第十五話 心が喰われるとき
文字数 3,955文字
さらさらと、雨が降る。
風というほどの風もない。ただ静かにまっすぐに、雨が空から降ってくるだけだった。
いつも鬱 陶 しいと感じている雨音が、この日はもの悲しく聞こえる。
地で起きている惨 劇 に、天が悲しまれたのだろうか。
それとも、無 慈 悲 に打ち捨てられた亡 者 の嘆 きか。
なにゆえに――。
雨の日に、どこからか聞こえてきた声の意味が、やっとわかった。
わけがわからぬまま妖 に喰われ、骸 となったその身を嘆 く声。
しかも――。
「晴明、今お前――凄 く怖い顔をしているぞ?」
晴明はふっと我に返り、視線を上げた。
そこには、怪 我 から回復した友・藤原冬真が座っていた。
晴明邸の釣 殿 ――、池の睡 蓮 が非常に美しかった。濡 灰 色 の水面で、雨に煙 った白い花がぽつぽつと浮んでいる。
「……それより、もう頭の方はいいのか?」
晴明は瓶 子 を取り上げ、冬真の土 器 に酒を注 いだ。
「ああ、落馬なんぞで冥 界 にいくものか。どうだ? 見直したか?」
呵々と笑う冬真に、晴明は半 眼 で沈 黙 した。
「な、んだよ……」
「……やはり、打ち所が悪かったらしいな」
「お前なぁ……」
冬真の目が据わり、ふくれっ面になった。
晴明は冬真に、心に抱えているものを吐き出せば少しは楽になるだろうが、当の男は激怒するだろう。
人の恨みを請 け負 い、妖 を使って喰 わせている――、そんな陰陽師がいると知れば。
もちろん、本当にそんなことをしているのか確 証 はない。想像の末の、勘 だ。
冬真によれば、宮 腹 の高 階 成 章 という公 卿 が亡くなったという。
「まさか、骸 になっていた――のではないだろうな?」
冬真は、ひとつ瞬 きをした。
「もう知っているのか?」
「いや……」
高階家は二代前の帝の皇 女 が降 嫁 し、それゆえに宮腹の、といわれるらしい。位は左大臣、藤原一門がほとんど要 職 に就 いている中で、重 職 に就いていたということはやはり皇 家 (※皇室)の流れを汲 むためなのだろうか。
だがこの人物、あまりいい人 柄 ではなかったようだ。
北 の方 の他に愛 妾 が数人おり、性格は激怒しやすく、疑 り深 いという。特に参 議 の藤原衒昌 という人物と対立を繰り返し、帝を悩ませていたらしい。
問題は、その二人とも亡くなり、同じように骸で見つかったということだ。
これは想像だが――、晴明を山荘に呼び出した名も名乗らぬ女の夫は、左大臣・高階成章ではないだろうか。そしてかの夫は、以前から対立していたという藤原衒昌をどうにかできないかと、陰陽師に依頼した。ただ彼としては、それから先のことを望んでいたか否か。
もしかすると、ほんの少し困らせてやるつもりだったかも知れない。ただ、妖に喰われて骸になったという結果までは予想していなかっただろうが。
ならば、なにゆえ依頼した高階成章まで死んだのか。
かの人物も悪いが、依頼を受けた陰陽師はさらに悪い。彼のやったことは、魔の所業。
おそらく彼の近くに、正体不明の妖がいる。
彼がその妖を使役しているならば、きっと。
冬真が帰っていくと、晴明は十 二 天 将 を招 喚 した。
『――子 細 は承 知 している……』
顕 現 した天将・騰 蛇 の顔は険 しい。当 然 だ。妖 を使って人を襲わせているという人間がいるのだ。晴明でさえ憤 っているのだから、神である天将は天 罰 を下したいほどだろう。
「その男を捜せ、騰蛇。何処の誰か調べろ」
『承知』
騰蛇はそう答え、溶けるように消えた。
◆
内裏・清涼殿――昼 御 座 (※帝の昼間の居所)。
長い御 前 定 (※緊急の大事を帝の御前において評定すること)のあと、帝が長 嘆 した。
帝の座 所 は御 簾 が半分ほど巻かれ、帝が纏 う白地の御下直衣 に紅 の張 袴 姿 を覗かせている。
関白・藤 原 頼 房 は、帝に向かって座す陰 陽 頭 ・土 岐 亜 門 を一 瞥 し、御 前 に進み出た。
「主 上 、これは由 々 しきことにございます。興福寺に加 持 祈 祷 をさせるのがよいかと存じまする」
