断章3 変な物音

文字数 6,181文字

 Yには中3の息子がいる。名前はR。中3になってから突然学校に行かなくなった。理由は分からない。小さい頃から物静かな子どもで、1人で遊ぶのが好きな子供だった。小学生の頃は図鑑を眺めたり、動植物のドキュメンタリー番組を見るのがお気に入りで、それらから仕入れた新しい知識をよくYに話してくれていた。

 中学に入ってからは、科学全般に興味を持ち、生物だけでなく天体や物理、化学の本を学校の図書室から借りてきては読みふけっていた。思春期に入ったせいか以前ほどYに甘えたり、新しい知識を披露することは少なくなったが、Yを煙たがったり、乱暴な口を利くといった反抗期的な態度を見せることはなかった。

 Yは息子に友達が少ないことを少し心配していたが、学校で問題を起こしたり、イジメのターゲットになるようなことも無かったので、彼は彼なりに学校という社会でそれなりに上手くやっているものだと安心していた。だから、息子の突然の不登校は彼女にとっては大きなショックだった。

 5年前に夫と離婚して以来、親子2人暮らしになったが、一緒に朝食を食べ、一緒に家から出るのが日常となっていた。彼が中3になってもそれは変わっていなかった、と思っていた、彼の担任から電話があるまでは。

 R君のお母さんですか、私、彼の担任のKと申します。実は…R君、昨日から欠席していまして、連絡が無いものですから、どうしたのかなと確認の電話なんですが…
 えっ…Rが…昨日も今日も学校を休んでいるんですか。昨日も今日も朝一緒に家を出たんですけど、来ていないんですか…
 はい、来ていません…家には居るのでしょうか?
 ええ…、私が仕事から帰るのが7時前なんですけど、これまでと変わりなく「お帰りなさい」と…ええと、その間のことは…分かりませんが、てっきり学校に行って、それで普通に帰って来ているものだと思っていたのですが…
 あ、はい、一応家には居るのですね。良かった、安心しました。何か事故か病気かと心配していました。あっ、いえ、無断欠席は心配なんですけど…何事もなかったという事が安心という事で…
 ええ…でも、学校で何かあったんでしょうか、これまでそんな事は1度も無かったものですから…
 いえ、Rくんが休む前にクラスの中で特に大きな揉め事が起こったという事はありません。ご自宅の方では何か変わったことは?
 いいえ、特には…
 そうですか、では、やんわりとで構いませんので何か理由があるのか、お母さんの方で聞いていただけますでしょうか。宜しくお願いします
 はい…分かりました…ご連絡ありがとうございました
 では、失礼します

 仕事中の電話だったので、通話が終わるとYは頭の中で渦巻く不安や妄想を取り合えず払いのけて強制的に思考のモードを切り替えたが、モヤモヤとした何かが彼女を覆いスッキリと仕事に没入することは難しかった。

 帰宅途中は、何と言って息子にその事を切り出そうか、と、ごまかされずに真実を導き出すための問いかけ、会話、を考え反芻したが、この2日間の息子の変わらぬ様子から彼が自分に事実を隠そうとしているのは間違いなく、上手くいく手応えは無かった。

 ただいま
 あ、おかえり、母さん、お米はOKだよ
 ありがとう、R。今日はハンバーグだから、パウチのスープにしようかと思うんだけど、コーンスープがいい?それともミネストローネがいい?
 今日はコーンスープがいいな、牛乳多めで
 了解、すぐ支度するね

 いつも通りに食事の準備をして、2人で食卓を囲む。

 どう…中3になって学校は
 うん、まだ様子見って感じかな
 クラスにイジワルするっていうか、嫌な子はいない?
 うん、派手な女子はいるけど、特には…どうしたの急に
 ううん、Rも一応受験生だし、学校、大丈夫かなって…
 うん、大丈夫だよ

