第17話 もう一匹妖怪が現れた

文字数 2,126文字

わたしと静香が、スーツケースとリュックに衣類を詰め込み終わる頃、ふと窓の外を見ると、先ほどの雪は積もることなく止んでいた。
「ダメだ。もう入りきれねえや」
 小物や雑貨や、気に入ってる思い出の品などを全部持っていこうとすれば、大きな鞄が少なくともあと五つは必要だった。
「物置にダンボール無かったか。あれに詰めてみようぜ」
 物置には以前工場に直接注文していた、ヨーグルトが梱包されたダンボールの空箱が沢山あった。
 めぼしいものを全部詰め終わると、部屋の中にダンボールの山ができた。
「これじゃ、ほんと引越しみたいだね」
「引越しだよ。もったいねえから、居間にあるものも全部詰めようぜ」
 居間には木彫りの象や、瀬戸物のダックスフンド、下手くそな風景画など、一見どうでもいいような装飾品がたくさんあった。全部二束三文に違いないから、赤札は貼られていない。これらの品々を特別愛していたわけではないのに、わたしと静香はせっせとダンボールの中に詰め込んだ。
 フライパンや食器やなどももったいないような気がして、ぼろ布に包んで梱包したが、途中でダンボールが切れてしまった。中型のダンボールは全部で二十三箱あった。
 作業の終わったころには、もうとっくに日は落ちていた。
 わたしたちが昨日のご飯の残りをもそもそと食べている時、おかめさんはやってきた。彼女は一人ではなく、男の人を連れてきた。
 その男の人を見た瞬間、わたしも静香も声を失った。
 男はこの間やってきた白鳥という、ぬりかべのような男よりもさらに背が高かった。といって、横幅はあんなに広くはない。普通かむしろスリムなほうだ。
 顔は丸く小さく、開いているのがほとんど分からないほどの吊り目に、尖がった大きな唇をしていた。どことなく、カモノハシに似た顔である。
 つまりモデル体型にカモノハシヘッドという、稀有な容姿の持ち主だった。
「もう一匹妖怪が来たぜ」
 静香がわたしに耳打ちした。
 おかめさんは、居間の脇に詰まれたダンボールの山を見ていた。
「なんだねこりゃあ」
「引越し荷物だよ」
 静香が答える。
「誰が引越しだと言ったね」
「引越しじゃねえのかよ」
「あたしは身の回りの荷物をまとめろと言ったはずだよ」
 おかめさんはダンボールの中から、茶渋の染み付いた古い急須を取り上げ、裏返して見た後、再び箱の中に戻した。
「おれたちにとっちゃ、全部身の回りの荷物だよ」
「相変わらず減らず口叩くね、大五郎」
「大五郎じゃねえやい!」
「よかろう。ダンボール一個だけなら許してあげるよ」
「それじゃあ、何も持ってけねえよ」
「何をそんなに持っていく必要があるね。御殿に行くわけじゃないんだよ。こんな荷物入りきれるわけないじゃないか」
「せっかく梱包したんだぞ」
「だからもう一度繰り返すけど、あたしは身の回りの荷物だけまとめろと言ったの。身の回りの荷物ってのは、着替えや洗面用具のことを言うの。木彫りのゾウや、古い土瓶や、東京タワーの置物のことじゃないの。おまえそんなに頭が悪くて、この先ちゃんとやっていけるのかい」
 まだつっかかろうとする静香を止めた。
「分かりました。一個だけにします」
 おかめさんとカモノハシ男は普通のセダンでやってきたので、確かにスーツケースにリュックふたつ、ダンボール一箱、それに餞別に静香がもらった巨大ドラエモンを詰め込むだけで一杯になった。スーツケースとリュックはトランクに入れた。後部座席の静香とわたしの間にダンボールを置き、その上にドラエモンを座らせた。
「さあ、鬼熊行くよ」
 鬼熊と呼ばれたカモノハシ男が、車のエンジンをかけ、サイドブレーキを下した。
 星のまたたく冬空の中、わたしたちの車は出発した。
もう二度と見ることのないであろう、離れゆく我が家を振り返った時、急にわたしの胸が締め付けられるように苦しくなった。
わたしも静香もあの家で生まれ育った。様々な思い出の詰まった場所を後にして、その思い出の一端を思い起こそうとしてみたが、頭の中は真っ白で、重たい何かがゆっくりと流れているだけだった。
「終わっちまったな」
 静香がわたしを振り向いた。
「違うよ美里。始まったんだよ」
 車は細い路地を抜け、大通りに出た。
鬼熊の頭は、中型のセダンの天井に届きそうだった。対向車のヘッドライトが、わたしの斜め前に座っているおかめさんの横顔を、不気味に浮き出たせた。
車はやがて首都高に入った。高い位置から見る夜景はとても綺麗だった。普段は目ざわりな電気メーカーの看板も、鮮やかに点滅していると、一気に好感度が上がる。下の道路を彩る車のヘッドライトは、対向車線を境に正反対に流れる、二本の光の河だ。
わたしは暫し、そのちかちか深海魚がうごめくような世界に魅了された。
「パニック症候群って知ってるか」
 静香が夜景を見ながら訊いた。
「言葉だけはね」
「家から遠ざかると発作を起こすってのも、確かそうじゃなかったか」
「そうだよね。帰れなくなる不安から来るんだったよね。ある一定距離を超えると、もうダメなんでしょう」
「おれは大丈夫だぜ」
 そう言う静香の顔色は、暗すぎて読めない。
「あたしも大丈夫」
 おかめさんがティッシュを取り出し、カア~ッと中に痰を吐いた。
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