王都で起きている怪 異 ――、人が一夜にして骸 となるこの件に、廷 臣 たちは震え上がった。なにせ骸とされるのは貴族である。
興福寺とは、奈良にある法 相 宗 の大本山の寺院である。藤原氏の祖・藤 原 鎌 足 とその子息・藤 原 不 比 等 ゆかりの寺院で藤原氏の氏 寺 であった。
藤原北家との関係が深かったために、春 日 社 (藤原氏の氏神)の実権を持ち、大 和 国 一 国 の荘 園 のほとんどを領 し、その勢力の強大さは王 都 鬼 門 守 護 ・比 叡 山 延 暦 寺 と共に「南 都 北 嶺 」と呼ばれる。
これに憤 ったのは、陰陽寮を統 括 する陰陽頭の土岐である。
「関白どの、まるで我々では当てにならぬというように聞こえますが? 我々は勅 命 を受け、ことの解決を試 みているのですぞ!」
これに対し、頼房はふんっと鼻を鳴らした。
「ならば、なにゆえ怪異が今も続くのか?怠 慢 だと責められても当然であろうに」
「――関白どの!!」
「止めよ!啀 み合 っている場合ではあるまい」
帝からの叱 責 に、二人は平 伏 した。
「――主上、もうしばらく陰陽寮 にお任 せ頂 きとうございます」
土岐が、改めて頭を下げる。
それを良房は、握 る笏 に力を入れながら見ていた。
――これでまた、あの者の名が上がるのだ……。
彼が脅 威 を抱く人物は、事件が解決するたびに帝の信を得ていく。政 を動かしているのは藤原一門である。だというにその一門の一部までが、かの人物の力に頼っている。
半妖の陰陽師――安倍晴明に。
東宮はまだ幼い。今後なにも起きぬとはいえない。
あの男さえ、いなければ――。
大内裏から自 邸 に戻る牛車の中で、良房は我に返る。
牛車が止まっていた。
「何事だ?」
御簾から顔を出すと、牛 飼 い童 が寄ってきた。
「殿 、人が前に……」
「人だと……?」
視線を前に運ぶと、錫 杖 を手にした狩衣姿の男がいた。
「――吾 は観岦斉 と申す。貴殿の望み、叶えてしんぜよう」
「望み……だと?」
「貴殿は願われたであろう? あの男さえいなければ――と」
にぃっと嗤う男に、良房は声を荒げた。
「下がれっ、下 郎 !! 不 愉 快 じゃ! 早う、車を進めよ!!」
牛車に戻る良房の背に、男の声がかけられる。
「吾は人のもつ闇が生みし者。闇に心が喰 われたもの拠 り所 。隠したところで、その闇は消えはせぬ。用あらばその心に念じられよ。吾はいつでもはせ参じよう」
もうそこに、その男はいなかった。
◆◆◆
その報 せが晴明の元に届いたのは、亥 の正刻 (※午後二十二時)を告げる鐘鼓 が、彼の耳 朶 に届いたのと同時だった。
報せてきたのは十二天将・太 陰 である。
顕現するなり不 機 嫌 そうな彼女の表情に、文 台 にて書を捲 っていた晴明も眉を寄せた。
『なんなのよっ。あれは!』
「いきなり、どうした?」
『嫌な気配を見つけたの。まさか例の妖かと思ったんだけど――』
その日――、太陰は王都の昊 を飛んでいたという。
晴明の「妖の気配を掴 め」という命令を遂 行 するためだったそうだが、妙な男を見つけたという。
「男……?」
『それも、全身たっぷり妖 気 が染みこませてね。普通の人間なら、妖に取 り憑 かれていたら死んでるわね。なのにあの男――』
空中で動きを止めた太陰は、驚いたという。
その男は何を思ったか、太陰を見てきたというのだ。さらに――。
「嗤 った……?」
太陰は頷 いた。
もちろん太陰は、隠 形 していたという。一般人には視 えない筈 の太陰である。
たまに鬼や妖が視える見 鬼 の才 をもつ人間もいるが、太陰がその男に感じたものは、神である彼女でさえ戦 慄 を覚える禍 々 しいものだったらしい。
晴明は書を文台に置くと、両腕を組んだ。
「おそらく――」
『おそらく、なぁに? 晴明』
おそらく――その男こそ、妖を使い人を襲わせている陰陽師だろう。太陰は男を追ったそうだが、姿を消されてしまったらしい。
どうやら今回の相手は、十二天将も手こずるようだ。
『ちょっと、晴明! 黙らないでくれる? こっちは馬鹿にされたのよ? あいつに』
