第十七話 偽りの約束
文字数 3,567文字
かの姫にとって、それは初めての恋であった。
既に二十歳、他 家 では十六の歳には嫁いでいるというのに、かの姫は良 縁 に恵まれなかった。確かに他の姫に比べればとかく美 姫 というほどでもなく、性格も控えめ。
そんな姫が恋をした。突然送られてきた文に、心がときめいた。
相手の男はかなりの身分らしい。夢ではないかと思った。
しかし男は言った。妻にしたいと。
ゆえに――姫はその身を投げ出した。
だが、男が姫の前に通ったのはそれが最初で最後。
母は、お前は騙 されたのだという。
そんな筈 はないわ。あのかたは約束してくれた。
妻にすると。
待っていてくれと。
ゆえに、姫は待った。何日が経ち、歳月が流れ、一年、二年……、姫はずっと待ち続けた。そして、その願いは叶 えられた。
「我が背……、ようやく逢 えた」
愛しい男を前に、姫はそう微笑んだ。
◆
王都・三 条 坊 門 小 路 ――、この小路沿いには貴族の邸 宅 が隣 接 し、朱雀大路をはさんで東側に京 職 (※行政・司法・警察を統括した制度)である左 京 職 、西側に右 京 職 、壬生大路との交わる北西角に大 学 寮 (※官僚の教育機関)、朱雀大路との交わる北西角に穀 倉 院 (※朝廷の食糧庫)がある。
式 部 小 丞 ・藤 原 有 綱 の邸 を訪ねるため、徒歩 にて向かった晴明だったが。
「――何故、お前がついてくる……?」
「いざという時のためさ。お前、こっちの方はまったくだろう?」
隣にいた男――冬真は、自分がいるのは当然とばかり、腰に差した剣を指さした。
「お前なぁ……、夜 盗 退 治 に行くのと勘 違 いをしていないか? それにだ。襲われるとしても、それは役に立たんと思うぞ」
「役に立つか立たないかは、その時になってみないとわからんだろうが」
晴明はやれやれと嘆 息 した。
晴明の邸 がある一条大路から三条坊門小路へは、一条大路を南下し大路と小路を十二通り越した所にある。一つも辻 を曲がらずに辿 り着けたが、刻 限 は既に酉 一 刻 (※午後十七時)である。
――急いだ方がいいかもしれない。
藤原有綱邸の門前に立った晴明は、そう思った。
この時点で、嫌な気が漂ってくるのがわかったからだ。
陽 の力が弱まれば、この気に異界のモノが引き寄せられてしまう。そうなれば、修羅場だ。もし邸 内 にその原因となるモノがあるのなら、日没前に祓 わねばならない。
邸の門 扉 を開けた舎人 の顔も悪い。
主 殿 に案内されると、有綱は内裏で懇 願 してきたよりもさらに青い顔をしていた。頬 はこけ、脇 息 に凭 れていなければならないほど、体調も悪そうだ。
「よく……おいでになった。晴明どの。隣にいるのは……確か近衛府の……」
「左近衛中将・藤原冬真と申します」
「おお……、そうであった。いつもの姿ではなかったゆえわからなかった。許せ……」
有綱は何か言うたびに、深い息を吐く。
だが晴明は、主殿に通される間に気になっていたことがあった。
「式部小丞さま、女房どのの数が少なくありませんか?」
「そういやぁ……、俺の所より少ないな」
冬真が眉を寄せ、首を傾 げた。
そう、少なすぎるのだ。
この藤原家は北 家 の血 縁 だ。世話をする人間が多いだろうと思ったが、それが見渡す限り、女房の数が三人しか姿を見ていない。これまで晴明は貴族の邸に何度か霊符を届けに入ったことがあるが、少なくとも五人はいた。
「そ、それは……」
有綱の視線が泳ぎ始め、何かに怯 え始める。
「式部小丞さま……?」
「せ、晴明どの……、どうかなにを見ても、決して他 言 しないでくれるか……? でなければ……この家は……」
「ご子息の惟規さまは、どちらに?」
「晴明どのっ、頼む! 誰にも言わぬと……。あの馬 鹿 の所 為 で……この家が終わるなど……」
有綱の本心が見えた瞬間だった。息子を助けてくれと懇 願 したのは、結局は家のためだということに。彼は世 間 体 を気にするあまり、二人の息子を見 限 った。
一人は妾 腹 の子を後 継 にすることを畏 れ、今度は後継とした二男の不 祥 事 をもみ消し続けて、ついに絶えきれなくなったのだろう。
こんな筈 ではなかった――、そう呟 く有綱は二男になにを望んだのか。
晴明と冬真はそんな有綱に背を向けて、主殿を辞した。
二男・惟規 の室 には、女房の一人が案内するという。
対 屋 に続く渡 殿 の前で、その女房は歩を止めた。ここから先は、どうしても行けぬという。その対屋からは、かなりの強い香が薫 ってくる。
「女房どの、この香の薫りは?」
