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文字数 2,884文字

 夕方帰宅して自室のドアを開け、鞄を放り投げると、制服のまま一目散に神社へと向かった。祭りのクライマックスだけは見逃したくはない。
 普段の買い物客に祭りの喧噪までもがなだれ込んだ、人いきれでむせ返りそうな商店街を抜けると神社の鳥居をくぐった。参道の両脇に連なる出店を散策しながら、今年もひとり本殿を目指す。
 立ち止まっては一軒ずつ店先をうかがうようにトボトボと歩を進める。対向者をうまくかわしながら歩いていると、後方からの人波に押された拍子に前方へと躓いてしまった。危うく地べたに手を突くところを誰かが私の体ごと受け止めてくれた。
「大丈夫?」
「すみません。大丈夫です。ありがとうございました」
 すっぽりと(かいな)に抱かれたまま上目遣いに礼を言う。微笑む少年の顔がこちらを見下ろしていた。視線が重なった途端、頬が火照り、私は思わずうつむいた。
「その制服……一中(いっちゅう)だね? 従姉と同じだ」
「──何年生……ですか?」
 彼の庇護の元を離れた私は、照れ笑いを見せながら聞き返した。
「もう、とっくに卒業して、今は高校三年生……公立普通科の……新築の校舎を自慢してたよ」
「あの“ケンリツ”ですか?」
「通称“ケンリツ”で通ってるの?」
「はい。優秀なんですね?」
「そう……なの?」
 彼は首を捻りながら聞き返す。
 私は微笑んでペコッと首を折って頷いた。
「君、もしかして……一年生?」
「はい、一年です」
 変声期特有の、少年らしさを声帯の奥へと沈めようとする掠れ声を、こちらも精一杯背伸びして少々気取った声のトーンで受け止める。
「そうなの! 同学年か……」
「どこの中学なの?」
 長身の彼を見上げながら我が声は弾んだ。
「県外なんだ。小四(しょうよん)の妹にせがまれちゃって、今日、その従姉の家に遊びに来たんだ。さっきまで一緒だったんだけど、従姉の彼氏が現れて……僕が身を引いたってわけ。しょうがないよね」
 彼は愉快そうに笑いながら頭をかいた。
「あら、フラれちゃった……ってわけね? フフフ」
 私も冗談めかして笑う。
「そういうこと……でも、さすがに都会だね。この人たちどこから湧き出たの? 妹ともはぐれちゃったし、人波に押し返されて目指す方向になかなか進めやしないよ」
 彼は辺りを見回しながら感心したように言うと、ひとつため息をついた。
「妹さんをさがしてるのね?」
「いや、駅のホームで落ち合うことにしてるんで、それは問題ないんだ」
「そう。どこへ行くつもりなの?」
「ま、決めてはいないんだけどさ。たださまよってるだけ……このワクワク感を味わいたくて。僕の田舎では無理だもの」
 急に顔をこちらに向ける。彼の横顔に固定していた視線を咄嗟に逸らした。
「私、この先の神社まで行くの。案内しようか?」
 指を差しながら、思わず口を衝いて放った大胆な申し出に自分自身驚いた。普段は気後れして自分からは滅多に異性とは口の聞けない性格なのだが、きっと祭りの雰囲気に飲まれたせいだろう。
「ぜひ」
 彼はこちらに微笑んで一八〇度方向転換して歩き出したので、私もあとに続いた。
 露店沿いを複雑な人の流れに苦慮しながらしばらく行って、人の波に乗り切るべく参道の中央へ彼を促すと、私たちは肩を並べて歩調を合わせる。
 彼の右側を歩きながら何気ない素振りで、時折その横顔をチラと覗く。短髪の日焼けした顔に滲んだ汗がはじけ散る。私の目線には、両の口角が持ち上がった形良い唇がしっかりと結ばれていた。奥歯を噛みしめる度に顎辺りの鋭角な骨格が、丸みを帯びた輪郭の中から見え隠れする。それは大人を予感させた。(まなこ)は西日を一粒ずつ跳ね返し、こちらに視線を向ける度、私を射る。あまりの眩しさに息が止まる。純白のポロシャツの袖からはち切れんばかりにはみ出た二の腕の筋肉が躍動して歩行のリズムを刻む。 
 進むに連れ、胸の奥底を柔らかな羽毛でくすぐられむず痒いような、それでいて何者かに鷲づかみに締めつけられる微かな痛みが、血潮を激しく波立たせる。それに呼応するように胸が高鳴るのはなぜだろう。体温が急激に上がり、顔が熱い。とろけそうなほど心地よい気だるい感覚が胸底から湧き、全身を襲った。今までに経験したことのない感情に私は戸惑った。
 ──異性と並んで歩くなんて……
 ──しかも、魅惑的な匂いを全身に醸し出す人と……
 ──わたし……この、わたしが、よ!
 感情の昂りは、魂を甘美な夢幻の世界へと(いざな)い、たちまち虜にしてゆく。しかし夢物語は儚く残酷なものだ。必ず目覚めが訪れる。
 ──誰かに見られたらどうしよう!
 陶酔しきった胸を凍てついた魔手で引きちぎられ我に返った。突如現実の世界へ引き戻された瞬間、私は周りをキョロキョロと見回した。きっとクラスメイトの子たちも祭り見物に来ているに違いない。明日、登校して教室に入った途端、冷やかされるかもしれない。学校じゅうの噂になるかもしれない。一瞬、不安が脳裏に過ぎる。
 ──でも、そういうことって……
 確かに恥ずかしくもある。が、大した懸念じゃない。誰もが憧れることで、向こう側の連中だって、内心、羨ましいに決まってる。私がオドオドする必要は全くない。胸を張って、大人の女を気取って何食わぬ顔で「どうってことないわ」なんて揶揄する連中を突っぱねてみせようか。
 ──折角のロマンスの予感をそんな懸念で(けが)すなんてもったいないことよ!
 ──今のこの刹那を大いに楽しめばいいことじゃない!
 ──こんな大したことのない不安で、ひとときの逢瀬に自ら終止符を打つなんて……
 ──人生のほんの一瞬なのよ! 
 ──もう二度と訪れないかもしれないじゃないの!
 ──私って、ほんとに、ほんとにダメな子なんだわ……
 自分に失望すると同時に底知れぬ怒りが込み上げてきた。この臆病な性格が心底恨めしい。
 変わりたい。何とか生まれ変わって、たったひとり歩まなければ、未来は永遠に来ない気がする。
 ──勇気を出さなきゃ!
 心を鼓舞して、昨日までの自分との格闘を決意したものの、怯えで身は震える。食いしばった歯が小さく軋んだ。
「ねえ、何部?」
「エッ!」
 いきなりの問いかけに喉が素っ頓狂な悲鳴を返した。慌てて取り繕うように微笑んで冷静を装いつつ「バスケ部」と小さく返答してまともな少女へと己を修正する。
「ホント! ぼくもバスケ部」
「そうなの!」
 彼との共通項を見い出せた喜びが喉元から湧き上がる。
「やっぱりね。さっきの、人波をかいくぐるときの身のこなし見てたら、なんとなくね。ぼくの目って確かだったよ」
「あら、そんなことでわかるものかしら? わたしなんて、ぜんぜん気づかなかったもの」
 このとき、何か運命めいたものを感じずにはいられなかった。彼との接点は今後の幸福な展開を予期するものかもしれない。私の胸は一層華やいだ。
 ──それってやっぱりご都合主義なのかしら? 
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