太陰は、嗤われたことが悔しいらしい。
男は太陰が視えていた。視えていた上で、挑 発 的 に嗤ったのだろう。
「他の天将はどうしている?」
『騰蛇と玄武なら、こっち(人 界 )に降りてきているわ』
「いや――、もう一人いるだろう」
晴明がそう思うのは、急に冷たい気が邸 内 に漂い始めたからだ。
このときの晴明は狩衣を脱いで、単 衣 に袿 を羽 織 っただけという軽 装 である。風邪を引きそうな冷気は願い下げだが、かの天将は「文句を言うな」と言うだろう。
隠 形 したままの天将は、沈 黙 をもって晴明に訴えている。
『相変わらず、素直じゃないわね? あなた』
太陰はそう『彼』に言った。
晴明は、口を開いた。
「相手がもし、人間ならば私には手は出せない」
『あれは、人とはいわぬ! それでもお前はその男を倒せぬというのか!?』
「私は陰陽師だ、青龍。星を読み、吉 凶 を判 じ、暦を読み解く。更に邪なるものを祓 い清 めるもの。人を殺 めるのは道理に反する」
ゆえに、歯 痒 い。
どんなに非 道 な相手でも、この手を血に染めることはできない。
それをしてしまえば、妖を使って人を喰わせている男と何ら変わらぬ。心は闇に喰われ、今度こそ冥 がりに沈む。
青龍が晴明の言葉をどう思ったか知らない。彼の気配が消え、太陰が軽く嘆 息 した。
『彼も理解していると思うわ、晴明。でもね、私たちにもあの男は裁 けない。人は人の力で解決しなければならないから』
「わかっている。私は私の方法で、かの男と対 峙 する」
『そう』
太陰は短く答えて、彼女も姿を消した。
◇
陰陽師。
ああ、ようやく。
そう、お前を待っていた。
お前なら、わかってくれると。
陰陽師。
さぁ、わが声に応えよ。
早く。
早く。
もうすぐ我が心が喰われてしまう。
あのバケモノに。
風というほどの風もない。ただ静かにまっすぐに、雨が空から降ってくるだけだった。
いつも
地で起きている
それとも、
なにゆえに――。
雨の日に、どこからか聞こえてきた声の意味が、やっとわかった。
わけがわからぬまま
しかも――。
「晴明、今お前――
晴明はふっと我に返り、視線を上げた。
そこには、
晴明邸の
「……それより、もう頭の方はいいのか?」
晴明は
「ああ、落馬なんぞで
呵々と笑う冬真に、晴明は
「な、んだよ……」
「……やはり、打ち所が悪かったらしいな」
「お前なぁ……」
冬真の目が据わり、ふくれっ面になった。
晴明は冬真に、心に抱えているものを吐き出せば少しは楽になるだろうが、当の男は激怒するだろう。
人の恨みを
もちろん、本当にそんなことをしているのか
冬真によれば、
「まさか、
冬真は、ひとつ
「もう知っているのか?」
「いや……」
高階家は二代前の帝の
だがこの人物、あまりいい
問題は、その二人とも亡くなり、同じように骸で見つかったということだ。
これは想像だが――、晴明を山荘に呼び出した名も名乗らぬ女の夫は、左大臣・高階成章ではないだろうか。そしてかの夫は、以前から対立していたという藤原衒昌をどうにかできないかと、陰陽師に依頼した。ただ彼としては、それから先のことを望んでいたか否か。
もしかすると、ほんの少し困らせてやるつもりだったかも知れない。ただ、妖に喰われて骸になったという結果までは予想していなかっただろうが。
ならば、なにゆえ依頼した高階成章まで死んだのか。
かの人物も悪いが、依頼を受けた陰陽師はさらに悪い。彼のやったことは、魔の所業。
おそらく彼の近くに、正体不明の妖がいる。
彼がその妖を使役しているならば、きっと。
冬真が帰っていくと、晴明は
『――
「その男を捜せ、騰蛇。何処の誰か調べろ」
『承知』
騰蛇はそう答え、溶けるように消えた。
◆
内裏・清涼殿――
長い
帝の
関白・
「
王都で起きている
興福寺とは、奈良にある
藤原北家との関係が深かったために、
これに
「関白どの、まるで我々では当てにならぬというように聞こえますが? 我々は
これに対し、頼房はふんっと鼻を鳴らした。
「ならば、なにゆえ怪異が今も続くのか?
