文字数 581文字

 子供の頃、この場所で母の帰りを待っていた。
 小学一年の夏休みが始まって数日が経った月曜日の午後三時過ぎ。炎天下、夢中で蟻の行列を目で追っていると、母は笑いながらバスから降りて歩み寄り、そっと日傘をかざしてくれた。母の行動の一部始終を確かめて、また視線を蟻の行列に移す。耳鳴りと肌に伝播する空気の振動を頼りに遠ざかるバスの気配をやり過ごした。乾いた土埃と排気ガスの残臭がたちこめ、しばらく息を止める。息を吸い込んだとき、それに紛れて背後に微かな生臭さが漂ってくる。日に蒸され、発汗した皮膚からたちのぼる臭気だ。母のにおいである。母はハンカチで私の額の汗を拭いながら「暑かったでしょ、さあ、帰ろうね」と手を差し伸べてきた。頷いてその手を握り、立ち上がる。母を見上げて笑うと、母も私の顔を覗き込みながら笑みを返してくれる。母の手は石鹸のにおいがした。少しでも異臭を残すまいと苦心したらしいことは少女の私にも見当はついていた。魚臭さと石鹸と汗が入り混じった母のにおいはちっとも嫌いではなかった。これが私の『お母さんの匂い』だったから。
 母はバスで十五分ほどいった商店街の鮮魚店で働いていた。私には既に父はなく、面影は写真でしか知らない。私が二つのときに病で死んだのだ。父の温もりすら覚えのない私には、母だけが心のよすがだった。
 私は当時のこの場所が好きだった。
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