 結局、核心に触れる問いかけは出来ずに無断欠席の理由は分からずじまいだった。息子が洗い物をしてくれる間にYはいつも風呂に入る。Yにとって1日の疲れを癒す大切な時間だが、今日は不安が渦巻いて心地よさも頭の中までは染み渡らず、体が(ほど)けていくのと違って心は重苦しかった。

 入浴中に彼女が出した結論は、近日中に半休を取って、探偵よろしく息子の後をつけ、様子を探ってみることだった。


 その日は、3日後にやって来た。担任のKとは毎日連絡を取っていたが、やはりRは学校には来ていなかった。

 一緒に朝食を済ませ、いつも通りに8時前に家を出る。通常Yはバスで、息子は歩いて学校へ行くのでバス停でRと別れ見送る、がYはRが10メートルほど先へ行ったところでバス待ちの列を離れ後をつけた。

 彼が通りの角を曲がったところで小走りして距離を詰め、曲がり角から様子を伺う。真っすぐ進めば通学路、途中で左に曲がれば家へ…はたして、彼は2つ目の角で左に曲がった。家への最短ルートではないが、学校に行かないのは間違いない。再びYは曲がり角まで小走りで駆け出した。そしてまた、曲がり角から様子を伺ってみるが、Rの姿は見えない。途中で右か左に曲がったのだろう。左ならば家に戻るルートだが、右だと何処どこに行くのかは分からない。

 右へのルートは次の機会に探るとして、今日はまず、息子が家に戻ったかどうかを確認しようと決めた。すぐに戻って鉢合わせをすると「忘れ物を取りに戻った」なんて言い訳をされるかもしれないので、1時間ほど()を開けて戻ることにした。 

 ファストフード店でコーヒーを飲みながら、もし、息子が家にいたら何て言うべきか考えた。本当の理由を聞き出すためには、問い詰めてはいけない。しかし、芝居じみた嘘くさいセリフもかえってギクシャクしてしまう。素直に「何があったの、聞かせて」とお願いしてみるか、それとも彼が口を開くまで黙って待つか…

 とりあえず、その時の彼の表情を見てから決めることにした。

 戻る途中で近所の人に出くわさなかったのは幸いで、彼女は家の扉の前に立っていた。

 鍵を静かに差し込み、開けた。ガチャッ。普段なら気にならない音がやけに大きく響いたように感じた。同様に静かに鍵を引き抜いて、ドアノブを回す。ゆっくりと扉を開けて中の様子を伺う。自分の家なのにコソ泥のような心境で、びくびく、ドキドキしていた。

 Rは戻っている。玄関に彼の靴がきちんと並べて置いてある。中に入って再びドアノブを回して、ドアクローザーの動きに合わせて音が出ないように扉をゆっくりと閉じてドアノブを元に戻した。瞬間、大きな息が自然と鼻から漏もれた。Yは自分自身が緊張していると理解した。

 靴を脱ぎ、つま先に重心をかけてそろり、そろりと歩みを進める。食卓には…いない。居間を覗いてみる…いない。バッグをテーブル脇のイスに置いて、息子の部屋に近づいてみる…が気配がしない。襖戸をゆっくりと引いてみる。やはり、いない… 

(何処にいったんだろう?靴はあるから、家の中にいるはずなのに…)

 Yは息子の名前を大声で叫びたくなった。

「R、何処にいるの!」と、しかし、(すんで)の所で不安を理性が押しとどめた。自分は息子を騙して探偵まがいに尾行して不登校の理由を探ろうとしているのだ、今ここで声を上げては全てが台無しになってしまう…

 Yは目を閉じて、静かに呼吸を整えた。不安によるざわめきが多少落ち着いてくると、感覚も平穏を取り戻し、様々な情報が取り込まれてくる。

 カバンは机のわきに置いてある、制服はハンガーに掛かっている。一度居間に戻って思考を整理してみようかと考えた矢先に、押し入れから何か音が聞こえてきた。(かす)かな音で何の音なのかは分からない。

