ユリカの夢?回想?

文字数 2,716文字

“ユリカ、今日は早く帰ってくるのよ” “うん、わかってる” (あれ、お母さん?)
“マユも早く支度しなさい、遅れるわよ” “は~い” (マユ?)

 私は夢を見ているんだろうか?

“ヒデヤ、発表一人で大丈夫?9時からでしょ” “ああ、大丈夫だよ”(お兄ちゃん…)
“お母さんもお父さんも今すごく忙しい時期で、本当は仕事休んで一緒に行きたいけど、ごめんね。結果はすぐにメールしてよね”

 これは5年前のあの日だ…兄があいつでなく、まだお兄ちゃんだった頃のあの日……

 その日は高校の合格発表で、兄は県立最難関の学校を受験していた。

 兄は小さい頃から勉強が良く出来て、母の自慢だった。中高一貫のエリート私立校を受験するために小4から進学塾に通って、クラスは最上位のSSクラス。成績は常に上位、模試も常にA判定、誰もが合格を信じていたし、誰も最悪の事態なんて考えていなかった…ところが、入試前日に熱を出してしまい、無理して受けたけど、不合格。翌週受けた第2志望の学校はプレッシャーが強かったのか、当日お腹が痛くなって、不合格。

 兄は、予行演習で受けた、第3志望の学校に通うことになった……

 母は自分を責めていたみたいだけど(後で考えると)それが逆にプレッシャーになって兄を追い詰めることになったんだと思う。

 中学の三年間、兄はそれでも勉強をひたすら頑張った。三番手の学校とはいっても、そこそこの実力がある生徒が多い中でほぼトップをキープしていた。なんで内部進学しないで、外部受験することになったのか私には分からないけど、兄なりにプライドの回復を図ったんじゃないかと思っている。県立高校への推薦は願書提出を学校側に拒否されて(校内№1の生徒を他に出すなんて、確かにありえないと思う)兄は、本試験の一発勝負に出た。

 今回は熱も出さなかったし、お腹も痛くならなかったみたいで、試験が終わった日、家族でごちそうを囲んで「おつかれ会」を開いた時も “どうだった?” という母の問いに “うん、まずまず。多分、大丈夫だと思う” と緊張が少しほどけた顔で答えていた。

 私は超エリート校ではないけど兄の落ちた二番手の学校に合格した。学校は駅からすごく遠くて、バスで通っていた。それで一番早く家を出るのは私だった。マユは父と一緒に出かける。小学校まで一緒に歩いて、それから父は駅に。だから私はいつも、朝は “行ってきます” と言って一人で家を出る。その日はまだ少し肌寒くて、風も強く、ジャケットの中にカーディガンを着ていたけど足は冷たくて、“う~” と少し震えた。

 その日の学校は特別なことは何もなくて、私は授業が終わるのが待ち遠しくてたまらなかった。

 合格祝いを外ですることになっていたので、何を食べようかとウキウキした気持ちだったのは間違いないけど、兄の中学受験失敗から3年間、何かがズレて、それがキシんで、少しずつだけど、ハッキリとは形になっていない歪み、みたいなモノが家の中には表れていて、それが少し息苦しくて……
 そんなモノからようやく解放されるんじゃないか、っていう期待感みたいなものが私の中にあったんだと思う。 

 部活(天文部)は事情を話して休ませてもらって(そんなに活発な活動はしていないところなので快諾だったけど)いつもより二時間近くも早く家に着いた。足取りも軽く少しドキドキしていた。

“ただいま!” と勢いよくドアを開けたけど返事が無い…母とマユはもう帰ってきているはずなのに…… “ただいま~” ともう一度靴を脱ぎながら言ってみる。

 マユが小さくなって音もなく現れ “おかえり、お姉ちゃん…” と弱々しく呟いた。“あれ?お母さんとお兄ちゃんは?” “うん、お兄ちゃんは部屋。お母さんは怒って泣いてる” “そっか…”

 何かあったんだ、よくない何かが。そして、そのよくない何かについては簡単に想像がついたけど、一応聞いてみる。“お兄ちゃん、どうだったって?” “わかんない。部屋から出てこないし、何もしゃべってくれない。お母さんがノックしても、話しても、何もしゃべってくれない。お母さん、「あたしのせいなの?」って泣きながら怒ってる…”

 食卓を覗いてみたけど、母の姿はなかった。自室にいるのだろうか?私は怖くて扉をノックすることは出来なかった。マユも私の顔を見たからだろうか、泣き出しそうな顔になっている。

 少しひんやりした部屋に暖房を入れて着替えたら、父が帰ってきた。

“ただいま、少し遅くなった。お母さんとヒデヤは?” “お父さん、お帰り” マユの顔が少しだけ明るくなる。“お兄ちゃんは部屋で、お母さんも自分の部屋”

“そうか” と一言。だけど父は事の次第を大体分かっているようだった。“ちょっと待ってなさい、母さんの様子を見てくる” と父は母の自室へ向かった……扉を開けて中に入っていったので、どんなことを話したのかはよく分からなかった。

 父だけが部屋を出てきて “母さんは、今日はちょっとしんどいみたいだ。ヒデヤの様子を見てくる” と言って2階へ上がっていった。私は階段に近寄って耳をそばだてた…

 コンコン、2度ノックの音がした。“ヒデヤ、お父さんだ。遅くなった、すまない。連絡が無かったそうだが、結果を教えてくれないか…お前の口から直接聞きたい” 兄が何と言ったのか、それとも何も言ってないのか、私には聞き取れなかった。

 父はそれから数分間、黙ったまま立っていた。そして、“父さんとユリカとマユはこれから夕食を出前で注文するが、お前は何か欲しいものはあるか?” とドア越しに問いかける。また、しばらく立ちつくす父。“では、後でここに置いておくから、お腹が空いたら食べなさい” とだけ言って父は下りてきた。

 私は階段のそばに立って状況の説明を求めるように父を見つめた。父は “うん、とりあえず、出前で注文するものを決めよう” と言って両手を軽く広げながら私とマユを食卓に促した。

 家の近所には、まだ出前してくれるお蕎麦屋さんがあって、ごくたまに頼むことがある。私は突然のことに戸惑い、まだ空腹は感じていなかったけど、親子丼にした。マユも “あたしも親子丼!” と大好きな親子丼に決めた。父は電話で “親子丼を3つとソースカツ丼” と注文した。

 きっとソースカツ丼は兄の分で、冷めてもいいようにと頼んだんだと思う。

“父さんちょと着替えてくるから、お前はインスタントのスープか味噌汁の準備をしておいてくれ” と言い残して自室に行った。

 家の中はすごく静かで、すごく息苦しかった。初めて体験する空気感だった。


 そして、この日から、私は兄を失った。



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