍中将宇垣麟太郎も腕を組んで顰めた面を造り、眼など瞑って聴いているのかも分からない。
有馬のもう一つ隣にいる陸軍きっての勇将、鎮台熊本基地駐屯教導師団長の鹿子木武時陸軍少将はメランコリーの体勢で
大尉が流した眼を向けた陶山対馬は彼女の視線に気付き、瞬きを2回した。
大尉は鼻で不満を吐いた。
「おはよう御座います。今日は実に気分が良い」
蓮池大尉の背後から不意に大きな声が掛かった。
そして、振り返る前に大尉の背中に平手が一発当てられて、彼女は少し前のめりになった。
「そういう意味で申し上げましたよ、閣下。なあ、宇垣中将?」
「……あ、ああ、そうだね」
宇垣中将が突然の語りかけに驚いているのをよそに、その者は吉野首相の隣に腰を下ろした。
言い方が多少癪に障る男だが、この男は冷ややかな空気をのっけから無視して自分のペースに従う。
鹿児島生まれの鹿児島育ちだが、上京して「標準語」を「学び」、留学もせぬまま国内で日共残党狩りや経済水域の侵犯を繰り返す隣国の巡視船に機関砲を叩き込む軍隊生活を繰り返して来た鎮台海兵大将。
元々は陸軍機甲科だが、着任早々に異籍して海兵隊創設に加わり、今では30代にして鎮台の猛者部隊「
首相である吉野菫に対しても正直に失礼な文言を並べる男ではあるが、しかし、下らない陰湿さを持っているこの円卓においては唯一の清涼剤であった。
「そういう首相はどうです? 先程は随分と眠そうでおられましたな、確か」
両腕でガッツポーズを決めた吉野首相を見て、周囲は冷めた態度を取っていた。
「わけがわからないですな、閣下。どこが『この通り』なのか、全く伝わりませんよ」
川上司令のからかうような口調に、吉野首相は乾いた苦笑を漏らした。
蓮池大尉は小さく息をついた。
本当に、この男しかマトモに話す相手も居ない。
マトモな話をしていると言えるのか、たまに不安にはなるが。
川上司令の言った通り、吉野首相は「すっかり」していない。
連日の激務のために身体は時折悲鳴を挙げる。
蓮池大尉が睡眠薬を取り上げたのは、彼女が疲れるに任せて無意識に過剰摂取しないようにするためでもあった。
疲労は判断を過剰にする。
疲労しきった人間が別個の新たなストレスによって突然爆発し攻撃的に豹変したり、不意に列車が走り込む線路へ飛び込んだりする事もある。
首相の場合はこの空気が彼女の疲労感を酷く高めていた。
しばし、両者がやりとりする間に円卓には人が集まりつつあった。
「鎮台の小姑」諫早利三海兵少佐、総監部議長の吉岡秀典陸軍大将、同作戦部長臼杵栄雄陸軍中将、同情報部長長倉晋三海軍少将、同兵站部長
吉野首相は自分の対にある壁時計から眼を落とし、円卓を見渡してから開催を告げた。
吉野首相の左隣に腰を据えていた吉岡秀典がゆっくりと立ちながら、間延びした声で口火を切った。
「このたぁびの勝利にぃ、ついてでぇすねぇ、まぁずぅはぁ、首相ぅ閣下ぁにぃ~お祝いぃもぉうしぃあ~げぇまぁすぅ~」
立ち上がるのに杖をついてフラフラとし、持ち手はふるふると震えている吉岡議長の祝辞は、最長で一時間を超えた事がある幹部限定の拷問である。
理由はこの間延びした話し方と、この先に待つ唐突な昔語りである。
会議における名物であり、皺の顔をにっこりとさせ楽しそうな吉岡の口上は幹部達にとってはある種のハラスメントである。
「ジジイ、早く終われ。寝ろ」
「川上君、首から下焼却炉に入れて焼くよ?」
川上兵助の言葉に吉岡議長はさっさと切り返した。
まともに話せるじゃないか、蓮池大尉は毎度ながらそう思った。
「口上は舞台の上でやれってんだ」
「川上君、シベリアの雪はかえって暖かいそうだ」