 もう一度目を閉じて、意識をその音に集中させる…

 Rのうめき声…いや、鼻歌のようにも聞こえる。ただ、極々、微かな音なのでよく分からない。

(どうしよう、もっと近づいてみるべきか。それとも、思い切って押し入れの襖戸を開けてみるべきか。いや、いきなりでは、Rも驚いて、もしかしたら怒ってしまい何も語ってくれなくなるかもしれない…)

 Yは取り合えず、息子が家に居る事を確認できただけで満足することにした。明日、明後日の週末、彼の様子を観察しながら少しずつ探ることにしようと結論付けた。入ってきた時と同様につま先立ちで息子の部屋を出て、襖戸をゆっくりと閉め、バッグを取り、静かに玄関に移動し、家を出た。


 翌朝、Yは土曜日の日課となっている平日の夕食の献立をリストアップしていた。それをRに見せて、微調整して週末に作り置きしておくのだ。それが済むと洗濯と掃除に取り掛かる。幸いRは家事を嫌がらずに手伝ってくれるので、諸々は午前中には終えることが出来る。

 午後は食材やその他の買い物に2人で出かける。思春期なのに母親との買い物に付き合って、荷物を持ってくれる息子にYはいつも感謝していた。「お母さんを助けてくれてありがとう」と…しかし、なぜ…そんな息子が急に、不登校なんて…Yの心に疑問と不安が代わる代わるやって来て、彼女の表情は気を張っていないとすぐに曇ってしまう。

 Rは「どうしたの、大丈夫」と気遣ってくれるが、彼女は本音を打ち明けることは出来ずに「うん、今週ちょっと大事な仕事が多くてちょっと気疲れしているかも…」と嘘をついた。息子は「食事の下ごしらえは多めに手伝うから、気晴らしに出かけたら」と言ってくれるのが、後ろめたかった。「うん、ありがとう。でも大丈夫よ。Rの優しさで、お母さん元気でた」と返して誤魔化すYだった。

 日曜日は午前中に作り置きの後半をRと一緒に仕上げると、午後はそれぞれが自由に過ごすのが常だった。Yは居間で音楽を聴きながら読書、Rは自室で好きなことをやっている。大体は彼も本を読んだり図鑑を見ているが、最近は音楽を聴いていることも多い。POPミュージックやロックっぽいものが中心で、名前を聞いてもYの知らない曲やミュージシャンばかりだった。

 その日もYは本を読んでいたが、眼が文字を眺めているだけで実際は自室にいるRの様子を伺うのに必死だった。音楽の音量はいつもより控えめにして、頻繁にお茶を入れに台所に立ったり、トイレに行ったりして彼の部屋から何か聞こえてこないかそればかり考えていた。平日の夜と日曜の午後(夕食までの時間)はよほどのことがない限り、お互いの部屋を開けないことが決まり(2人で決めた)だったため、「お茶飲む」なんて声をかけたり、用もないのに、ノックすることは出来なかった。

 夕食の下ごしらえを済ますとYはいつものように「R、お風呂入っちゃって、ご飯の準備できたから」と、声をかける。彼が入浴中に押し入れの中を覗いてみることに決めたのだ。平日は彼女が帰宅する前に彼は入浴を済ませているから、チャンスは今しかない。息子の入浴時間は30分。時間には余裕がある。ザーというシャワーの音が聞こえたのを確かめて2日前と同じくらい緊張しながらYは彼の自室に入る。ベッドの上には読みかけの本が置いてある。(やっぱり、本読んでたんだ)自分の心臓の拍動が響いてくる。体が震えそうになる。押し入れの襖戸に右手をかけてゆっくりと右に引いて開けた。

 上段には布団と毛布が、下段には衣装ケースが2つ重ねて置いてある。以前と変化は無い…ゆっくりと閉めて、今度は左側の襖戸を左に引いて開けた。見たことのない黒くて所々ボタンのようなものが付いた小さな機械が奥の方に置いてある。しゃがみ込んで押し入れの中に入ってみる。小さなつまみと四角いボタンが規則正しく並んでいる、見たこともない機械だった。四角いボタンを押してみたい衝動はあったが、何が起こるか分からないのでその場は(こら)えて、後ずさりして押し入れを出た。ドキドキは少し治まっていたが、疑問は深まり、Yの不安は消えなかった。

