船上
文字数 10,543文字
屋代島陥落後、日本国教会神官の
十三宮家は、津軽
私達はまず、静岡
この後、私達は松山で赤十字博愛社に迎えられ、次いで畿内軍と共に神戸へと上陸する予定になっているが、既に数多の思惑が渦巻く航路において、一寸先は闇、四方は魔に満ちている。そして、船長室には…。
瀬戸内は列島の両岸に広がる大洋から見比べればおよそ湖の如き物であるが、温暖な気候と豊潤な資源を以て沿岸に港を多く設け、洋上の先を行き来する人々を集めてきた。
その内の一つ、神戸は幕末に開港して以来、列島有数の港湾都市として主を変えながらも発展を続けていた。
その神戸を遠目に眺める沖合、コンテナ船が一隻松山までの航路を進んでいた。
コンテナには多種の荷が積まれていたが、このコンテナは訳ありの人間も積むようであった。
積荷の一つの名は須崎優和と言う。
清水港(
普段は二等航海士を追い出して占拠した部屋で護衛役と共に荷積み暮らしに
日中のんびりと時を過ごし、夜は船員の部屋を訪れ、主への祈りを望む者には主の肉体と血に成り代わり聖水3リットルボトルを、渇きを訴える者には清らかな水を2リットル直接流し込み、慰めと
彼女は昼下がりには甲板に出て、海を眺める。
ここ数日は護衛役を少し離して日向ぼっこを楽しんでいたが、今日は傍らに呼び付けていた。
「それは飽くまで『ただ乗り』だからでしょう? 船員達はそれほどでもないかと」
いつも纒う黒衣の修道着ではなく、白のブラウスに黒のスラックスで肌を覆い、黒のヴァンプローファーを穿いている。
長い艶のある髪は平静の通りの扱いで、甲板を抜ける風に揺らされやや
「恐れながら司祭様、教会の高位であり、加えて一介の修道者である貴方様が安楽を望み貪るのは信徒の範に相応しからぬ事かと」
「お立場は司祭として招かれております」
司祭たる自分に諫言を申し立てる護衛役の律儀さには正直頭が下がるが、鬱陶しい。
須崎司祭はこの余裕の無い相手に呆れていた。
身なりからして今時こうまで凛々しく着こなす者は珍しいビジネスウェアであり、その真面目さと遊びの無さに司祭は彼女を推薦した十三宮聖の意図を察した者である。
加えて護衛役は凛々しく精強ながらも女であり、齢にして司祭に及ばぬのである。
「役に背いて安楽に没するのは、七罪にして」
護衛役の清く正しい高説を手で払い、須崎優和は持ち込んだ腰掛けに尻を降ろした。
護衛役は遮られた事にも憤りすら無く、無表情で腰掛けの左斜め後ろに直立している。
内海の沖合は波高く、しぶく様子は二人の視界にも入っている。
仕える主人が潮の眼に些か物思いしていた事など気にする素振りも無く、気付いていたかも疑わしい。
時折、教会の熱心な信徒は日共の若き理論家達の在りし日に重なって仕方が無い。
須崎司祭はこのところ特にそう思えてきた。
「はい、司祭様」
「いえ、全く」
戯れに対し、随分な答えを突き返してきた護衛役に須崎司祭は呆れ以上の感想を得た。
「司祭様、御質問の意図が分かりません」
「そうですか。分かりました」
会話がまた途切れた。
須崎は聞こえぬぐらいの溜息をついた。
今日は彼女を良く知るために傍に寄せたというのに。
このサージェント、家所花蓮は名前負けする振る舞いと言い、理解が及び難い所が多い。
そもそもカトリック教団が内々に組織した反クリスト対策部隊の一員であり、日共の誕生と崩壊により生まれた歪みに対しての穢れ仕事を請け負ってきた。
そういう手合いを率いる隠れキリシタン上がりの血族へ今回の役回りの危険性を危惧し
教育勅語を愛する教団の長に、日共時代はテロリズムを繰り返して主の威光を物理的に知らしめ、体制崩壊後は日共残党や敵対視した異端宗門を
まともな相手でないのは分かっている。
しかし、折角だ。
折角の機会なのだから、という気もあるし、クライアントとの繋がり以外頼るものが無い今回の務めに対して少しでも安全策を得たかったという本音もある。
だが、この調子では
役に違える事を嫌う送り元のスタイルから裏切りの可能性は低い、と盟友十三宮聖は述べていたが、その十三宮教会自体本来なら異端討伐の対象として家所花蓮達を送り込まれかねない存在であり、十三宮教会の政財への繋がりや飽くまで影にあって世の趨勢を見定めたい家所花蓮の親方の意向―以外にも理由があるみたいだが―によって協力体制が成っているのだ。
念のため、という考え方は決して深読みではないはずだ。
少なくとも須崎優和という人格はそれに是の判定を下したのだ。
それでも、この具合では如何ともし難い。
馴れ合いをさせぬように仕向けたか。
斜め後ろに舌打った。
家所花蓮には聞こえただろうか?
