12.みかげ(2)
文字数 3,352文字
やっぱり女の子だ。
でも、薄い。まるでセロファンのような体だ。
色も薄かった。薄茶色、一色だ。
セピアに色あせたアンティークの人物写真を、ちょきちょき切り抜いて立たせたかのような姿をしている。
そうか。こんなにペラペラだから、角度によって視界から外れてしまっていたのだ。
「お願い、帰らないで」
セピア色の口が動いた。
「私、ええと……あの鏡の中にいるバレリーナに頼まれたの。チュチュを作って欲しいって。私、お裁縫が得意だから、それで、」
つっかえ、つっかえ、言う。
透明なフィルムに描かれた絵が、喋っているみたいだ。
品の良いワンピースに、まっすぐな髪が、すとんと肩を越している。
どことなく、大人っぽい。
「あんたが、投げたのか?」
陽が、まっすぐペラペラ人間を見据えた。
特異な姿に、臆する様子は全くない。
「そうだけど……だって、あの子に投げろって言われたのよ。注意を惹くためだったの。案内板には、偶然当たっちゃったのよ」
ゆらゆらしながら、女の子が答える。
フィルムに描いた顔が、ちらちらと扉の方を伺った。何かを気にしている様子だ。
碧が、床に落ちたピエロのお面を拾い上げた。
そっとコルクの粉を掃ってやってから、声をかける。
「大丈夫?」
『……ご案内を中断致します。システムに破損が生じました。これより、自己修復作業に入ります。この作業には、何十分かの時間がかかります』
張り付いた笑顔から、音声が流れた。
そこに、開きっぱなしの扉から、ピンク色の毛玉が転がり込んできた。
碧の足元で止まる。
マダム・チュウ+999だ。
ネズミの輪 郭 がぼやける程の速さである。
「ド・ジョーの奴ったら、やっと起きたわ。碧、あっちに持って行ってくれる?」
「うん、分かった」
「あ、私も行くよ」
心配げに覗き込んでいた暁も、一緒に行こうとする。
「待って、暁」
ペラペラな腕が、また暁に絡みついた。
「ねえ。どうせ、案内板が直るまでは帰れないんでしょう。暁、チュチュを作るの、手伝ってちょうだい」
なぜだろう。ひゅっと、碧と暁が、同時に息を呑んだ。
吐き出したのは、碧が先だ。
「はあああああ!? 暁に?」
手にしたお面を取り落としそうになり、慌ててキャッチする。
危ない。加害者第2号になるところだ。
「私が?! 手伝うの?! お裁縫を?!」
続けて、暁も叫んだ。
強烈な驚きを表す、倒 置 法 で喋っている。
「あ……うん。手伝って、欲しいんだけど」
ずうずうしいペラペラ人間が、思わず言い淀 んだ。
なんだろう、この不可解なリアクションは。
さらに理解できない会話を、二人は続けた。
「よかったなあ、暁! そうだよ、どうせ案内板が回復するまで、帰れないし」
「うん! この間、おかんにまで、こらあかんって、匙 投げられちゃって」
えへへ、と暁が笑う。
碧が、遠い目をした。
「だろうな。俺は、陽とド・ジョーの所に行ってくるから。その間、せいぜい胸を借りるつもりで頑張れよ」
「うん、わかった! がんばるよ!」
暁が、固く拳を握って応える。
やる気まんまんだ。
碧は、さっさとバッグを床に置くと、何か言いたげな陽を引きずって、あっという間にドアから出ていった。
脱兎 のごとく、という風情である。
ばたんと閉められたドアに、マダム・チュウ+999が、あっけにとられた顔を向けた。
「どういうことかしらん……?」
みかげの方も、解せない様子だ。
フィルムみたいな体を捩ると、暁に顔を向けた。
セピアで描かれた肖像画が、怪訝な表情をしている。
あれ? この子、どこかで見た気がする。
一瞬、暁は、そう思った。
だが、気分は最高潮に盛り上がっている。
それどころじゃない。
みかげが何か言う前に、暁は勢い込んで宣言した。
