第三十話 権力者たちの思惑
文字数 3,532文字
「請 願 奉 る――、この都は四 神 相 応 の地なり。天 孫 の治めし国なり。
北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎が守護せり。なれど都に禍 おこりて、人、難に遭いて地は穢 土 となりぬ。高 天 原 の大 神 、八 百 万 の神よ、我が願いを聞き給 え。穢 れを祓 い、地を清め給え」
大内裏正門・朱雀門に、祝詞 を読み上げる声が朗 々 と響く。
門前には祭 壇 が築かれ、玉 串 や榊 など幣 帛 が飾られている。朱雀大路から朱雀門に向かって一直線に伸びる路 は門を貫通して正 殿 (※紫 宸 殿 )まで伸び、その路を挟むように重臣が並び、帝が祭 祀 を執 り行う者の背後で平 伏 する。
真夏の炎天下での祭祀である。本当ならばやりたくないのが、彼らの本音だろう。
帝はどう思っているかわからないが、重臣たちの顔は眉間に小さな皺 が刻まれている。日輪に炙 られながらの参列は、苦 行 でしかないだろう。
祓えの祭祀執行の勅 命 が陰陽寮に下りたのは、十五夜を前にした十三日のことである。
観 月 の宴を有意義にしたい思惑もあっての挙 行 だったようだが、まさか炎天下に晒 されるとは思っていなかったようだ。
しかも執行者は安倍晴明、昼 の御 座 (※帝の昼の座所)に姿を見せた彼に、祭祀に参列することになった重臣の何人かは「ひっ」と声を上げ、関白・頼房に至っては「なにゆえ、そなたが?」と不 愉 快 極 まりないといった顔で聞いてきた。
当初の予定では、執行者は決まっていなかった。
陰陽寮には陰陽師は七名、その中で高い呪 力 を有 している者となると、賀 茂 忠 行 とその息子の保 憲 、そして安倍晴明、関白たちはてっきり賀 茂 父 子 のどちらかがやると思っていたらしい。
――私もできればやりたくないのだ。
白一色の直 衣 と差 袴 に身を包んだ晴明は、祭壇の前で合わせていた両手を解 く。
祓えの祭祀は終わったが、はたしてこれで王都に漂う瘴 気 が消えるか疑わしい。なんとも頼りない結論だが、敢 えてそれを帝に奏 上 するつもりはない。
かえって不安にさせるのは、陰陽師の道理に反する。
(暑いのは、私も同じなのですよ)
彼らの圧を躯 に受けて、晴明は袂 を翻 す。
ただ、こんな最 中 にも「今年は玉 兎 (※月に兎 がいる伝説からついた月の異称)を見られるといいな」と言った男が一人いたが。
◆
王都に蔓 延 する疫 病 に人々が苦しむ中、これを幸いと思う人物がここにいた。
かつての国 母 であり、今上帝の生母、大宮御所の太 后 (※皇太后)・定 子 である。
「藤 原 仲 成 の姫が病に臥したそうだの? 式 部 卿 」
脇 息 に傾 れ掛 った定子は、檜 扇 越 しに平 伏 する男に目を細めた。
式部卿・源 清 平 ――、今上帝の従弟 で、元服まもなく臣 籍 降 下 したという人物である。
「はい。此 度 の東宮妃選び、主 上 は心痛めあそばされておられるご様子」
現・東宮は今年十四歳、皇 家 の血筋を途切れぬさせぬためにも正妃は必要である。だが、候補にあがった姫君たちは、悉 く病に臥 した。
「これで北 家 の姫が三人病んだ。主上には悪いが、妾 は安 堵 しておる。あやつにこれ以上、朝廷を牛耳られたくないからのう」
不 謹 慎 かも知れぬが、定子はほくそ笑む。
候補に上げる姫君は、どれも藤原北家に連なる姫。藤原一門――、特に北家の力を削ぎたい定子にとって、北家繋がりの姫が後の国母となるのは我慢できない。
彼女の血統は、平安王都遷都の時より、一度も藤原の血が注がれる事はなかった。
始 帝 (※王都を遷都した帝)・第五の親 王 を祖とする宮家に生まれ、先帝の中宮となり、今上の母となった。
今上が東宮であった頃も、定子は東宮妃選びを始めた。しかし、藤原一門の力に押され、中宮となったのはよりによって、嫡 流 の藤原北家の姫にして関白・頼房の娘。
憎い北家の血をもつ東宮だが、定子にとっても孫。
北家の姫が東宮妃となれば、皇 統 の血は薄れる。そんな危機感が、定子を夜 叉 へと駆り立てた。