護衛役は微塵にも揺らぎを見せずに直立し、須崎司祭は腰掛け時を過ごす。
この姿が小一時間甲板に見受けられた辺りに、甲板に人がやって来た。
船長の遣いである。
護衛役が足音へ振り返ると共に腰掛けの背後に立った。
遣いである一等航海士は護衛より5歩離れた場所に立ち止まった。
「御用の向きは?」
「船長へ松山より入電がありました。その報告です」
引き締まった肉体に多少日焼けた肌をした航海士は白い士官服の映える男振りで、流行りではないのだが、なかなかにハンサムな面立ちをしていた。
花蓮越しに須崎司祭の指図が聞こえ、航海士羽床一督は軽く咳払いをした。
「松山の赤十字より、お二方の受入と神戸への護送準備整ったとの事です」
「もう一点あります」
「……」
羽床航海士は護衛役に視線を合わせた。
家所花蓮は姿勢を改めない。
須崎司祭は座ったまま腕を回して家所花蓮の腰辺りを突ついた。
すると花蓮は体を須崎の左手に移って眼で羽床航海士に促した。
「松山の赤十字には浮田郷家様の手の者が控えております。その際にはくれぐれも十三宮教会のお立場が悟られぬよう司祭様からもお気を付け頂きますよう、三沢殿から言い含められております」
須崎司祭はそう言い切ると僅か睨むように眼を羽床航海士へ向けた。
羽床は一呼吸置いて改めて述べた。
「実を申しますと、神戸に入られた後お二方には宇喜多様と行動を共にして頂きたく事になっております」
「この度の陣には多く傭兵を招いております。その内、勢威あってそれぞれの傭兵達を心服させている者は共にお二方に敵意を向ける危険性があります」
「狙いは定かならざる所でありますが、単に言えば歴戦の傭兵隊長ゆえで御座いましょう」
「ただのごろつき風情が……。奴さんの名は? まさか、名前がYから始まるのとか、Kから始まるのとか、Tから始まるのとか勘弁してね。帰るからね、ソイツら居たら。それから、ほあー、とかもアウト。渡り
「はあ……」
羽床航海士は須崎司祭の指し示している相手のどれにも思い当たる節が無く、気の抜けた返事しかできなかった。
「司祭様」
「
須崎司祭は眼を
羽床航海士も呆けた面を晒している。
家所花蓮はその顔を見て、咳払いをして続けた。
「いえ、言い直します。よぼよぼの、お爺さんです」
言い直された報告に、聞かされた二人は思わず眼を合わせた。
須崎司祭は少し、引き
正直、こんな話し方をするのを初めて聞いたからだ。
家所花蓮は常の通りに顔を整えた。
「いいえ、司祭様。恨みを抱くほどの面識はありません。ただ」
「傭兵稼業の連中は皆ど畜生だと、『
「
須崎司祭は家所花蓮の主人については僅かに知っている。
今は組織を「
花蓮の口振りからすると、まだ心の傷口は開いたままのようだ。
開いたままでいれば良い。
きっと奴には幸福だ。
知らないで居て欲しい。
出喰わせば、見るほどにおぞましく、脳裡より離さないだろうから。
僅かに知る者は勝手にそう案じ、本題へ帰った。
「あ、はい」
羽床航海士はまだ呆けたままだったようで、返事から一拍置いてから報告を始めた。
「一人はジャルコ ゲリッチ。元セルビア陸軍の将校で、コソボで300人以上の民間人を殺害した咎のために国際手配中の傭兵隊長です」
羽床航海士は屈めた腰回りに着けている携帯電話用のケースに手を伸ばし、そこから一枚の折り畳んだ紙を取り出して、眼を落としながら続けた。
「現役の折には様々な特務を任されてきた奴です。加えてチェチェン紛争とグルジア侵攻の際にはロシア兵として勲功を得ております。終いには南スーダン軍に加勢して
「今はツル…ヴェナ、ズヴェズダ?とか言う傭兵隊を率いているそうで」
須崎司祭はメモを見ながら言い慣れず戸惑う羽床航海士に少し苦笑した。
「これは一体…?」
「…申し訳ありません。サッカーはあまり」
須崎は少し詰るような口調をした。困った羽床はチラッと花蓮を見たが、すぐに無駄だと悟った。