「なんでも、お手伝いするよ! よろしくね、マダム・チュウ+999、みかげちゃん!」
そう、それは開始宣言だった。
これから始まる、驚愕と忍耐と絶望に満ちた、裁縫 教室の。
「碧、確かさあ、暁の裁縫って」
外廊下に出ると、陽が気まずそうな顔をした。
碧が、ぺろっと舌を出す。それが答えだ。
やっぱり……。
だが、ここで自分が裁縫部屋に戻ったところで、役には立つまい。
尊い犠牲に、心中で感謝を捧げる。
案内板を手に、二人が外廊下を進んで行くと、中ほどで水球が待っていた。
特大ビーチボールサイズが、どんと手摺に乗っかっている。
「ド・ジョー、具合どう?」
碧達が近づくと、水球を突き破って、小さな金色のドジョウが横っちょに出てきた。
手摺の上に、ちゃんと立っている。
もう、大丈夫そうだ。
「おう。まあ、こん中にそいつを入れろや」
すると、碧の手から、案内板が飛び立った。
ふらふらと、自分から近づいて行く。
水風船が割れた。
お面を迎い入れると、今度は、くるくると表面の水が流れ出した。
綺麗な眺めだ。
「この球は、無菌室みたいなもんだ。基本的には、あいつが自分で自分を直す。ちょっとだけ、環境を良くした程度だな」
「そっか。ありがと、ド・ジョー」
碧が、にこっとした。
ずいぶん態度が柔らかくなったものだ。
がらっと幼く見える。
ド・ジョーは、我知らず、重たい溜息をついていた。
「どうしたの、ド・ジョー?」
碧が、こてんと首をかしげる。
ああ、こりゃ駄目だ。
今一度、警告しなれければなるまい。
これ以上、この子が自分に懐いてしまう前に。
「いいか、碧、よく聞け。二度と、このダンジョンには来るな」
「いや。俺だって、また来るつもりなんてなかったよ」
ちゃかすように、碧が返す。
ド・ジョーは、構わずに重々しく続けた。
「それはな、暁がオーロラに気に入られたせいだ。だから、ちょっと条件が揃うだけで、簡単に来れちまう。オーロラに悪意は無えんだが、とんだ迷惑製造機だぜ」
結構、手厳しい。
「オーロラって、あの、のっぺらぼうの名前かあ?」
横から、陽が尋ねた。
ところが、ド・ジョーは金色の体を震わせた。
「まさか! ありゃあ、オーロラなんかじゃない! ただ映ってるだけだ」
力いっぱい否定する。
「いいか、碧、陽。オーロラはな、このダンジョンの核 なんだ。バレエが目指す、優美さの具 現 化 。それに惹 かれ、愛する気持ちが、この地 宮 を形作っている。いわば、銀河系における太陽みたいなもんなんだ」
「はー」
恐れ入っている陽とは対照的に、碧はバッサリ切り捨てた。
「嘘だろ。そんな大層なお方に、優美さ0 の暁が気に入られたなんて、ありえない」
なんだか、毒舌合戦みたいになってきた。
「でも、暁は綺麗だからなあ」
陽が、なんのてらいもなく言う。
だが、またもやド・ジョーは魚体を振った。
「いや。オーロラは、暁の心を気に入ったんだ。他者に対する、無条件の慈 悲 。水にだろうが、迷いなく飛び込んでいく勇敢さ。そして、音楽と踊りを楽しむ、心の豊かさ」
「あの時か!」
碧が声を上げた。
ド・ジョーが寄越 したパズルのピースが、頭の中で答えを形作っていく。
初めて、ここを訪れた時のことだ。
「そうか……。暁の足にポアントが現れたのは、オーロラのせいなんだね」
のっぺらぼうは、確か、こう言ったのだ。
これで、あなたはまた来てくれるわね。
この、夢の世界へ。
ド・ジョーが頷く。
「じゃあ、あの時、暁がバレエを上手に踊ってみせたのも、」
「ああ。オーロラの力だ」
強大な力を備えた、迷惑製造機のようだ。
「だがな、簡単に来れたとしても、危険なことに変わりはねえんだ。現実の世界に帰る方法は、その都度変わる。ここは、決まった出口が無い迷宮なんだ」
碧と陽は、改めて、水球に閉じ込められたお面を見つめた。
もしも、この案内板が壊れていたとしたら?
