◇2

文字数 1,379文字

 振り返ってみると、全てがこの場所から始まった。三歳のとき、初めて不思議な体験をした日から今日まで、運命の羅針盤の指し示す方向へと何ものかが導いているとしか思えない。
 恋人を待ちながら陽子は不思議な(えにし)に思いを馳せた。

        *

 彼とつき合うきっかけもやはりこの場所だった。
 二十六歳になった陽子はフリーランスの翻訳者としてパソコンのモニタとにらめっこする毎日を送っていた。自宅と仕事場が同じなので、メリハリをつけるためにも時間を決め、散歩に出ることにしている。近くにこの大池公園があるのは幸いで緑の中を歩けば気晴らしにもなるし、鳥のさえずりや、多様な自然の音が、昂った神経を宥めてくれもする。
 あの日も遊歩道を例のベンチの方向へ歩いていたら、雲行きが怪しくなってきたので、早足で進んだ。しばらく行って小雨が落ちてきた。幸いベンチ後ろの木陰まで大降りにはならず、びしょ濡れは免れた。雨が濡らした髪の水滴を手で払い落としながら空を望むと、雷鳴と共に急に雨足は激しくなった。いたる所に大小の水溜りが大粒の雨をはね返す。そこからあふれ出た雨水は無数の筋を形成し、約束の場所を求めるように、より低地へと流れ落ち、再び合流する。
 やがて夕立も小康状態を保ったあと、潮が引くようにおさまって積乱雲を押し退けて太陽が地べたを焦がし始めた。
 陽子は雨がやんでもその場を離れず空を仰ぎ続けた。視界を人影が掠め、ふとそちらに目をやる。と、同年代の男性がゆっくり近づいて陽子の正面で立ち止まり、微笑みかけた。軽く会釈して幹を背にすると陽子の隣で空を見上げる。
「久しぶりだね。元気だった?」
 陽子は彼の横顔を見つめながらその声に聞き入る。懐かしい響きに胸が締めつけられた。
「ええ、あなたは?」
 一度深呼吸をして心をおさめてから、そっと彼の横顔をうかがいながら聞き返す。彼が空に向けた目を陽子に向けると、視線が重なった。しばらく見つめ合い、どちらからともなくクスクスと声が漏れ、互いに笑い合う。
「あなたとは縁がなさそうで、ずいぶんと不思議なご縁がありそうね? そう思わない?」
「そうらしいね。そろそろ決着をつけたほうがいいのかもね」
「どういう……意味?」
 彼はそれ以上何も言わなくなった。二人は明日の再会の固い約束を交わして別れた。それ以来、いつもこの場所で待ち合わせて、初めて出会った日から二十年間の時を一秒ずつ埋めていった。そうして今度こそ愛を育み、決してお互いを見失わないと誓い合ったのだ。

        *

 彼とここで待ち合わせていると、時折不思議な感覚に襲われることがある。突如自分の経験ではない記憶が映像として目の前に展開するのだ。ぼんやりする中、肉体の外部にもう一人の自分がいて、二つの意識が同時に景色を眺めている。それはほんの一瞬の出来事なのかもしれない。自分でありながら自分でないような感覚がこの身を襲うのだ。たぶん疲弊し切った神経がもたらす現象なのだろうと解釈している。
 今、別の自分にささやきかける声が聞こえた。若い女性の声だ。それを肉体の中の自分が受け止める。声の響きに揺さ振られ、次第に二つの意識は合一する。ハッとして陽子は立ち上がった。耳にこびりついた声を思わずつぶやいていた。
「運命の人!」
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