もっとも須崎自身最近ネットサーフィングをして知ったのだが、聞かされた二人は知る由もない。
「クロアチア人はカトリックですよ、司祭様」
不意に横の家所花蓮から声が掛かった。
言われてみればそうだった。
須崎司祭はああ、そうだっけと相槌を打った。
「同類あるいは異端扱いかと」
家所花蓮の容赦ない一言に司祭たる身も肩を落とさざるを得ない。
「無理です」
須崎司祭はからかい半分に焚き付けるが、羽床航海士は顔の前で手を振った。
「自分、船乗りですから」
羽床航海士は咳払いをして区切りを付け、改めて背を
「もう一人は
「また傭兵ですか」
僅かに家所花蓮が舌打つように呻いたのを須崎司祭は聞いた。
そして須崎の口元が少し綻んだのを羽床航海士は見た。
「はい。聞く所によれば過激派に連なるとも」
「司祭様? しばしお待ちを!?」
「司祭様、訛ってます」
ギャーギャー騒ぐ司祭とツッコむ所かボケに回る護衛役。
この連中への引き継ぎを後悔したのは実のところ初めてではない羽床航海士である。
僅かの内にすっかり慣れきったのである。
加えて、嫌な顔もしていない。
日常の光景となってしまっているようだった。
「しかし、航海士」
騒ぐ司祭を宥める羽床航海士へ不意に家所花蓮が怪訝な顔で声を掛けた。
「
「話はまだ終わってません、お二方」
「・・・・・失敬」
家所花蓮は羽床航海士の言葉に引き下がった。
須崎司祭はまだむぅっとした顔のままでいるが、耳はしっかりと立っている。
「マスードは宇喜多様の旧知の仲の方。加えてゲリッチと仲が悪く、些か扱いに難儀しているようで」
「一方に敵すれば、一方に与できると?」
「そこまでは申しませんが、少なくとも宇喜多様の側近くにあれば…」
須崎司祭が顔を変えぬ中、家所花蓮が羽床航海士に問い質し、羽床は少し難儀した。
役回りか天然か、この女は対し難い。
須崎司祭はそう言って溜め息をついた。
仮にも政権の行方を賭けた戦いを犬の喧嘩同然に扱うのに羽床航海士は唖然とした。
もっとも羽床も慣れた男であり、唖然とした顔は露にも見せず、無表情のまま絶句していた。
「連絡では」
羽床航海士は再びメモに眼を落とし確認を取った。
「
「御存知で?」
視線が外れたのを羽床航海士は勘繰ったが取り敢えず次に進めた。
「松山から神戸港に到着し次第、岡隊と共に福原へ向かい、そこで宇喜多様と合流して頂きます」
「港に到着する際と船内でしょうか?」
一考の最中に須崎司祭へ家所花蓮が混じって来た。
「黒十字ですか?」
「はい?」
須崎司祭も羽床航海士も思わず耳を疑った。
須崎司祭はおかしな事を口走った家所花蓮に怪訝な顔をしたが、花蓮は主の言わんとしている事を分かっていないようだった。
須崎は軽く溜め息をついて花蓮を無視する事にした。
すると腑に落ちないと言うような顔をしていた羽床航海士が須崎へ述べた。
「仮にも赤十字がそこまでやりますか? 名を汚してまで……」
須崎司祭は拍子抜けた顔で羽床航海士の顔を見詰めた。
「な、なんです?」
「な……」
須崎司祭の凝視に戸惑う顔をしていた羽床航海士は彼女の言葉に僅かだが顔を歪めた。
須崎は羽床の様子を見ても調子を変えず続けた。
「……どういう事です?」
羽床航海士の声に少し陰が差している。
だが須崎司祭は、そして家所花蓮も何ら変わり無かった。
「……ああ」
羽床航海士は半端な相槌をしつつ、しかし引っ掛かりが残っているようだった。
羽床航海士はそこで確かな引っ掛かりを感じた。
「しかし、それでは皆を疑わなければならないのでは? この船とて」
「な……」
羽床航海士は言い切られて何も言えなくなった。
そして少なからず憤りが生じた。
仮にも、この女達を乗船させているのは船側の善意でもある。
こうして航海士を取次にしているのも同じだ。
それを疑う?