 何食わぬ顔で息子と夕食を済ませ、幾分うわの空で食後の時間を過ごした。

「やはり、もう一度あの音を確かめなくては」Yの出した結論だった。


 4日後の木曜日、Yは再び半休を取った。
 この3日間も息子は学校を休んでいた、Yには内緒で。

 バス停で別れるまでは前回と一緒だったが、その後は息子を尾行することなくすぐにファストフード店に向かった。そしてまた、1時間ほど時間をつぶし意を決して自宅へ向かった。今回も近所の人間とは会わずに済んだ。

 同じことを繰り返しているせいか、Yは前回ほどは緊張していなかった。少しドキドキはしていたが、それは息子の不登校の理由、押し入れの中の機械、そしてあの不思議な音、それらすべての謎が解けるかもしれないという興奮からのものだった。 

 家に戻ると、Rの部屋の様子を伺った…やはり、物音はしない。

 ゆっくりと、襖戸を開け中に入る。

 忍び足で押し入れに近づく…そろり、そろりと。

 聞こえてくる…あの音が、奥の方から。

 さらに近づく…そして、しゃがんで耳をそばだてる…聞こえてくる。
 …ふふんっ…ふふんっ…ふふふふん…ふふんっ、ふふんっ、ふふふふん…
(間違いないRの声だ。最初は鼻歌だと思ったが、これは地声で歌っている)

 しばらく聴いていたが、リズミカルですごく楽しそうだ。聴いているYまでウキウキした気分になってきた。ずっと聴いていたかったが、Yは襖を軽くノックした。

 トントン トントン …反応が無いので、今度は強く
 コンコン コンコン …またもや、反応は無い…
 そこで、左手を奥の襖戸に掛けてゆっくりと引いた。


 Rがいた。ヘッドホンをして、あの機械に向かって両手を動かしながら体は前後左右に揺れていた、ウタゴエ同様にとてもリズミカルに。あの機械の側にはノートパソコンが置いてある。

 ようやく、入り込んできた光に気づいたのかRは動きを止めて振り返った。その顔はニッコリと笑っていて、とても愛らしかった。Yも息子の笑顔で先ほどのウキウキした気分に幸福感が加わった。
 彼はヘッドホンを両手で外すと、それを奥の方に置いて押し入れから出てきた。

 あ、母さん、おかえり、どうしたの、いつもより早いね
 うん、ただいま

 Yは先ほどから続く幸福感と息子の自然な言葉に反応して正直に語った。

 実はね、担任の先生からRが学校に来ていないって連絡があってね、それで心配になって様子を見に来たの。そしたら、不思議な音が聞こえたからつい声もかけずに部屋に入っちゃった、ごめんね
 ううん、大丈夫だよ
 それでね、すごく楽しいウタゴエが聞こえてきて、思わず聴きいっちゃった
 ありがとう
 あ、でも押し入れで何をしてるんだろうって気になって開けちゃったの、ごめんね
 うん
 で、何してたの?ずっと歌ってたの?


 Rは押し入れの前からベッドに移動して腰かけると、両手を腰に当てて足を組むとYの顔を見上げて、微笑みながらも真剣な表情で答えた。

 母さん、僕はね「音楽」を作っているんだ
「音楽」?作曲ってこと
 そうとも言える、でも、僕が作っているのは新しい「音楽」なんだ。まったく新しい「音楽」、世界を、世界そのものを変えてしまう「音楽」さ
 …それは…どういう種類の「音楽」なの?
 うん、ジャンルとか種類とかは無い、新しいからね。でも、題名だけは決まっているんだ、もう少ししたら発表するよ、全世界に
 何て言う題名なの?





 「るんるん」

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