第15話

文字数 1,642文字

 春休みだったある日、白雪姫の絵本をパラパラとめくり思い出の時間を楽しんでいたとき、ふと、トムの言葉を思い出した。そういえばトムは、自宅を北へ行ったところに野外スタジアムがあって、野球やコンサート、ドライブシアターなど、いろんなイベントができる広場があると言っていた。
(よし、明日行ってみよう)

 米軍が帰ったいま、ぼくにはもう怖いものはなかった。以前、注意されたあの体の大きな警察官はもういない。ぼくの心は恐怖心より冒険心が勝っていた。

 翌日、早い時間なら目立たないだろうと、六時にフェンスをくぐった。万が一のために身軽にしなければならない。いろいろ考えた末に、ペンチとインスタントカメラをリュックに入れた。ペンチは金網を壊すため、インスタントカメラは思い出の場所を写真に残しておくためだ。ぼくは、あの雪の日の目に浮かぶ風景や、エマとダニエルとのひとときが写真に残っていないことをとても後悔していた。だから、せめて人が写っていない風景だけでもいいから、手元に写真としておいておきたかったのだ。もう後悔はしたくなかった。

 もう捕まることはないとは思いつつも、大人たちがコソコソと敷地に侵入しているということは、日本の警察にだって捕まるかもしれないーーということなのだ。
 ぼくはとにかく走った。トムが教えてくれたその場所を目指して。
 道路は緩いカーブを描きながら北へ延びていた。十五分ほど走ったところでぼくは足をとめた。桜並木が突然ひらけて大きな広場にでた。なだらかな丘の上から窪地を見下ろすかたちで、スタジアムはあった。ここから長椅子のベンチがすべて見渡せた。日本の野球場をイメージしていたが、そこはいわゆる大きな野外ステージだった。正面の舞台をスクリーンにすれば確かに映画館になるし、土の広場は野球もサッカーもできるだろう。おそらく、全てを兼ね備えた住民には重要な場所だったことは容易に想像できた。

 なんて素晴らしい眺めなんだろう。

 ぼくは朝日を背に受けて写真を何枚も撮った。そして目を閉じて人々の歓声を想像してみた。トムやエマやダニエルも家族とここに来て、日本での思い出に残る一日を過ごしていたんだろうな……と。

 ぼくは広場の周りを一周し、来た道を帰ろうとしたとき、入り口の脇に小さな池があることに気がついた。覗くとオタマジャクシがたくさん泳いでいた。ぼくは思わず「わっ、気持ち悪い」と叫んでしまったが、とっさにユキトの顔が浮かんだ。
(こういうのユキトは好きだよな)
 昆虫や動物が好きなユキトは、家でもカエルを飼っていたのをぼくは知っていた。
 ぼくは写真を一枚撮っておいた。現像した写真を想像すると気持ち悪かったが、ユキトを誘ってもう一度この場所へ来ようと、このときもう決めていた。その為にこの写真は必要だとーー

 ぼくは走った。とにかく全速力で走った。こんな広い場所にいるのが自分一人だと思うと、何故か急に怖くなって体の力の限りにぼくは走った。壊れたフェンスが見えたとき、ホッとしたがそれでも足は止めなかった。
 身軽できて良かったーーフェンスを無事にくぐり抜けそう思った。ぼくは振り返らなかった。できるだけゆっくりと歩き息を整えた。

 ぼくは撮りきったインスタントカメラを近所の写真屋さんに現像に出し、その日のうちにユキトの家を訪ねた。

 その写真を見たユキトは想像通り食いついてきた。
「この写真どこで撮ったんだよ、すごいな」
「今朝、基地の中を冒険してきたんだ。そしたら池を見つけてさ。その池にうじゃうじゃいたんだよ、コイツらがさ」
「えーっ、おまえ基地の中に入ったのかよ。大丈夫なのか、入っても」
「大丈夫かどうかわからないけど、ぼくは無事にここにいる。それが事実だろ。どうだ、明日いっしょに行ってみないか?」
「よし、明日、決行だ」
 真面目なユキトは少し迷っていたようだが、さすがにあの写真が強烈すぎて誘いを拒否できなかったようだ。ぼくは(うまくいった)と心の中でガッツポーズをつくった。
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