吉岡議長に対してあまりにも無礼な事を抜かせるのは川上司令と酔い潰れた鹿子木師団長だけである。
かつて東京からの鎮台への出張中に吉岡へ不遜な発言をした
因みに副官成り立ての頃の蓮池夏希もそういう体験をした者の内に居る。
「さっさと始めましょうよ、首相。ほら議長座らせて」
「川上君、シベリアに閣下を連れて行く気かな?」
吉岡議長はにっこりとした顔のままである。
川上司令は心底うんざりした顔であるが、真ん中に置かれた吉野首相は気の毒な状態である。
これについては鎮台の諸将も人間としては同情している。
普段はこのまま川上と吉岡が数分やり合い、首相が抑え込むのだが、今日は趣が違った。
「まあ後で川上君は埋めるとして。閣下、お祝いはまた後で申し上げに伺います」
吉岡議長が話を切り上げた。
これは珍しい。
蓮池大尉はやや驚いた。
川上はふんっと鼻を噴かせうんざりした顔で
「さぁてぇ」
とにっこり笑った。
「――――――――始めようか、市民。定刻だ」
静かに告げられた言葉にはもう遊びが無い。
「さて、皆の衆。これからは総括をしなければならない。お分かりか」
「総括、ですと?」
「そうだよ、有馬提督。この度の不手際についてのね」
有馬提督はその言葉で吉岡議長の言わんとした事が分かった。
「即日陥落と楽観視した事はまあ、僕にも責任がある。そのために余計に掛かった被害や金についてはスタッフ達がまとめてくれているからそちらに委ねよう。問題は、それまでの経過だよ」
吉岡議長は淡々と続けた。
その視線の先には長倉晋三総監情報部長と臼杵栄雄作戦部長が捉えられていた。
二人は蛇の前の鼠のように、窮地の淵にある。
吉野首相にはそう見えた。
だが、鼠とて部長である。
長倉情報部長が口を開いた。
「情報部として、敵戦力の見通しに誤りがあったのは認めます。しかしながら」
「結構。誤った情報で沢山の兵士を死なせたね」
「あ、いや、その。それは」
長倉部長は二の句を必死に吐こうとしていたが、吉岡議長はもう一方の眼で捉えた臼杵部長へ関心を向けた。
「臼杵作戦部長、敵が水際防御を採ると断言し、結果敵は
「それは、いいえ、想定より外しておりました」
「結構」
臼杵は対して殊勝な構えであった。
それは反論を諦めた、と言うのと変わらない。
「両部長は己の職権が多数の兵士を失わせる事に全く考えていない。残念だ。嗚呼、口惜しい」
吉岡議長は心底悲しそうな顔をして、一見すれば気落ち振りに同情を覚えてしまうほどの様子だった。
しかし、円卓の面子はそう思わなかった。
「市民長倉、並びに市民臼杵の両名は自己批判の時間も必要だ。本日を以て両名を更迭する事が肝要と心得る。吉野閣下、如何でしょう?」
「彼らに釈明の機会は与えております」
「閣下。体制は
吉野首相は何も言わなかった。
蓮池大尉も陶山対馬も黙って様子を見ている。
「議長、さも当然と申されておるが、それは誰の事を」
「君はいつから私の発言を割って良くなった、米良君」
公安委の米良長官の口出しは差し止められた。
言葉と共に向けられた視線を恐れ、米良は吉岡議長から僅かに顔を背けた。
「不躾な輩達が、大島一件の発端を作り、長倉部長がそれに乗っかり、臼杵部長が早々と立案して話をトントン運びよった。挙げ句の強硬策でこの惨憺たる結果が起きているのです。お分かりでしょう、閣下?」
既に承知している。
ただ、吉野菫としては、気に入らないが熟練の軍高官を今の局面で更迭する事だけはしたくなかった。
しかし、吉岡の言葉に納得したい部分もある。
