終 章・花ことば ◆1

文字数 742文字

 裕里子の心は()いでいる。この上もない幸福の只中にいた。
 波濤(はとう)にのまれたあと、魂の平安を取り戻し、最早恐れなど微塵(みじん)もない。目の前には未来が見えるだけだ。希望に満ちあふれた未来が。
 命を全うし切った者にとって、死は単なる過程に過ぎない。新たなる生への回帰なのだ。魂の終わりを告げるものではない。
 風が立った。揺れる窓に視線をやる。
「姉さん……開けてほしいの」
 ベッドの横に腰かけていた姉は、頷いて静かに立ち上がり、窓を全開にしてくれた。
 八月の風が頬をなぞった。肉体の輪郭を風が描く。今、魂は風と一体化し、かき回され、大自然の中で溶け合う瞬間が訪れたことを裕里子は悟った。
 何と心地いいのだろう。風に心の奥底までをも愛撫され、形容し難い平安がこの身に舞い降りた。
 病室の白い壁は七色の色彩であふれ、裕里子の元にだけ眩い光の道が天高く延びてゆく。
 裕里子は起き上がり、一歩を踏み出した。この道の果てに幸福はある。熱望すればいい。求め念じるだけでその場所へと辿り着けるのだ。
 ベッドを取り囲むように親しい人たちの顔が見える。父もいた。母も嗚咽する姉をそっと抱き締めている。裕里子は前を向き、射し込む光に向かって微笑んだ。
 ──あの虹の門をくぐろう。
 ひたすら目指すのだ。一直線に延びる光の道を、迷いなく……
 今、全てを脱ぎ捨てた。数多(あまた)の肉体的苦痛を置き去りにして昇ってゆける。喜びが心に芽生え始めたとき、ついに願いは叶った。
 見下ろせば、ヒマワリ畑が無限に広がっていた。無数に咲き誇るうちの、黄金色(こがねいろ)に輝く一本だけが裕里子を見つめている。 
 温かな眼差しに包まれた裕里子は、幸福の場所へと心穏やかに歩むのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み