第二十話 太后からの挑戦~鳴らぬ龍笛の謎
文字数 3,325文字
夜――、日中の容 赦 のない陽 射 しに晒 され続けた空気は、どこにも逃げ場がないのか、戌 の二刻 (※午後十九時半)になっても辺り一面に垂れ込めていた。
それでも昊 は砂金を振りまいたが如 く、帯 状 の河 床 が西 北 から東 南 に向かって伸び、北斗七星もよく見えた。
だが――、その音はなんの前 触 れもなく、夜の静 寂 を破った。
これがかなり不 快 極 まりない音で、甍 で微 睡 んでいた天将・玄武は体勢を崩し、危うく落下しかけた。
『なんだぁ!?』
琥 珀 色 の目を瞬 かせ、何が起きたか理解するまで数 拍 、眼下には二人の男がいた。一人は薄地の狩衣に袖を通した晴明、もう一人は直 垂 姿 の男である。
かの音を出したのは、どうやらその直垂姿の男のようだ。よく見れば、横笛を手にしている。玄武は土色の髪を掻 き上げ、近くにいた同 胞 に聞いた。
『あの男――、楽 士 か?』
『違うんじゃない……? まだ下手くそな玄武の笛のほうがマシよ』
『……悪かったな。下手くそで』
太 陰 にきっぱりと言われて、玄武は半眼でぼやく。玄武が吹く笛は亀 甲 笛 といい、水を自在に操る際に吹く。ただ、人間のように音色を愛でるものではないため、楽士と比べられれば下手かも知れない。
『玄武の笛が下手なことはいいとして……、嫌な気がする』
太陰と並んでいた騰 蛇 が、胡 乱 に眉を寄せる。
『ええ。アレ、かなり曰 く付きよ』
直垂姿の男が吹いた笛に、三 柱 は言葉に表せぬ何かを感じていた。
『どうやら晴明は、またも厄 介 ごとに巻き込まれたようだな』
玄武が話に混ざる。
『例の男、関わっていると思うか? 騰蛇』
『さぁな。とにかくその男を見つけ出す。惰 眠 を貪 る情けない同胞は当てにならんからな』
船を漕 いでいたことを指摘され、玄武は不 貞 腐 れる。
『お前ら……、言いたい放題言いやがって!』
『それよりもたもたしていると、また青龍の堪 忍 袋 が破裂するわよ。土砂降りの中で探 索 なんて、わたし嫌よ』
『同感だ』
太陰が隠 形 し、騰蛇も続く。
玄武はやれやれと大 儀 し、少し遅れて彼らを追った。
◆
晴明邸・釣 殿 ――。
酒の入った土 器 を口に運んでいた晴明は、鳴き方を忘れた鳶のような笛の音に、呑 んでいた酒を吹き出すという失 態 をやらかしかけた。
懐 紙 で口 許 を拭 い、渋 面 で奏 者 を見 据 えた。
「……睨 むなよ。これは俺の所 為 じゃないぞ」
笛を吹いたのは、冬真である。
「わかっている……。これほど酷 いとはおもっていなかったのでな」
「たぶん楽 所 の人間でも、こいつを扱うことは無理だな」
楽所とは以前は雅 楽 寮 といい、内裏・桂 芳 坊 にある雅楽の教習や演奏に携 わる官庁である。御 遊 (※帝や貴族によって奏せられる管弦と歌や朗詠)では舞も舞われる。
冬真が吹いたのは、その雅楽で使用される龍 笛 であった。
冬真が所属する近衛府は、楽所が雅楽寮と呼ばれる頃から縁 があり、何人か楽士と兼 任 したものもいたという。冬真も笛を吹くらしく、楽所から何度か誘いがきたらしい。
その冬真を以てしても、二人の前にある龍笛は耳 障 りな音しか出そうとせず「もう一度吹いてみるか?」という冬真の言葉を、晴明は即 座 に却 下 した。
「そもそも龍笛なんぞ、何故お前のところにあるんだ?」
円 座 に座り晴明の酌 を受けると、冬真はそう言って土器を口に運んだ。
「源 博 雅 さまからの依頼だ」
「源博雅さま!?」
今度は冬真が酒を吹き出す失態をやらかした。
「冬真……」
晴明は半眼で、顔に飛んだ酒を再び懐紙で拭う。
「あ、すまん……」
源博雅さまは、今上帝の生母・皇太后に仕える皇 太 后 宮 権 大 夫 に就いている公 卿 である。
しかも宮家出身で、前の左 近 衛 中 将 だった人物だ。現・左近衛中将である冬真が驚くのも無理はない。
「源博雅さま曰く、太 后 (※皇太后)さまの六十の算賀 (※ 高齢の祝賀。当時は四〇歳からはじめて、以後一〇年ごとに祝う)に、披 露 しなくてならいそうだ」
