◆3

文字数 1,200文字

 部活を見学しての帰り道、足を引きずりながらも、裕里子はまたここに来てしまった。
 ベンチに腰かけると、セーラー服の裾から覗く幼気な右脚に視線をやる。
 ──片足をもぎ取られた丹頂鶴はうまく舞を披露できず、悲恋に終わり、泣き崩れながら……
 そんなロマンスを期待するわけでもなく──少しは期待しつつ──このところほとんど毎日、必ずこの場所で鋭気を養うことが、密かな決まりごとになった。ほぼ同時刻にやって来て、修験者よろしく、しばらくぼんやり無心になってこの場のエネルギーを吸収して立ち去るのみの自分だけの楽しみ。いわゆるリハビリの一環とでも言ったほうが適当かもしれない。
 座ったまま大きく伸びをして力を緩め、頭の後ろで手を組んで上半身だけツイスト運動を繰り返した。首を後ろに倒し、そのまま青空とじっくり向かい合う。空に落ちて行く感覚が訪れるまでしばらく静止してから、いきなりガクンと首を前に落とし、素早く正面を向いて姿勢を正した。大きく深呼吸を二、三度繰り返したら背もたれにもたれかかり、ダラリと上体を緩めた。
 陽射しと水と木々と、それぞれが織り成す陰影が複雑に絡み合い、空気は夏に彩られた。耳を澄まして風が一つひとつの色彩をたおやかに撫でて行く音を聞く。真夏は淀みなく流れる。
 夏の音の中に、急に足音を聞いた。首を回しその方向を見た。昨日、隣に座っていた少年が手を振りながら駆け寄って来る。
 裕里子は思わず立ち上がり、息を呑んだ。
 彼は傍まで来て立ち止まると、ベンチの背もたれに両手をついて息を切らせている。喘ぎながらまっすぐ背筋を伸ばすと、二人はベンチを挟んで向かい合った。
「もう行かなきゃ……列車の時間が迫ってる……ゴメンね、慌ただしくて……」
 裕里子がキョトンとしていると、彼は白い紙切れを差し出した。ほとんど無意識に手を差しのべてそれを受け取った。
「ホントにゴメン。でも行かなきゃ……」
 一瞬だけ腕時計を覗き込むと、慌てて踵を返し、彼はその場を離れた。彼は走りながら何度も振り返り「連絡待ってる」と叫びながら大きく手を振った。裕里子もそれにつられて手を振り返す。彼の姿は段々小さくなり、仕舞いには遠くの風景に溶け込むように見えなくなってしまった。
 その場にひとり取り残された裕里子は、なす術も知らず、しばし呆然と立ち尽くした。なぜ見ず知らずの裕里子に渡したのか。まるで以前からの知り合いのように接してきた彼の態度がどうしても解せない。だが裕里子もそんな彼に引きずられ旧知の仲のような錯覚に囚われてしまった。
 ようやくハッとして手渡された紙を広げた。住所と電話番号が記されている。名前を確認した瞬間、戸惑いながらも心は激しくざわめいた。胸は締めつけられ、上気した頬を幾筋もの流れが伝う。夏の陽射しは(まなこ)をも焦がして熱い雫を裕里子の胸底へと落として行くのだった。
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