第一章・出会い ◆1

文字数 2,835文字

 榎本裕里子(えのもと ゆりこ)の家は眺望の利く高台に建つ一軒家で、祖父母の代からの純日本家屋の木造二階建ての佇まいは、頑なに伝統を守り続けんと腕組みをして胡坐をかき、周囲の西洋風のモダンな家々ににらみを利かしている老人のように映る。
 この辺りは山を切り拓いて宅地造成され、標高も高いせいで、夏は比較的涼しく凌ぎ易い。とはいうものの、夏休み間際の盛夏とあって、午前中から気温はうなぎ上りに上昇を続け、東向きの窓から朝日が容赦なく差し込む裕里子の部屋は蒸し風呂と化し、机上に据えた温度計は、登校前、既に摂氏三十度を越えていた。
 小学校は、徒歩十五、六分下った場所にある。途中、大池公園が大きく立ちはだかるように小学校と自宅を分断する。登下校の折、決まって東門と南門をつなぐ遊歩道を二百メートルほど突っ切る。この池を巡るおよそ四キロメートルの遊歩道は、アスファルトで整備され、市民の格好の散歩コースとして親しまれている。森の中の大池公園は、この辺りが、かつて山であった名残を物語る唯一の証である。
 放課後、クラスメイトの女子二人と帰途に就いた。少女特有の他愛無い馬鹿話に花を咲かせながら仲良し三人組は大池公園手前の交差点で留まり、互いに冗談を飛ばしたあと、明日の再会を大袈裟に誓い合うのがお決まりの別れの儀式だった。
 裕里子は二人と別れてしばらく坂を上り、ひとり公園の南門をくぐった。池を左手に望み、木陰の道を選びながら百メートルほど行くと、池のほとりに設えてある木製ベンチに腰を下ろした。
 木柵越しに水面(みなも)に反射する陽光に目を細めながら、水鳥たちの遊泳姿に見入る。今年小学校に上がったばかりの裕里子の毎日の慣わしであり、密かな楽しみとなった。
 ぼんやりと池を望みつつしばらく夕風と戯れたあと、ふと横を向くと、見知らぬ少年が座っていた。いつ、どちらの方角からやって来たのか、気配にも全く気づかなかった。裕里子は少々戸惑いがちにそっと視線を逸らし、遠くを見つめた。
「鳥が好きなの?」
 あまりにも唐突な問いかけに、一瞬息が止まった。ぎこちない動きで首を回し、少年のほうを向いて一度だけ頷いた。
「ぼくも。オカメインコ飼ってるんだよ……知ってる?」
 弾んだ声で、はにかんだ笑みをチラリと覗かせる。人懐っこい表情が裕里子の緊張を解してくれた。裕里子も微笑しながら首を横に振ると、少年ははにかんだ顔のまま、楽しそうにこと細かに説明してくれた。その明るい心の波が伝播したようで、それに同調するかのように裕里子の心もときめいた。
「とても可愛いみたいねえ……」
 想像を巡らせながらつぶやいた。
「そうだ、いつか見せてあげるよ。今度、(うち)においでよ」
 一層声を弾ませて少年は立ち上がった。
 裕里子もつられて思わず立つと、何だかおかしくなって声を上げて笑い出す。
「ええ、今度、必ずね」
 笑いながら返答した。
 約束を交わしたあと、大まかな自宅の所在地を手振りで示しながら町名と番地を口頭で告げたのを、裕里子はランドセルからノートと鉛筆を取り出して書き留めた。少年はそれを確認するとノートを受け取り、自ら鉛筆をとって滑らせる。
「来月引っ越すんだ。その前に来てね」
 裕里子に微笑んでノートを手渡し、ゆっくりとその場を離れた。途中、名残を惜しむかのように何度か振り返りながら立ち去った。
 ノートに視線を落とす。そこには電話番号と新旧の正確な住所が二つ記されてある。ふと、ベンチの上に目が留まった。今まで少年が座っていた場所に純白のハンカチが落ちていた。それを拾い上げて確かめてみると、ハンカチの左端にアルファベットのMの文字が二つ並んで刺繍が施されてある。『三浦正樹』のイニシャルに違いない。彼を呼び止めようとそちらに顔を向けたときには、どういうわけか既に姿はどこにも見当たらなかった。去った方向へと追いかけ、さがしたが、人の気配などない。裕里子は首を傾げながらしばし呆然としたあと、正樹少年の忘れ物に見入る。今度、家を訪問したときにでも返そうと思い、今は仕方なく家路へと足を向けた。

        *

 数日が経った土曜日の昼下がり、帰宅し早々に昼食を済ませると、母に行く先を告げ家を出た。今日、正樹少年の家を訪ねてみようと思った。
 彼のハンカチを携え、玄関の扉を開けて外に出た途端、陽に蒸された大気が肌に絡みついてくる。しばらく歩くうちに、発汗した皮膚が休み無く大粒の雫を次から次へと吐き出し続ける。額を左右の手の甲で交互に拭いながら、うんざり気味で公園へと歩を進めた。
 公園内の木々は息をひそめ、蝉時雨が凪いだ大気に乗って鼓膜を揺さ振るのみ。
 公園を出て、途中、小学校を右手に望み、坂を下り切った先の交差点で立ち止まった。ここを五百メートルほど直進すると、正樹少年が通う小学校がある。
 信号が青に変わると、正面にガソリンスタンドを見ながら足を速めた。スタンドの真向かいにはホームセンターが広々とした駐車場を従えて、十字路の主の顔つきでどっかと胡坐をかいていた。裕里子の家族もよく利用している。裕里子は尚も直進し、二区画目の横断歩道で立ち止まった。信号機のボタンを押して渡り、ホームセンター裏とスーパーマーケットの間の路地を抜けると、一面に田んぼが広がる。
 田んぼを見渡しながらポケットをまさぐり住所が記されたメモを取り出した。町名と番地を確認し、砂利道をまっすぐ行った。左手に連なる民家群を一軒ずつ注意深く見て回ったが、それらしき家屋は見当たらなかった。もう一度メモを確認する。町名は確かに符合する。しかし、番地と合致しない。彼の家の所在は、この辺りに違いないのに、どこをさがしても一向に辿り着けない。通りがかりの人も、この辺りの住民に聞いても、メモにある住所はない、と断言された。それでも裕里子は、町の隅から隅までくまなく歩き回りさがした。が、結局、甲斐もなく徒労に終わった。
 斜陽が頬を照らし始めていたので、仕方なく帰路に就くことにした。前を行く長い影に導かれながら元来た道を逆に辿るのだった。
 それから何度かその町に赴いては手掛かりをさぐってみたものの、全くつかめない。似た町名は無いか、と地図上をさまよったとて他には見当たらなかった。思い切って電話を掛けてみたりもしたけれど、「現在使われておりません」と優しげな女性の声が冷たく鼓膜を突き刺した。
 彼が嘘をついたとも、自分をからかったとも思えない。幼心にもそれだけは確信できた。が、心には風が吹き渡った。
 そうして、放課後になると決まって公園のベンチで彼を待つ日々が続いた。しかし、ついぞ再会は叶わなかった。彼との出会いは、あのときの一度きりだったのである。それで余計に裕里子の胸に、一日限りの三浦正樹少年との想い出は、深く刻み込まれてしまったのかもしれない。
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