「それなら、これでなくていいんじゃないのか?」
「それもそうはいかんらしい。この龍笛は、その太后さまから下 賜 されたものだそうだ。ましてや源博雅さまは皇太后宮権大夫、使い物にならないではすむと思うか?」
「しかしだ。お前のところに依頼する意味がわからん」
「占 じてみたが、この龍笛には厄介なモノが憑 いているようだな」
冬真の目が据 わる。
「お前なぁ……、それを先にいえよ」
晴明としては、人 喰 い妖 とそれを操 っている卑 劣 な陰陽師を捜したいのだが、裏に太后がいるとなると依頼は断れない。
晴明は依頼されるとき、相手の裏が見えてしまう。それぞれ抱えた事情、その依頼に関わる人間の中身まで様々だ。見ないように努めているが、自身の中にいるもう一人は、どうも探りたくなるらしい。このときもそうだ。
龍笛は博雅に下賜されるときにはもう、この状態だったのではないか。よくもまぁそんな代物を与えたと思うが、太后の狙いが晴明にあるとすれば合 点 がいく。
即 ち――太后からの挑戦。
「冬真、太后さまにお逢いしたことはあるか?」
「あるわけないだろう。かの御 仁 は内裏の外、大 宮 御 所 (※皇太后の居所)の中だ。それに、藤原の人間はお気に召 さないらしい」
聞けば中宮を立てる際に、太后は先帝の第三皇子を父とする姫を推 挙 し、関白・藤原頼房と対立していたという。
「つまり、お互い最大の政 敵 となっているわけか」
冬真は「ここだけの話だがな」と、嘆 息 して酒を呷 った。
◆◆◆
大宮御所――、上皇が住まう仙 洞 院 と隣り合うかの殿 舎 に、太 后 は住んでいる。
かつては国母と呼ばれ、奥内裏最高位に座していたが、今やこの殿舎に籠もっている。
皇太后宮権大夫・源博雅は牛車を俥 寄 せで降りると、太后が座す常 御 殿 に向かって簀 子 縁 に足を運んだ。
「太后さま、博雅でございます」
廂 の御 簾 の前で膝 を折り頭 を垂れると、奥から声がした。
「入 りや」
許を得て御簾を潜ると、衣 香 が博雅の鼻 孔 を擽 った。
「――待っていたぞ。それで、あの男の反応はどうであったかえ? 博雅」
太后は御簾を半分垂らした座にて、檜 扇 を広げていた。
「暫 し、預かるとのこと。ですがあの男は、かの件が太后さまによるものと察しましょう」
「かまわぬ。あの男の実力をみるためじゃ。そなたには悪いことをしたの」
「とんでもなございませぬ。太后さまにお仕えする身として、お役に立てるは栄 誉 なこと」
「廷 臣 がみな、そなたのような者であればよいがの。今や、頼房の天下じゃ。あの男を引きずり落とさねば次 代 (※東宮)の時はさらに増 長 するであろうの」
藤原一門が力を広げるまでは、皇 家 の発言が政に十分に働いたが、藤 原 北 家 が摂 関 家 となって以降は、当時は国母であった太后の意見は通ることはなかった。
彼女には屈 辱 なのだろう。もともと自 尊 心 が高く、彼女自身も宮 家 出 身 である。皇家の力が弱まるのではと畏れたのだろうが。
「――安倍晴明を御味方に?」
「それはこれからじゃ。あの男の能力 、今後の朝廷にとってどう影響するか否かじゃ。障害になるようであれば――、頼房共々、摘 んでおかねばの」
怖い方だ――と、博雅は思った。
だがそれでも博雅は、敢 えてなにもいわず頭を垂れた。
◆
晴明はその日、楽所に足を踏み入れた。
陰陽寮から陰陽師が来ることなどこれまでなかったためか、楽士たちは何事かと腰を浮かせ、応対に現れた楽 所 別 当 ・(※楽所の長官)源扶義 は怪訝そうに眉を顰 めた。
「――いったいかような所に何用か?」
「源博雅さま所有の龍笛を、ご存じと窺いました」
「はて、龍笛というと?」
扶義は扇を口に当て、目を細めた。
「かの御 仁 は、太后さまより下賜されたものと」
「なにゆえ、そなたがそのことを知っているのだ? よもやなにかよからぬことが……
扶義はそこまでいいかけ、しまったという顔をした。やはりあの龍笛は、曰く付きだったようだ。でなれば「なにかよからぬこと」とはいわない。
