神戸 福原官邸
文字数 4,483文字
「昨晩は随分と夜更かしされたようですね」
「私も学生時代を思い出しますよ」
「福原官邸」と俗に呼ばれる、宇喜多清真の屋敷は元々神戸を支配していた日共の高官が使っていた建屋で、宇喜多が福原にて兵を起こした時に手を入れて以来ずっと彼の屋敷として扱われていた。
日共の高官の審美眼を全く理解できなかった宇喜多は接収してまず持ち主の色を全て塗り潰し、真っ新なようにして屋敷を作り変える事に熱中していた。
その片手間に始めた三木の戦い(播磨 三木市)で宇喜多の軍に惨敗を喫した日共の軍隊は誠に不憫でならないが、その日共の将軍であった者達は
宇喜多はそのものを叩き壊す事をしない男だった。
器に価値を見出したのなら、その理を変えて用い続ける男だった。
彼はその喩えによく
「それにしても、御友人の方を矛としてお使いになられるというのも、いやはや恐れ入る事です」
「あなた様の受け売りで御座いますれば」
ちょくちょく毒を吐く宿直・三沢実幸に対して宇喜多は多少睨むような視線を浴びせるが、三沢はどこ吹く風といった具合である。
「覚え無きほどに、で御座いますよ」
三沢は毒を吐きながら淹れたコーヒーを宇喜多が腰を据えている執務室のデスクに置いた。
宇喜多はそれをためらいもせずに口元まで持ち上げた。
宇喜多は背もたれに体重を掛けながらコーヒーを啜っている。
それを見て思い出したように三沢は話し出した。
「ところで、宇喜多様」
「それは残念ですが、別件です」
三沢はさらっと流した。
宇喜多は平素の澄まし顔を見て、別件を悟れた。
付き合いは長い。
「御意。境港の
「知っていたのですか」
ならこっちに言えよ、爺い。
三沢はそう思った。
「積荷はやはりそれだけのものなのですか?」
「中身は猛獣ですか、あれは」
「そんな化け物、何に使うんです?」
三沢は少し溜息をついて述べたが、宇喜多はそのままコーヒーを啜って続けた。
ん?
しかし、宇喜多はもう言い切っている。
敢えて問わない事にした。
「吉野菫でも狙いますか?」
三沢は自分のコーヒーを淹れている。
宇喜多もそちらを向かない。
宇喜多は再びコーヒーに口を付けた。
三沢は手にコーヒーと砂糖入れを持って宇喜多の対面に座った。
「ところで、さっき仰られていましたが、星川女王の化粧はマスタードレベルじゃないと無理なんですかね」
「オリーブ‥? ああ、
宇喜多は呆れたように口角を上げた。
「星川の連中には色々喰わされましたからね。言いたい事は山程」
「それでも、一通りの『お返し』はしてやりたいものです」
三沢の口振りは軽い。
しかし、宇喜多は一刻、思う所があり、その後に続けた。
三沢は眼を笑わせた。
「ああ、実に素晴らしい交友関係ですね。全く、悪人政治家ここに極まれり」
三沢の言葉に宇喜多は心外そうな顔をした。
「勉強になります。しかし、狙撃手と服毒者は何と無く素性が分かりますが、床上手と放火魔は知りませんね。どなたでしょう? 星川家は女ばかりですし」
「はあ、世も末ですねぇ」
三沢は分かりきった事にリアクションを取った。
宇喜多はそれに続けた。
「欲に際限なし、ですか。それも肉欲と食欲は生き物ならば仕方がない。まして、万年繁殖期の人間なら尚更です。しかし、そういう所から離れるための共産主義だったのに。数十年の苦行は何だったのでしょう?」
「
「とは言いつつ宇喜多様、福原の歓楽街は潰してしまいましたね」
三沢の言葉に宇喜多は顔を崩した。
カッカ、と喉を鳴らして笑う宇喜多だが、三沢は現場にて歓楽街が燃え落ちる様を見ており、とてもそういう気分にはなれなかったが、一応愛想笑いはしておいた。
革命後お尋ね者となっていた日共の幹部達が逃亡資金を得るために娘を売ったという事案は聞いていたが、実際の有り様を見るとやはり怒りが収まらないのが人情というものではある。
宇喜多は歓楽街に足
無縁に堕ちたその者達の虚ろな眼と摩耗し切った肉体。
宇喜多は若い頃にアフリカで見た光景と酷似した実態に怒り狂った。
所詮、この国の民でさえこんなものだ、と。
結局彼も人の子であり、加えて、理念はともかくとしても、振るう手を欲しいままにする専制君主であった。
怒りのままに弟の将軍浮田郷家と出雲党の豪傑で浮田の部隊にて大隊長を務めていた山路兵介に命じ、歓楽街を一斉に取り締まった。
取り締まりを利用し、暴力分子を排除するという名目で、
宇喜多清真も側近達を連れて駆け付け、「清め」の炎が歓楽街を包み込む様を見届けていた。
そして殺された客達の骸に鞭を打ち付けるために、詭弁虚言様々に駆使して、客達の資産を奪い取り、その名誉を悉く剥奪した。
その一族達も徹底的に追及し、根絶やしにしてしまったのである。
大坂はこの事実には一切関わらずに居た。
知っても是認も否定もしなかった。
宇喜多を恐れたのである。
この時の彼は、極めて狂気的であった。
それは彼が信仰するイスラムの教えに、ではない。
単に己の理想にであった。
国に帰って幾十年の時を経て、現実を前に封じるしかなかった青い理想は、偶然眼にした非道を前に再び彼を充たした。
失われた自らの在り様を不意に取り戻した主人が、三沢には実に恐ろしかった。
これほどのものは無い、と。
三沢は軽口を叩いて彼と付き合いながらそう思っていた。
理想ほど、
理想ほど、正義を冠する凶気を生み出すものは無い。
物思いに僅かに耽っていた所で、不意に掛かった声に三沢は一瞬慌てた。
「ええ…っと、突然殴り掛かるのも、アレですかな…?」
宇喜多は怪訝な顔をした。
「ッ‥アレとは?」
「星川女王の懐刀、上杉橄欖はどうやら他の連中と対立しているそうでな。科挙と節度使、
「…面白そうですね。それを如何に料理するかですが」
「ええ、堪らない」
三沢は先程の物思いをどこかへ投げ、愉快な話に意識を集中した。
所詮、三沢は嗜虐の虜である。
宇喜多は更に付け加えた。
「はて、それは何故でしょう?」
「砕ける。それも木端微塵に。オリーブは
宇喜多は弟子の答えに喜びを隠さない。
三沢も光栄とばかりに破顔し、加えて心中で星川の城の前で笹川達が膝を突いて聖戦に敗れた事を詫びる、どこぞの記録映画で見たような光景を夢想し悦に入った。
これからしばらくの間、獲物を星川から清水、東京、吉野、更には和泉女院にまで広げて主従二人は嗜虐の策を語り合った。
全く、似たり寄った主従である。
傾いた日を追って夜が頭上へやって来る。
主従の穏やかな時間であった。
日が暮れると、福原は静まり返った。
最早人心を湧かすネオンの灯は無い。
静寂という言葉が良く似合う、そんな頃合いとなった。