「……以前、お邸にいらした陰陽師が焚 くようにと置いていかれて……」
「陰陽師……?」
「それから……その……」
やはり、問題の男はこの邸に来ていた。
女房に寄れば、惟規がおかしくなったのはそれからだという。
嫌な予感がした晴明である。
「せ、晴明! あれを見ろ!」
動揺する冬真の声に導かれて視線を送った晴明は、目を瞠 った。
壺 庭 に、青い彼岸花が三輪 、咲いていた。
軽く舌 打 ちした、晴明だった。
◆◆◆
「うぁ……あ……、やめ……ろ……」
香が煙る室に、男のうめき声がある。
奥に御 帳 台 があり、傍 らには一 つ火 の蝋 燭 が灯 されている。
かの陰陽師は、香と一つ火を決して切らしてならないと女房に告げていったという。普通、陰陽師は、そんなことは言わない。
なぜなら一つ火は――。
「うわぁっ!」
晴明の少し後ろにいた冬真が、声を上げた。
何かと見れば、彼の足 許 に女房が三人倒れていたのだ。しかも、白骨となって。
「――だから、ついてくるなと言ったのだ……」
死 骸 をまじまじと見たのは初めてだったのか、冬真の顔は渋 面 だ。
だがお陰で、明日は二人揃 って物 忌 みせねばならない。
しかし、これでわかった。なぜこの邸に女房が少ないのか、恐らく何者かが手を下した。それは御帳台にいるであろう惟規か、それとも室に漂う妖気の持ち主か。なによりも、女房のみに何が起きたか、有綱は知っていることだ。惟規が何らかの形で関わったのだろう。それから先は想像したくないが、その惟規本人の様子も変である。
御帳台の中にいるのは間違いはないが、呻 き声 しか聞こえては来ない。
「――だぁれ? そこにいるのは」
御帳台から、若い女の声がした。
「あなたは、誰か?」
「わたくしは――、惟規さまの妻 ですわ」
「妻……?」
有綱は惟規に妻がいるとは言わなかった。他の人間もだ。
「ええ。惟規さまがお約束してくださいましたの。吾 子 (※赤子)もいる。わたくしと、惟規さまの吾子。ふふ……、早くお迎えしないと、ねぇ? 惟規さま」
「あ……ぁ、くる……な……」
妖 気 が一層、濃くなる。
晴明は、冬真に向かって叫んだ。
「冬真!香 炉 を壊せ!!」
「香炉?」
香炉は二つ。厨 子 棚 に一つ、もう一つは上から吊されている鞠 香 炉 である。
冬真は晴明に言われるまま、剣を鞘から抜く。
だが――。
「くっ……」
「冬真!?」
冬真の呻きに晴明が振り向くと、叩き割ろうしていた冬真の刀剣に、黒いモノが巻き付いていた。
『邪魔ヲ、スルナ……!』
「うあぁぁぁ……っ!!」
惟規が絶叫する。
晴明は即 座 に結 印 する。
「オン、マカビジャニヤ、ジャニヤノウビイブゥソワカ」
浮かんだ五 芒 星 が『それ』を捉 えた。
「砕 破 !!」
晴明の呪 文 に、刀剣から離れた『モノ』は黒い塵 となって四散する。
「晴明、やったか……!」
冬真が隣に立った。
「いや、まだだ……」
晴明は、御帳台を睥 睨 する。
そう終わってはいない。おそらくここからが、本番だろう。
「晴明、一緒にいる女は誰なんだろうな?」
「この世のモノではないことは間違いないな」
焚かれている香は死者を呼び出すという反 魂 香 、一つ火は見てはいけないものを見てしまうという。この二つが揃えば、惟規と一緒にいるモノか何者かは容 易 だ。
「どうして? どうして邪魔をするの? わたくしは惟規さまに乞 われた。だからここにきたのに……、なぜ、わたくしから奪おうとするの?」
「――彼女たちはなにゆえ?」
妻と名乗る女に、晴明は骸 となっている女房たちのことを聞いた。
「惟規さまに近づいたからですわ。妻であるわたくしがいるのに、身 の程 知 らずにも惟規を誘 惑 した。仕置きをするのは当然ではなくて?」
おそらく、事実は違うのだろう。
晴明がなかなか口を割らぬ舎人 から聞き出すと、惟規という男は邸の女房にまで手を出していたという。それを当主の命令で周りは黙 認 した。
陰陽師と名乗る男がやって来たのは、それから数日経ってからのことだったらしい。ご子息の奇 行 は、邸に棲 み着 いた禍 によるもの――、そう言ったという。
しかし惟規の状態は、さらに悪化した。もう自分では隠せなくなった有綱は晴明を頼った、そんなところだろう。お陰で事態は、最悪である。
「失礼する!」
晴明は、御帳台の帳 を勢いよく捲った。
既に二十歳、
そんな姫が恋をした。突然送られてきた文に、心がときめいた。
相手の男はかなりの身分らしい。夢ではないかと思った。
しかし男は言った。妻にしたいと。
ゆえに――姫はその身を投げ出した。