「――ご安心をまだなにも起きてはおりません。ですが、あれをみた以上、陰陽師として動かざるを得ません」
扶義は嘆 息 し、口を開く。
「――あの龍笛は、元々はある男がものだったのだ」
「その方は?」
「消えたのだ。ある日、突然に」
それでも
だが――、その音はなんの
これがかなり
『なんだぁ!?』
かの音を出したのは、どうやらその直垂姿の男のようだ。よく見れば、横笛を手にしている。玄武は土色の髪を
『あの男――、
『違うんじゃない……? まだ下手くそな玄武の笛のほうがマシよ』
『……悪かったな。下手くそで』
『玄武の笛が下手なことはいいとして……、嫌な気がする』
太陰と並んでいた
『ええ。アレ、かなり
直垂姿の男が吹いた笛に、
『どうやら晴明は、またも
玄武が話に混ざる。
『例の男、関わっていると思うか? 騰蛇』
『さぁな。とにかくその男を見つけ出す。
船を
『お前ら……、言いたい放題言いやがって!』
『それよりもたもたしていると、また青龍の
『同感だ』
太陰が
玄武はやれやれと
◆
晴明邸・
酒の入った
「……
笛を吹いたのは、冬真である。
「わかっている……。これほど
「たぶん
楽所とは以前は
冬真が吹いたのは、その雅楽で使用される
冬真が所属する近衛府は、楽所が雅楽寮と呼ばれる頃から
その冬真を以てしても、二人の前にある龍笛は
「そもそも龍笛なんぞ、何故お前のところにあるんだ?」
「
「源博雅さま!?」
今度は冬真が酒を吹き出す失態をやらかした。
「冬真……」
晴明は半眼で、顔に飛んだ酒を再び懐紙で拭う。
「あ、すまん……」
源博雅さまは、今上帝の生母・皇太后に仕える
しかも宮家出身で、前の
「源博雅さま曰く、
「それなら、これでなくていいんじゃないのか?」
「それもそうはいかんらしい。この龍笛は、その太后さまから
「しかしだ。お前のところに依頼する意味がわからん」
「
冬真の目が
「お前なぁ……、それを先にいえよ」
晴明としては、
晴明は依頼されるとき、相手の裏が見えてしまう。それぞれ抱えた事情、その依頼に関わる人間の中身まで様々だ。見ないように努めているが、自身の中にいるもう一人は、どうも探りたくなるらしい。このときもそうだ。
龍笛は博雅に下賜されるときにはもう、この状態だったのではないか。よくもまぁそんな代物を与えたと思うが、太后の狙いが晴明にあるとすれば
「冬真、太后さまにお逢いしたことはあるか?」
「あるわけないだろう。かの
聞けば中宮を立てる際に、太后は先帝の第三皇子を父とする姫を
「つまり、お互い最大の
冬真は「ここだけの話だがな」と、
◆◆◆
大宮御所――、上皇が住まう
かつては国母と呼ばれ、奥内裏最高位に座していたが、今やこの殿舎に籠もっている。
皇太后宮権大夫・源博雅は牛車を
「太后さま、博雅でございます」
「
許を得て御簾を潜ると、
「――待っていたぞ。それで、あの男の反応はどうであったかえ? 博雅」
太后は御簾を半分垂らした座にて、
「
「かまわぬ。あの男の実力をみるためじゃ。そなたには悪いことをしたの」
「とんでもなございませぬ。太后さまにお仕えする身として、お役に立てるは
「
藤原一門が力を広げるまでは、
彼女には
「――安倍晴明を御味方に?」
「それはこれからじゃ。あの男の
怖い方だ――と、博雅は思った。
だがそれでも博雅は、
◆
晴明はその日、楽所に足を踏み入れた。
陰陽寮から陰陽師が来ることなどこれまでなかったためか、楽士たちは何事かと腰を浮かせ、応対に現れた
「――いったいかような所に何用か?」
「源博雅さま所有の龍笛を、ご存じと窺いました」
「はて、龍笛というと?」
扶義は扇を口に当て、目を細めた。
「かの
「なにゆえ、そなたがそのことを知っているのだ? よもやなにかよからぬことが……
扶義はそこまでいいかけ、しまったという顔をした。やはりあの龍笛は、曰く付きだったようだ。でなれば「なにかよからぬこと」とはいわない。
「――ご安心をまだなにも起きてはおりません。ですが、あれをみた以上、陰陽師として動かざるを得ません」
扶義は
「――あの龍笛は、元々はある男がものだったのだ」
「その方は?」
「消えたのだ。ある日、突然に」