「昨今は大宰府において、文武の官が互いを疎み、貶し合い、遂には互いの論功争いを始めて、戦争まで持ち込んだ。私も抜けていたよ。体よくドイツ視察の機会が出来たと思って諫早君を連れて飛んで行ったら、その矢先。おまけに理解しがたい渋滞にまで」
端に居た蓮池大尉が思わず漏らした。
吉岡議長は思わぬ方向からの声で脱線に気付いた。
「ああ、それは関係なかった。失敬した。あのね、書記君。議事からは差っ引いておくれ」
吉岡議長は少しだけ、顔を緩めて、書記役の官吏に告げた。
途端に緊張していた有馬達の顔が疲れたように緩んだが、吉岡は再び思い出したようにうんざりした顔になって、続けた。
「みっともなくて、鼻が落ちそうだ。長倉君は過信のあまり情報の取捨選択を誤って臼杵君のミスを誘い、臼杵君は考えれば容易な罠に
吉岡議長は、少々口が荒くなってきた。
「つまらん小僧の策にはまり、自らの謀で腰を打って、あまつさえ軍旗掲揚の武勲は海兵隊に代行される! 火傷を負ったばかりか、敵の後退までみすみす見逃す! この体たらく、この無様、如何に口汚くしても罵りの言を欠きがたい! 山狩りで得たのは、わざとらしく投げ捨てられた岡山旅団の
長倉部長が吉岡議長に恐縮して縮こまっているのを、吉野首相は少し小気味良く思っていた。
対して、臼杵部長が堂々と、どちらかと言えば不遜にも、背を伸ばして吉岡の言の一句一句を聴いている様子であるのが、少し面白くなかった。
「両人の責は罪として論じる事もできる! 閣下、かの二人をみすみす円卓に加えておく事が、それを許す事がこの鎮台を蝕む弛緩の根源と捉える事が肝要と心得ます。御裁可を頂きたく存じます」
かえって、立派なものだと吉野首相は思いさえしたが、同時に不快でもあった。
体制弛緩の根源と吉岡議長は言ったが、それはつまり、この暴走・独走を容易に許す鎮台の土壌であった。
かつては
特に硬骨漢の江上や
それが、吉野菫の蝕まれた両腕として曲がりなりにも機能していた時代もあった。
しかし、課長は吉岡と協調する「鎮台の小姑」諫早利三に白昼殺され、五人衆は内訌の末挙兵に及んだ江上の手により崩壊し、江上の死と共に滅んだ。
吉野菫は以降江上の挙兵による政治混乱の収拾を口実に左派の吉野へ
少なくとも、イニシアティブを握れずにいた自分の事も吉岡は含んで非難をしているのだろう。
改革の着手をしろ、と言いたいのだ。
そう、吉野菫は考えた。
全く、これで戦勝祝いなどとよく言えたものだ。
吉野首相は内心苦笑した。
一刻押し黙り、そして吉野首相は再び吉岡議長を見上げた。
薄暗い照明の中では分かりにくいが、身体に対して少し白んだ色をした顔をした吉岡は、黙って首相を見ている。
「責任を自分で? それはまた何を?」
円卓の向こう側にいる千々石リカルドから声が掛かった。
彼は成り行きをつまらなそうに見て、少し飽きたような顔をしていた。
吉野首相はリカルドに視線を向けなかった。
「美談に仕立てるつもりか」
鹿子木武時は苛立った声で
「古来、兵を失った責任の取り方っていうのは、大抵慰撫のための前芝居。総大将がさっぱり首を打ち落とさないでいるのはそういう意図があるからだろう」
「何?」
吉野首相は何かスイッチが入ったか、間髪入れずに鹿子木師団長の物言いに喰って掛かって相手を挑発した。
また始まったか、と蓮池大尉は思った。
少し、椅子を音立てた鹿子木を隣席の米良長官が袖を掴んで止めた。
吉野首相の眼差しは鹿子木師団長に向けられている。
突き刺した、冷たい視線。
だが、鹿子木は何を恐れるでもなく、睨んだように首相を見詰めている。
「議長が何を言っているか俺にはさっぱり分からんのですがね、首相閣下? この戦争を発したのは紛れも無く首相、あなたのはずだ」
それが?