だが、男が姫の前に通ったのはそれが最初で最後。
母は、お前は
そんな
妻にすると。
待っていてくれと。
ゆえに、姫は待った。何日が経ち、歳月が流れ、一年、二年……、姫はずっと待ち続けた。そして、その願いは
「我が背……、ようやく
愛しい男を前に、姫はそう微笑んだ。
◆
王都・
「――何故、お前がついてくる……?」
「いざという時のためさ。お前、こっちの方はまったくだろう?」
隣にいた男――冬真は、自分がいるのは当然とばかり、腰に差した剣を指さした。
「お前なぁ……、
「役に立つか立たないかは、その時になってみないとわからんだろうが」
晴明はやれやれと
晴明の
――急いだ方がいいかもしれない。
藤原有綱邸の門前に立った晴明は、そう思った。
この時点で、嫌な気が漂ってくるのがわかったからだ。
邸の
「よく……おいでになった。晴明どの。隣にいるのは……確か近衛府の……」
「左近衛中将・藤原冬真と申します」
「おお……、そうであった。いつもの姿ではなかったゆえわからなかった。許せ……」
有綱は何か言うたびに、深い息を吐く。
だが晴明は、主殿に通される間に気になっていたことがあった。
「式部小丞さま、女房どのの数が少なくありませんか?」
「そういやぁ……、俺の所より少ないな」
冬真が眉を寄せ、首を
そう、少なすぎるのだ。
この藤原家は
「そ、それは……」
有綱の視線が泳ぎ始め、何かに
「式部小丞さま……?」
「せ、晴明どの……、どうかなにを見ても、決して
「ご子息の惟規さまは、どちらに?」
「晴明どのっ、頼む! 誰にも言わぬと……。あの
有綱の本心が見えた瞬間だった。息子を助けてくれと
一人は
こんな
晴明と冬真はそんな有綱に背を向けて、主殿を辞した。
二男・
「女房どの、この香の薫りは?」
「……以前、お邸にいらした陰陽師が
「陰陽師……?」
「それから……その……」
やはり、問題の男はこの邸に来ていた。
女房に寄れば、惟規がおかしくなったのはそれからだという。
嫌な予感がした晴明である。
「せ、晴明! あれを見ろ!」
動揺する冬真の声に導かれて視線を送った晴明は、目を
軽く
◆◆◆
「うぁ……あ……、やめ……ろ……」
香が煙る室に、男のうめき声がある。
奥に
かの陰陽師は、香と一つ火を決して切らしてならないと女房に告げていったという。普通、陰陽師は、そんなことは言わない。
なぜなら一つ火は――。
「うわぁっ!」
晴明の少し後ろにいた冬真が、声を上げた。
何かと見れば、彼の
「――だから、ついてくるなと言ったのだ……」
だがお陰で、明日は
しかし、これでわかった。なぜこの邸に女房が少ないのか、恐らく何者かが手を下した。それは御帳台にいるであろう惟規か、それとも室に漂う妖気の持ち主か。なによりも、女房のみに何が起きたか、有綱は知っていることだ。惟規が何らかの形で関わったのだろう。それから先は想像したくないが、その惟規本人の様子も変である。
御帳台の中にいるのは間違いはないが、
「――だぁれ? そこにいるのは」
御帳台から、若い女の声がした。
「あなたは、誰か?」
「わたくしは――、惟規さまの
「妻……?」
有綱は惟規に妻がいるとは言わなかった。他の人間もだ。
「ええ。惟規さまがお約束してくださいましたの。
「あ……ぁ、くる……な……」
晴明は、冬真に向かって叫んだ。
「冬真!
「香炉?」
香炉は二つ。
冬真は晴明に言われるまま、剣を鞘から抜く。
だが――。
「くっ……」
「冬真!?」
冬真の呻きに晴明が振り向くと、叩き割ろうしていた冬真の刀剣に、黒いモノが巻き付いていた。
『邪魔ヲ、スルナ……!』
「うあぁぁぁ……っ!!」
惟規が絶叫する。
晴明は
「オン、マカビジャニヤ、ジャニヤノウビイブゥソワカ」
浮かんだ
「
晴明の
「晴明、やったか……!」
冬真が隣に立った。
「いや、まだだ……」
晴明は、御帳台を
そう終わってはいない。おそらくここからが、本番だろう。
「晴明、一緒にいる女は誰なんだろうな?」
「この世のモノではないことは間違いないな」
焚かれている香は死者を呼び出すという
「どうして? どうして邪魔をするの? わたくしは惟規さまに
「――彼女たちはなにゆえ?」
妻と名乗る女に、晴明は
「惟規さまに近づいたからですわ。妻であるわたくしがいるのに、
おそらく、事実は違うのだろう。
晴明がなかなか口を割らぬ
陰陽師と名乗る男がやって来たのは、それから数日経ってからのことだったらしい。ご子息の
しかし惟規の状態は、さらに悪化した。もう自分では隠せなくなった有綱は晴明を頼った、そんなところだろう。お陰で事態は、最悪である。
「失礼する!」
晴明は、御帳台の