帰れなくなってたのか……。
「俺達ダンジョンの住人には、お前らを帰す力はない。人間の手助けしかできないんだ。それすら、要 らないって強く思われたら、退場させられちまう」
ハードボイルドな口調に反して、金色ドジョウの目は、柔らかかった。
「だからな、もう来るんじゃねえぞ。また暁が引っ張られたら、お前達が止めろ」
「分かった」
短く応じたのは、陽だった。
碧は俯 いてしまっている。
『自己修復作業は、残り約10分ほどで完了します』
案内板の音声が、水球の中から響いた。
一安心だ。
「碧、暁に知らせて来よう」
陽が促すと、ようやく碧は顔を上げた。
ちょっとだけ、目元が潤 んでいる。
「わかった。ド・ジョー、いろいろありがと」
「おう」
小さなドジョウは、片目だけ上げて笑った。
でも、薄い。まるでセロファンのような体だ。
色も薄かった。薄茶色、一色だ。
セピアに色あせたアンティークの人物写真を、ちょきちょき切り抜いて立たせたかのような姿をしている。
そうか。こんなにペラペラだから、角度によって視界から外れてしまっていたのだ。
「お願い、帰らないで」
セピア色の口が動いた。
「私、ええと……あの鏡の中にいるバレリーナに頼まれたの。チュチュを作って欲しいって。私、お裁縫が得意だから、それで、」
つっかえ、つっかえ、言う。
透明なフィルムに描かれた絵が、喋っているみたいだ。
品の良いワンピースに、まっすぐな髪が、すとんと肩を越している。
どことなく、大人っぽい。
「あんたが、投げたのか?」
陽が、まっすぐペラペラ人間を見据えた。
特異な姿に、臆する様子は全くない。
「そうだけど……だって、あの子に投げろって言われたのよ。注意を惹くためだったの。案内板には、偶然当たっちゃったのよ」
ゆらゆらしながら、女の子が答える。
フィルムに描いた顔が、ちらちらと扉の方を伺った。何かを気にしている様子だ。
碧が、床に落ちたピエロのお面を拾い上げた。
そっとコルクの粉を掃ってやってから、声をかける。
「大丈夫?」
『……ご案内を中断致します。システムに破損が生じました。これより、自己修復作業に入ります。この作業には、何十分かの時間がかかります』
張り付いた笑顔から、音声が流れた。
そこに、開きっぱなしの扉から、ピンク色の毛玉が転がり込んできた。
碧の足元で止まる。
マダム・チュウ+999だ。
ネズミの
「ド・ジョーの奴ったら、やっと起きたわ。碧、あっちに持って行ってくれる?」
「うん、分かった」
「あ、私も行くよ」
心配げに覗き込んでいた暁も、一緒に行こうとする。
「待って、暁」
ペラペラな腕が、また暁に絡みついた。
「ねえ。どうせ、案内板が直るまでは帰れないんでしょう。暁、チュチュを作るの、手伝ってちょうだい」
なぜだろう。ひゅっと、碧と暁が、同時に息を呑んだ。
吐き出したのは、碧が先だ。
「はあああああ!? 暁に?」
手にしたお面を取り落としそうになり、慌ててキャッチする。
危ない。加害者第2号になるところだ。
「私が?! 手伝うの?! お裁縫を?!」
続けて、暁も叫んだ。
強烈な驚きを表す、
「あ……うん。手伝って、欲しいんだけど」
ずうずうしいペラペラ人間が、思わず言い
なんだろう、この不可解なリアクションは。
さらに理解できない会話を、二人は続けた。
「よかったなあ、暁! そうだよ、どうせ案内板が回復するまで、帰れないし」
「うん! この間、おかんにまで、こらあかんって、
えへへ、と暁が笑う。
碧が、遠い目をした。
「だろうな。俺は、陽とド・ジョーの所に行ってくるから。その間、せいぜい胸を借りるつもりで頑張れよ」
「うん、わかった! がんばるよ!」
暁が、固く拳を握って応える。
やる気まんまんだ。
碧は、さっさとバッグを床に置くと、何か言いたげな陽を引きずって、あっという間にドアから出ていった。
ばたんと閉められたドアに、マダム・チュウ+999が、あっけにとられた顔を向けた。
「どういうことかしらん……?」
みかげの方も、解せない様子だ。
フィルムみたいな体を捩ると、暁に顔を向けた。
セピアで描かれた肖像画が、怪訝な表情をしている。
あれ? この子、どこかで見た気がする。
一瞬、暁は、そう思った。
だが、気分は最高潮に盛り上がっている。