鹿子木師団長は怒気を含んで返した。
「長倉部長の情報を聴いて、戦支度を始めろと指示をしたのは閣下、臼杵部長の立案に判を捺したのは他ならぬ両閣下ではないか。何故、二人の首を獲る? それも返り血も浴びずに、腹を切らせる真似をして」
もっとも、実際に腹を切るわけではない。
飽くまで慣用の物言いである。
しかし、長倉部長や臼杵部長が今後も続くであろう吉野体制で再び返り咲く日は全く無い。
鹿子木師団長は強く憤った。
「何を戯言っ!」
「まずは、この度の総括。損害を査定し……てくれてるでしょうけど、それを踏まえた上で次を考えなくてはなりません。御両人の事については飽くまでその後です。総括には御両人にやってもらわなくてはならない事が仰山出て来るわけですから、それを終えてくれないと困ります。……それとね、師団長?」
吉野首相は鹿子木師団長を睨み付けた。
鹿子木も眼を逸らさない。
「何っ!」
吉野首相は一刻間を置いて、
そう告げた。
「おのれっ! 何様のつもりかっ!」
「何様はいずれか? 私は鎮台の首相を主上より任じられております。吉野菫個人への不敬無礼な物言い、市民としては一向に構わない。が、この場における私を首相と知ってその態度ならば、それは皇帝陛下への不敬となる事をよくよく理解しておきなさい」
「な、ぬぅ」
鹿子木師団長は二の句を継ごうとしているが、しかし、語彙と
円卓議長とは吉野菫、鎮台首相である。
やり込められた鹿子木師団長は
「……結構。閣下がそう考えるのであれば、それはそれで」
吉岡議長は鹿子木師団長が黙って席へ腰を据え直したのを横目に、打って変わった静かな口振りで賛意を告げた。
結局、長倉部長と臼杵部長の件について、更迭あるいは自賠責いずれにおいても円卓は異存なかった。
鹿子木師団長もその点自体は異議を申し立てる事なく、結局そのままの流れとなった。
軍歴のキャリアに傷が付いた長倉は間も無く健康上の理由で退官し、臼杵は名誉連隊長として左遷された。
屋代島を攻め落とした後、宇喜多清真は如何に攻め掛かるつもりか。
それを考えなくてはならない。
少なくとも、取られたままの大島をそのままにしておく事はできない。
山陰陽の覇者として「アミール」あるいは「
既に間諜より報告が上がって来た。
山陰陽都督で勇将と聞こえる
密かに財政窮乏につき、外貨稼ぎに仲違いしていたロシアへ貸し出されてアフガン戦争にも従軍したという噂もある日共の兵士達を多数含んでおり、アフガンに留まらず星川の挙兵、ダウンフォール作戦、清水の一揆と負け続けの実戦経験ではあるが、生死を分かつ戦場で臆病者の誹り無く戦い生き残った実力者達が最後の仇花を咲かせに山陰陽に雇われたのである。
政治的に難しい立場にある防長への派遣部隊の指揮を託された松田は武力衝突をともすれば大それた戦に持ち込みたい鎮台の強硬派や東京からの派遣士官達の意図を見抜き引き際を考えた反撃と防衛に徹し、結果鎮台側は傷ばかり負って、これまで得たものは少なかった。
若い頃は日共の紅衛兵殺しに名を揚げ、匹見(石州 益田市 匹見町)の山間を利用した拠点で日共兵や少年ばかりの紅衛兵、名誉欲に面の張った政治将校を待ち構え、味方十余騎と
日共崩壊後は出雲に属して山陰を巡る畿内・宇喜多との抗争や防長方面のマフィア狩りに手を尽くし、盟友
飽くまで国内の非正規戦出身の将だが、正規の戦でも遺憾なく発揮された軍才は山陰陽都督の将官でも随一であった。
かつての同胞殺し(紅衛兵を軍兵が同胞として扱っているかは実際不明だが)で反共主義者であるはずの松田に従わされた当初の反発を除いて将軍の人となりに共感した「葡萄月」大隊で彼の命令に背いた者は一人として無いと間諜は報告していた。
畿内や宇喜多の軍隊と戦い続けた山陰出雲の師団と鎮台の拙攻に付け込んでまんまと翻弄し撤退し得た大島守備隊残党を円卓は「松田勢」と仮称し、強敵と見なした。
※1184(寿永三)年「一ノ谷の戦い」(
円卓は屋代島の守備隊の司令官に千々石リカルドを当て、大島守備に関係する部隊およそ1万3000人の指揮を託した。
また、同盟者たるアメリカ軍の協力を得て、山陰陽都督府と北平(北京)政府との通商関係を断ち切るために北平並びにモスクワから派遣された士官による軍事訓練キャンプを抱え島全体が軍事施設として機能している隠岐を叩く事とした。
