文字数 748文字

 私の思春期といえば、佐藤一郎の幻影を追い求め続ける日々だった。いつも例の鍵を見つめながら彼を思っていた。突然彼が現れ、私を優しく抱き締めてくれる場面を想像する。男性を見るとき、決まって彼と重ねてしまう。あの面影に似た顔をさがすのだ。だが、そんな男性は現れるはずもなくため息をつくばかりだった。佐藤一郎は完璧だ。長身で美男子で、私を見つめる目は澄み切って濁りはない。時が経つにつれ、それは自分の理想にデフォルメされていた。
 私はベッドの上で、鍵を見つめながら、いつか彼がこの鍵で私の扉を開けてくれはしないか、と胸を膨らませ目を閉じる。最早、瞼の裏にはデフォルメされた彼の顔とたくましい肉体しか映らない。私は身じろぎもせず彼のなすがままに任せるのだ。鼓動が早くなり、全身が熱くなる。下腹部に何度も波が押し寄せては引き、やがて堤を破って次第に大きくうねり出す。私はそれを(しず)める方法を知っている。私は激しく体を揺さ振りながら大波に小舟を漕ぎ出す。彼はまだ私に向かって波を起こし舟を揺らす。私は一層激しく()をかいて抵抗を試みるものの、大波の勢いに負け、ついに身を委ねる。そうして何度も大きく息を吸い込み、一気に吐き出す。最後は自ら波間に身を沈めてしまう。私は打ち上げられ徐々に(なぎ)が訪れる。静かに目を開け、すぐにまた目を閉じる。焦点が定まるまでしばらくその状態を保つのだ。
 喜びと寂しさ、やがて虚しさ。様々な感情が入り乱れ、心に押し寄せる。己の憐れさを(あざけ)り、(さげす)み、後悔しながらも繰り返し求めてしまう。仕方のないことかもしれない。
 波に打ち負かされたあと、無性に彼が恋しい。妄想ではなく生身の彼の温もりが恋しい。そして悟るのだ。彼は私の初めての恋なのだ、と。
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