それどころじゃない。
みかげが何か言う前に、暁は勢い込んで宣言した。
「なんでも、お手伝いするよ! よろしくね、マダム・チュウ+999、みかげちゃん!」
そう、それは開始宣言だった。
これから始まる、驚愕と忍耐と絶望に満ちた、
「碧、確かさあ、暁の裁縫って」
外廊下に出ると、陽が気まずそうな顔をした。
碧が、ぺろっと舌を出す。それが答えだ。
やっぱり……。
だが、ここで自分が裁縫部屋に戻ったところで、役には立つまい。
尊い犠牲に、心中で感謝を捧げる。
案内板を手に、二人が外廊下を進んで行くと、中ほどで水球が待っていた。
特大ビーチボールサイズが、どんと手摺に乗っかっている。
「ド・ジョー、具合どう?」
碧達が近づくと、水球を突き破って、小さな金色のドジョウが横っちょに出てきた。
手摺の上に、ちゃんと立っている。
もう、大丈夫そうだ。
「おう。まあ、こん中にそいつを入れろや」
すると、碧の手から、案内板が飛び立った。
ふらふらと、自分から近づいて行く。
水風船が割れた。
お面を迎い入れると、今度は、くるくると表面の水が流れ出した。
綺麗な眺めだ。
「この球は、無菌室みたいなもんだ。基本的には、あいつが自分で自分を直す。ちょっとだけ、環境を良くした程度だな」
「そっか。ありがと、ド・ジョー」
碧が、にこっとした。
ずいぶん態度が柔らかくなったものだ。
がらっと幼く見える。
ド・ジョーは、我知らず、重たい溜息をついていた。
「どうしたの、ド・ジョー?」
碧が、こてんと首をかしげる。
ああ、こりゃ駄目だ。
今一度、警告しなれければなるまい。
これ以上、この子が自分に懐いてしまう前に。
「いいか、碧、よく聞け。二度と、このダンジョンには来るな」
「いや。俺だって、また来るつもりなんてなかったよ」
ちゃかすように、碧が返す。
ド・ジョーは、構わずに重々しく続けた。
「それはな、暁がオーロラに気に入られたせいだ。だから、ちょっと条件が揃うだけで、簡単に来れちまう。オーロラに悪意は無えんだが、とんだ迷惑製造機だぜ」
結構、手厳しい。
「オーロラって、あの、のっぺらぼうの名前かあ?」
横から、陽が尋ねた。
ところが、ド・ジョーは金色の体を震わせた。
「まさか! ありゃあ、オーロラなんかじゃない! ただ映ってるだけだ」
力いっぱい否定する。
「いいか、碧、陽。オーロラはな、このダンジョンの
「はー」
恐れ入っている陽とは対照的に、碧はバッサリ切り捨てた。
「嘘だろ。そんな大層なお方に、優美さ
なんだか、毒舌合戦みたいになってきた。
「でも、暁は綺麗だからなあ」
陽が、なんのてらいもなく言う。
だが、またもやド・ジョーは魚体を振った。
「いや。オーロラは、暁の心を気に入ったんだ。他者に対する、無条件の
「あの時か!」
碧が声を上げた。
ド・ジョーが
初めて、ここを訪れた時のことだ。
「そうか……。暁の足にポアントが現れたのは、オーロラのせいなんだね」
のっぺらぼうは、確か、こう言ったのだ。
これで、あなたはまた来てくれるわね。
この、夢の世界へ。
ド・ジョーが頷く。
「じゃあ、あの時、暁がバレエを上手に踊ってみせたのも、」
「ああ。オーロラの力だ」
強大な力を備えた、迷惑製造機のようだ。
「だがな、簡単に来れたとしても、危険なことに変わりはねえんだ。現実の世界に帰る方法は、その都度変わる。ここは、決まった出口が無い迷宮なんだ」
碧と陽は、改めて、水球に閉じ込められたお面を見つめた。
もしも、この案内板が壊れていたとしたら?
帰れなくなってたのか……。
「俺達ダンジョンの住人には、お前らを帰す力はない。人間の手助けしかできないんだ。それすら、
ハードボイルドな口調に反して、金色ドジョウの目は、柔らかかった。
「だからな、もう来るんじゃねえぞ。また暁が引っ張られたら、お前達が止めろ」
「分かった」
短く応じたのは、陽だった。
碧は
『自己修復作業は、残り約10分ほどで完了します』
案内板の音声が、水球の中から響いた。
一安心だ。
「碧、暁に知らせて来よう」
陽が促すと、ようやく碧は顔を上げた。
ちょっとだけ、目元が
「わかった。ド・ジョー、いろいろありがと」
「おう」
小さなドジョウは、片目だけ上げて笑った。