制圧のために鹿子木隷下部隊を優勢な海上戦力と共に送る事も合わせて決められた。
加えて、大島を巡る抗争で否応なしに主戦場となる見込みとなった防長、それも主要港を備える下関と政庁を有する山口(周防 山口市)、
飽くまで民間人を巻き込まず、和戦の選択肢を保っておきたい吉野の強い意思であった。
蓮池大尉の口振りは少し呆れたようであったが、吉野首相は気にも掛けず当然の如く言い切った。
円卓周辺には4人おり、腰掛けて会議資料を
こういう時大尉はまず手伝わない。
少なくとも片付けられない女である大尉にそれを頼む者も大宰府には居ない。
鎮台政府執務室のコーヒーカップがオフィス用のプラスチック容器になったのは、値の張る高級輸入品をことごとく割り続けた―決して故意ではない―蓮池夏希一人のためである。
吉野首相は盆にカップを重ね置いて、手を止めた。
蓮池大尉はそう言うと、円卓から腰を上げ、吉野首相から数歩の距離を取った。
今日からねぇ、と呟きながら吉野首相は盆を手に取り、円卓までカップを取りに来た真新しいスーツの新入り官吏へと渡した。
「それは大島が落ちたからかね、蓮池大尉」
「なんて無茶苦茶を抜かしおる」
同じようにやって来た女性の官吏へ盆を突出した諫早利三は、平然と答える蓮池大尉へ苦々しさを覚え、率直に伝えた。
「そんな事は分かっている。私が欲しいのは、そんな餓鬼の答えじゃない」
「鹿子木には命じたではないか」
適当にあしらった蓮池大尉に諫早少佐は怒りを示した。
「貴様、友軍を撒き餌呼ばわりとは如何なる存念かっ!?」
「蓮池っ!」
諫早少佐は怒気を強めた。
蓮池大尉は団扇もとい書類を煽る手を止め、つまらない物を見る眼で諫早を見据えた。
両人の間には緊張感が常にある。
不遜な蓮池に不服の諫早、分かり易い構図である。
蓮池大尉は元々、理由は分からないが(分からないでもないが)諫早少佐を嫌っていた。
諫早も何と無くだが、彼女の仕草一つ一つに気に喰わない所があって仲が悪かった。
「両人、控えられよ。常なる事とは言え、まるで成長が無い振る舞いは眼に障る」
少なくとも、この二人よりは、である。
「陶山君、君は彼女の物言いになんら思う所ないと申すかっ!」
諫早少佐は仲裁の言葉で更に燃え上がった。
陶山対馬は抑揚も無く、平然と返した。
「常なる事にて、いささかも。実に蓮池らしい人で無し振りであった」
「なんと言う。貴様にも礼節を教えなくてはならないのか」
諫早少佐は嘆息した様子だった。
「撒き餌、と蓮池は申したな」
「君はまるで中学の子供だ」
蓮池大尉も少し、熱を帯びた。
陶山対馬は相変わらずの様子だ。
「誰是構わず皮肉を述べ、無意味に喧嘩腰で挑み、事を煽り荒立てる。騒ぎに騒ぎ、捻くれて考える事を真理に通ずると思い込んだ、餓鬼の精神に相違ない。下らん。君が控えて、諫早将軍に事を述べれば、波は穏やかだったというのに」
蓮池大尉は言い切られてそのまま何も言わず、ふんっ、と顔を背けた。
何も言えなかった。
すぐに拗ねた様で押し黙る。
だから子供だと言われるんだって、と吉野首相は内心苦笑した。
「但し、撒き餌という言葉の意味は肯定しておく」
「陶山君っ!」
陶山対馬に諫早少佐は噛み付かんばかりの表情で怒鳴り込んだ。
「隠岐に海上戦力と鹿子木の戦力を動かせば、出雲と境港(
陶山対馬は飽くまで変わり無く述べた。
諫早少佐は紅潮したままである。
「だが、それでは……っ!」
「鹿子木は最悪、中華ソビエトの上陸軍と出雲の
「陶山君、君は冷血動物だ!」
諫早少佐は紅潮した顔を陶山対馬に肉薄させ、罵った。
陶山より背丈が足りない諫早だが、少し猫背気味である平素の陶山には丁度良い位置に顔があった。
両人は互いの吐息が濃く面を覆う所で相対していた。
「まだ先は述べていないが」
「述べずともそこから先は分かっておる!」
「そうか」
陶山対馬は淡々と述べた。
それが諫早少佐は更に腹を立てて、今にも掴み掛からんとしていた。
発端の蓮池大尉はいつの間にか居なくなっていた。
後始末に来た職員達は傍観せざるを得ない。
触らず、しかし決して目を離さない。
衆目がそこにある。
吉野首相は小柄な身体を両人の間に割り込んで行った。
こうしてやらねば収まらない。
鎮台ではよくある事である。