「――関白どの!!」
「止めよ!
帝からの
「――主上、もうしばらく
土岐が、改めて頭を下げる。
それを良房は、
――これでまた、あの者の名が上がるのだ……。
彼が
半妖の陰陽師――安倍晴明に。
東宮はまだ幼い。今後なにも起きぬとはいえない。
あの男さえ、いなければ――。
大内裏から
牛車が止まっていた。
「何事だ?」
御簾から顔を出すと、
「
「人だと……?」
視線を前に運ぶと、
「――
「望み……だと?」
「貴殿は願われたであろう? あの男さえいなければ――と」
にぃっと嗤う男に、良房は声を荒げた。
「下がれっ、
牛車に戻る良房の背に、男の声がかけられる。
「吾は人のもつ闇が生みし者。闇に心が
もうそこに、その男はいなかった。
◆◆◆
その
報せてきたのは十二天将・
顕現するなり
『なんなのよっ。あれは!』
「いきなり、どうした?」
『嫌な気配を見つけたの。まさか例の妖かと思ったんだけど――』
その日――、太陰は王都の
晴明の「妖の気配を
「男……?」
『それも、全身たっぷり
空中で動きを止めた太陰は、驚いたという。
その男は何を思ったか、太陰を見てきたというのだ。さらに――。
「
太陰は
もちろん太陰は、
たまに鬼や妖が視える
晴明は書を文台に置くと、両腕を組んだ。
「おそらく――」
『おそらく、なぁに? 晴明』
おそらく――その男こそ、妖を使い人を襲わせている陰陽師だろう。太陰は男を追ったそうだが、姿を消されてしまったらしい。
どうやら今回の相手は、十二天将も手こずるようだ。
『ちょっと、晴明! 黙らないでくれる? こっちは馬鹿にされたのよ? あいつに』
太陰は、嗤われたことが悔しいらしい。
男は太陰が視えていた。視えていた上で、
「他の天将はどうしている?」
『騰蛇と玄武なら、こっち(
「いや――、もう一人いるだろう」
晴明がそう思うのは、急に冷たい気が
このときの晴明は狩衣を脱いで、
『相変わらず、素直じゃないわね? あなた』
太陰はそう『彼』に言った。
晴明は、口を開いた。
「相手がもし、人間ならば私には手は出せない」
『あれは、人とはいわぬ! それでもお前はその男を倒せぬというのか!?』
「私は陰陽師だ、青龍。星を読み、
ゆえに、
どんなに
それをしてしまえば、妖を使って人を喰わせている男と何ら変わらぬ。心は闇に喰われ、今度こそ
青龍が晴明の言葉をどう思ったか知らない。彼の気配が消え、太陰が軽く
『彼も理解していると思うわ、晴明。でもね、私たちにもあの男は
「わかっている。私は私の方法で、かの男と
『そう』
太陰は短く答えて、彼女も姿を消した。
◇
陰陽師。
ああ、ようやく。
そう、お前を待っていた。
お前なら、わかってくれると。
陰陽師。
さぁ、わが声に応えよ。
早く。
早く。
もうすぐ我が心が喰われてしまう。
あのバケモノに。