文字数 696文字

 私はあの日を思い出しながら笑っていた。
 雨足が強くなってきた。左の掌を広げ雨を受けると、傘を開く。赤い折り畳み傘である。雨粒が傘を打つ。規則正しく叩く。頭の中であの日の曲を奏でる。ひっきりなしに車がゆき交っている。人通りも昔と比べものにならないくらいだ。
 ふとうつむくと、車道の窪みの水溜りに目が留まった。引っかけられないように歩道の後ろへ移ろうと身をひるがえした。ノースリーブの水色のワンピースを着て、素足に白いハイヒールを履き、赤いエナメル製の安物ハンドバッグを意気揚々と提げた彼女が近づいてくる。一枚のガラス越しにいっとき見つめ合う。私が一度ため息をついたら、相手も同じことをした。相手の姿を上から下へと目線を落とし細かに観察したあと、横に立つマネキンと見比べながら嘲ってやった。前髪の乱れを右手で整え、肩あたりまでの黒髪をスッとかき上げる。あの日とさほど変わらぬ長さだ。今でも普段は決まって後ろに束ねている。昨日美容院へもいったし、今日は大分オシャレもしてきたつもりだ。「バカみたい」心の中でつぶやきながら何だかおかしくなってくる。私は笑いをこらえ再び身をひるがえし、ショーウインドーに浮かぶ影に別れを告げた。
 左(はす)向かいの駐車場の奥に五階建ての内科医院がある。玄関上の丸い時計は、もうすぐ三時半を指そうとしている。五時まで待つと決めた。あと一時間半だけ待って帰る。
「バカよね。きっと来ないわ」
 約束だから、自分から破りたくはないだけ。ただそれだけなんだ、と強がってみても、やはり期待してしまう。まあ、少しでも望みは持つべきだろう。
 相変わらず雨は降り続く。
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