「ですが、東宮妃に北家の姫が就かずとも、関白さまの権 力 は衰 えないでしょう」
「心配せずとも、妾の目的は以前から順調に進んでおる。我が願いが、天に通じたのじゃ。違うかえ?」
まるで彼女の肚 を読んだが如 く、北家に繋がる貴族が亡くなっていく。誰かに指 図 したつもりはなかったが、今の彼女に彼らを悼 む想 いはない。
定子は皇家を守るために、非 情 にならざるを得なかったのである。
◆◆◆
祭祀の効果なのか、翌日は夕 刻 まで雨となった。
一時的なものだったにせよ、これで少しは地の乾きは収まるだろう。藤原冬真が晴明邸を訪ねてきたのはその夕刻――、酉 一 刻 (※午後十七時)のことであった。
大内裏で着用している、黒地に輪 無 唐 草 紋 が浮き彫りされた闕腋袍 ではなく、いつもの直 垂 姿 でやってきた彼は円 座 に座ると、持参した瓶 子 と土 器 、それに肴 の干し魚を置いた。
そんな冬真曰く、十五日の夜は冬真の邸 ・藤 原 南 家 は右大臣邸で観 月 の宴 が開かれるという。観月の宴とは中秋の名月を愛 でつつ、詩 歌 や管 絃 を楽しみ、酒を酌 む雅 な宴である。名月の日に月を鑑賞する風習は、大陸(※中国)から伝わったという。
しかも曇っていようと雨が降ろうと、見えない月を愛でるというから、晴明には謎だ。
何でも雲などで月が隠れて見えない月を無 月 、当日の晩に雨が降って見えない月を雨 月 と呼ぶらしい。
「今年は玉兎を見られると、喜んでいたんじゃないのか?」
酒を酌み交わし始めると、晴明は冴 えない冬真の表情に苦笑した。
「月は見たいが、連中と群れるのは嫌なんだよ。俺は」
じっとしているのが嫌いな男は、宴に出るのが嫌らしい。
「お前、次期南家当主だろうが」
「今になって、なんで俺の前に兄を作らなかったのか、父上を恨みたいよ」
冬真の父、右大臣・藤 原 有 朋 は、冬真しか子供は成 さなかった。つまり冬真は、藤原南家一族の跡取りなのである。
家 督 を継ぐだの、貴族の宴や遊びには縁遠い晴明にすれば「大貴族に生まなくて良かった」と思う話である。
「だったら諦 めるんだな」
宴を催 すのは右大臣・藤原有朋である。その宴の席に、息子である次期当主が顔を出さないのは、今後においても拙 いだろう。
「なら、お前が来い。父上と逢うのは久しぶりだろう?」
冬真はいい手だと思って言ってきたのだろうが、晴明の気分は一気に下がった。
「断る。私が行けば右大臣さまの面 目 を潰 すことなる。右大臣家の人間だけならいいが、関白さままで来るとなると、どうなるかわかっているだろう?」
ただでさえ、晴明が内裏に参 内 すれば嫌味を言い、奇 異 の目を浴びせるという連中である。そんな彼らがいるが宴に行けば、お互い美味い酒も不 味 くなるだけだ。
「お前、敵を作りすぎなんだよ……」
冬真が半眼で言う。
「私が作っているのではない。向こうが私を嫌っているのだ」
「しかし、時 勢 が時勢だ。疫 病 は完全には鎮まっておらんし、東宮さまの妃選びも難航してるいるらしい。宴どころじゃないと思うんだがな」
「確かにかの御 仁 は……」
東宮と聞いて、晴明は自 邸 に棲 み着 いている雑 鬼 を思い出した。
雑鬼が内裏に潜り込んで友達になったと言った、キミヒトという名の少年。
正しくは式 部 宮 皇 仁 親 王 ――、彼には鬼などが視える見 鬼 の才 があった。
「東宮さまに、逢 ったことがあるのか? 晴明」
「いや……」
晴明は、東宮本人に逢ったことはない。
ただ妖 と友達になったという東宮を想うと、彼が帝位に就いた時が楽しみである。もちろん、現 在 の気持ちのまま大人になった場合の話だが。
十五日当日――、昊 には月を愛でるにはちょうど良い望 月 (※十五夜の満月)が昇った。 今ごろあの男は、渋面で土 器 を傾 けているのだろうか。
晴明は冬真の顔を想像して、月明かりが照らす壬生大路 を歩いていた。
この大路の西側、二条大路から三条大路にかけて大 学 寮 ・弘 文 院 ・勧 学 院 という教育施設と、九条大路との辻・北東角には東寺が置かれ、二条大路との辻・南東角には神 泉 苑 がある。
