【七十五.逃避行】

文字数 1,437文字

「お風呂入るよー、かいとおいでー」
「ほら、かいちゃん。お母さんが呼んでるよー?」
「やだー。おねえちゃんとあそぶー」
「あら、嬉しい。お姉ちゃんもだよ。お風呂から出たらいっぱい遊ぼうね」

 わたしは可愛い可愛いおとうとにちゅうをした。
 そしたら。
 ぐい。

「ほらっ、いつまでそうしてんのっ。早く来なさいったら。……ああ、なぎさちゃん? お風呂から出たらすぐ寝るからね、遊べないからね」

 あからさまにこの所、風当たりが強い。
 どうしてかな。なんでかな。
 うちの子になってって。そう言ったじゃん。
 かいとのお姉ちゃんになってって。そう言ったじゃん。

 ……ちゅっちゅ。

 わかってるよ、もう、要らなくなったんでしょ。

 ……ちゅっちゅ。

 かいちゃんからわたしを、引き離そうとしてるんでしょ。

 ……ちゅっちゅ。

 そうは、いかないよ。放すもんか。かいちゃんは。かいちゃんは。

 わたしのだ。

 ……ちゅっちゅ。この歳になってもわたしは指しゃぶりが治らない。

 ……

 令和七年。一月二十日。月曜日。午後九時十四分。わたし、十七歳。
 平日の月曜日は、こうせいさんは仕事の都合で家に帰らない。
 実行に移すには、今晩しかない。いつもかいちゃんの寝かしつけは九時。かおりさんも寝落ちするか、起きてくるかは大体半々だ。そして、彼女はいつも、寝る前にコーヒーを飲む。
 でも、わたしは知っている。この前入眠剤を薬棚に見かけた。「就寝前、二錠」。記載を無視して六錠ぷちぷちとシートから外した。
 お風呂から聞こえるかいちゃんの声。天使みたいに笑ってる。……渡さない。渡さないよ、かおりさん。
 わたしはその六錠を湯気がたっているコーヒーに入れた。
 ぽちゃん。
 すかさずティースプーンでかき混ぜる。
 ……もう、後戻りは、できない。
 コーヒーの香りは、とても苦かった。

 ……

 九時三十分。
 ……案の定、かおりさんは起きてこない。
 わたしは、学生服に着替えて、学生カバン──わたしのこの世に残された、たったひとつの荷物──に刃渡り十二センチくらいの片刃の果物ナイフを台所から盗って、こっそり仕舞った。

「かいちゃん、かいちゃん。起きて。起きて」

 寝室の小さなおとこの子をゆする。

「……んー。なあに、おねえちゃん……」
「おねえちゃんとお出かけしよう」
「……うん……」

 むにゃむにゃしてるかいちゃんをピンクのくまのワンピースに着替えさせた。昔からそう。ワンビースは着替えさせ易くていい。
 保育園のリュックも背負わせた。かいちゃんがお腹減ったら可哀想。戸棚のポテトチップスをリュックに入れてあげてある。

「ほら、おいで?」
「……どこいくの……?」
「お姉ちゃんと、ふたりだけのお家に行こう」
「ママは……? ねえ」

 わたしは構わず小さな手を引いた。
 かいちゃんはわかってくれる。
 かいちゃんは辛抱強い子だ。
 お母さんと離れ離れになるのは辛いかもしれないけれど、これがいちばんなんだ。

「ママはこないよ」

 わたしはかいちゃんを立たせて、その前でしゃがんだ。

「いい? これからは二人で暮らすの。それがいちばんしあわせなんだよ?」
「ママがいい」
「かいちゃん、聞いて? いい子ね。かいちゃんはお姉ちゃんといる方が幸せなんだよ」
「ママがいいよー」

 困ったな。かいちゃんに中々伝わらない。
 泣き出しそうだ。
 あまり声を他の人に聞かれたくない。
 ……その時。

「どこいくのよっ」

 寝ていたはずのかおりさんに羽交い締めにされて、わたしはかいちゃんのお布団に倒れた。
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