あまつさえ公言するとは。
それは舐めきっていると言うのと違いは無い。
商船の船乗りにもプライドがある。
そして働きもせずに
羽床航海士はそう憤ってこめかみに脈打つ感覚を得始めた。
羽床航海士は黙って聴いている。
相槌も打たないでいた。
「は……?」
須崎司祭は自分の首に触れ、
羽床航海士は惚けた顔で何を言っているのか分からない様子だった。
彼には良く分からない事をさらっと言われて理解に及んでないのである。
「率直に申しますと、5回ほど殺されかけた、という事です。相手は狙撃手ですが、それぞれ個性がありました」
「そ、それはつまり」
そう言い切られ、羽床航海士は眼の下がひくついたのを感じながら、ようやく理解したようだ。
そう須崎司祭は見た。
須崎司祭は羽床航海士へ少し微笑んだ。
「し、しかし……」
羽床航海士はそれでも名を知り、性を聞きし船員達を疑う彼女達に納得は行かなかった。
須崎司祭は膝に調子を付けて椅子から立ち上がった。
「それは……」
羽床航海士は二の句を告げずに居た。
須崎司祭は敢えてそのまま続けた。
須崎優和の顔は柔らかく笑みを
それは、何も知らない純朴な者への、慈しみのようだった。
だが、それ以上に突き放したものも無い。
感覚が羽床航海士にそう教えていた。
「司祭様、あなたは……」
羽床航海士は屈みから立ち上がり、彼女に並び立とうとした。
だが、須崎司祭はそうはさせなかった。
そう言うと、須崎優和は椅子を抱えて甲板を行き始めた。
家所花蓮は羽床航海士に一礼してその後ろに付いて行く。
女達の足取りは軽く、迷いが無かった。
見るうちに甲板より去って行った。
羽床航海士は何も言えず、甲板を行く二人を見ていた。
自分だけここに取り残された。
そう思った。
だが、まだ真上にあるようにも見える。
「羽床航海士はいたく機嫌が悪かったようだ」
「御客人に近寄り過ぎたんだ。自分も情況の一部だと勘違いしたんだよ」
船長寒川修はそう言うと、革張りの大きな背もたれに体重を掛けて、デスクから右手前にパイプ椅子を広げて座る大柄の男に笑いかけた。
その顔には少し、
「彼女達は可愛らしいが、戦争の仲裁人だ。あんた達同様、俺達には遠い遠い存在だよ。今更だが、気付いて良かったさ、羽床も」
「難儀な事だな。青年とは誇大な事を思う。所詮はただの取次だと言うのに」
パイプ椅子の男は腕を組み、脚を組んでいる。
髪は剃り上げられて整うが、眉毛は手も入らず太く伸びきっている。
肌の色は浅黒く、乗船士官用の白い服とは良く対を成していた。
そして袖から露わになった腕は実に太く、
「小難しい話を聞いたり、取り次いだりすると、若い男はすぐ有頂天になる。性のようなもんかな。何せ、こういうのは皆が一度は夢想する浪漫に近いんだ。結局は後悔するんだがね。ああ、関わらなければ良かったってさ。今度は死なずに済んだ。こっちはそう思うがね」
「俺には分からん。小僧の浪漫など理解ができん」
男の言葉に寒川船長は苦笑した。
「
「さあな。俺はそう感じた事が無い。他人の感覚など知らん」
「そうかね」
寒川船長はこの男の傲慢な口振りを愉快そうに聴いていた。
男は少し、睨むように船長へ眼をやった。
「何がおかしい?」
「睨まんでおくれよ。あんた、やっぱり怖いね」
そう言うと、寒川船長はもたれた椅子ごと身体をデスクから離し、そうして立ち上がった。
中年の腹の出た男は後ろに手を回して組み、先程もたれ掛かっていた先の壁にある地図を眺めた。
「あんたを見ていると不思議な感じがするんだ」
「どんな感覚だ?」
「そうだねえ」
男の語気には荒さがある。
寒川船長はその受け方に慣れていた。
「大昔に皆が無くした、荒々しい存在がそこに居る感じだ。そして、手放しで憧れるには末恐ろしい者だ」
「抽象的な事ばかり言うな」
「まあ、怒らんでくれ」
寒川船長はそう言って一人笑い、決して広くない船長室の中を彼の声が占めた。
「実はね、俺も恐ろしく思うよ。これからあんた達がする事を思うとね。関わった、聞いてしまった。そう考えると震えてくる。例え下船後はもう俺達と関わり合いの無くなる、あんただとしてもさ。そういう人が居て、そういう事が起きる。そう思うだけでな」
「そうか。よく分からん」
男は顰めた顔のままパイプ椅子からむくりと立ち、その脚で船長室の戸へ歩いて行く。
「行くのかい?」
「ああ。もう寝る。連中がいつ気付くか分からんしな」
男の声は低いが良く通る声だった。
寒川船長はこの声に
「明日もまた話そうじゃないか。支度は済んでいるんだろう」
寒川船長の陽気な声が背に掛かる。
彼は壁の地図を見たままだ。
「気が向けばな。こちらも暇とは言えん」
「寂しい事を言うなあ。情況はあんた次第で変えられるんだからよう」
寒川船長はそう
男はふん、と鼻を鳴らした。
「お休み、船長」
男はそう言って戸に手をやった。
寒川は開く直前に声を掛けて男の手を止めた。
「お休みなさい、詫摩藤十郎君。いえ、
男は顰めを取り、少しだけ口元が綻んだようだった。
「その名はまだ早い。今はまだ詫摩だ、船長」
女の不安は喩えでは済まないだろう。