刻 限 は酉 の正 刻 (※午後十八時)――、この時刻に晴明が出歩いているのは午 に渡し損ねた霊 符 を依頼してきた源 有 仁 に渡すためだ。
源有仁家は二代前の帝の時に、第三内親王が降 嫁 した家で、有仁は内 大 臣 (※左右大臣を補佐する大臣)の重職に就く大物である。当然、そんな人物からの依頼となると報酬もいい。
不意に、晴明の足が止まる。
『晴明、気をつけろ。妖の気配がする』
いつから随 従 していたのか、十二天将の一人・匂陳 が声をかけてきた。十二天将の中で青龍や玄武、朱雀に白虎ら四 神 が東西南北の守護なら、匂陳は王都守護の神。闘将でもある彼が出て来たということは――。
「だ、誰か助けてくださいっ」
考えを巡らしていた晴明に、そんな叫び声が聞こえてきた。
北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎が守護せり。なれど都に
大内裏正門・朱雀門に、
門前には
真夏の炎天下での祭祀である。本当ならばやりたくないのが、彼らの本音だろう。
帝はどう思っているかわからないが、重臣たちの顔は眉間に小さな
祓えの祭祀執行の
しかも執行者は安倍晴明、
当初の予定では、執行者は決まっていなかった。
陰陽寮には陰陽師は七名、その中で高い
――私もできればやりたくないのだ。
白一色の
祓えの祭祀は終わったが、はたしてこれで王都に漂う
かえって不安にさせるのは、陰陽師の道理に反する。
(暑いのは、私も同じなのですよ)
彼らの圧を
ただ、こんな
◆
王都に
かつての
「
式部卿・
「はい。
現・東宮は今年十四歳、
「これで
候補に上げる姫君は、どれも藤原北家に連なる姫。藤原一門――、特に北家の力を削ぎたい定子にとって、北家繋がりの姫が後の国母となるのは我慢できない。
彼女の血統は、平安王都遷都の時より、一度も藤原の血が注がれる事はなかった。
今上が東宮であった頃も、定子は東宮妃選びを始めた。しかし、藤原一門の力に押され、中宮となったのはよりによって、
憎い北家の血をもつ東宮だが、定子にとっても孫。
北家の姫が東宮妃となれば、
「ですが、東宮妃に北家の姫が就かずとも、関白さまの
「心配せずとも、妾の目的は以前から順調に進んでおる。我が願いが、天に通じたのじゃ。違うかえ?」
まるで彼女の
定子は皇家を守るために、
◆◆◆
祭祀の効果なのか、翌日は
一時的なものだったにせよ、これで少しは地の乾きは収まるだろう。藤原冬真が晴明邸を訪ねてきたのはその夕刻――、
大内裏で着用している、黒地に
そんな冬真曰く、十五日の夜は冬真の
しかも曇っていようと雨が降ろうと、見えない月を愛でるというから、晴明には謎だ。
何でも雲などで月が隠れて見えない月を
「今年は玉兎を見られると、喜んでいたんじゃないのか?」
酒を酌み交わし始めると、晴明は
「月は見たいが、連中と群れるのは嫌なんだよ。俺は」
じっとしているのが嫌いな男は、宴に出るのが嫌らしい。
「お前、次期南家当主だろうが」
「今になって、なんで俺の前に兄を作らなかったのか、父上を恨みたいよ」
冬真の父、右大臣・
「だったら
宴を
「なら、お前が来い。父上と逢うのは久しぶりだろう?」
冬真はいい手だと思って言ってきたのだろうが、晴明の気分は一気に下がった。
「断る。私が行けば右大臣さまの
ただでさえ、晴明が内裏に
「お前、敵を作りすぎなんだよ……」
冬真が半眼で言う。
「私が作っているのではない。向こうが私を嫌っているのだ」
「しかし、
「確かにかの
東宮と聞いて、晴明は
雑鬼が内裏に潜り込んで友達になったと言った、キミヒトという名の少年。
正しくは
「東宮さまに、
「いや……」
晴明は、東宮本人に逢ったことはない。
ただ
十五日当日――、
晴明は冬真の顔を想像して、月明かりが照らす
この大路の西側、二条大路から三条大路にかけて
源有仁家は二代前の帝の時に、第三内親王が
不意に、晴明の足が止まる。
『晴明、気をつけろ。妖の気配がする』
いつから
「だ、誰か助けてくださいっ」
考えを巡らしていた晴明に、そんな叫び声が聞こえてきた。