第十六話 過ちと後悔
文字数 3,801文字
ああ、なにゆえに。
なにゆえに、あのバケモノは。
聞こえているか。
気がついているか。
我が思いに。
我が声に。
水を湛 えた池の周りでその華 は揺れていた。青く燃える燐 火 の如 く、我が身を嘆 く死 人 花 。ここには弔 われることなく、また彼 岸 も渡れぬモノが集まる地。そして全ての始まりの地。後悔してももう遅いと思い知らされる地。
――ただ、あのかたの哀 しみを癒 やしたいと願っただけなのに。
草 叢 の中でそっと身を潜 め、〝彼〟は自 責 の念に震えた。
華が一つ咲くたびに、お前の所為 だと言われている気がした。
その報 いは十分に受けたというに、この身はやがて消える。彼らのように骨も残らず、華も咲かせることなく。
――これが最後だ。
〝彼〟は己 の意思が残っている内にと、そこから這 い出た。
最 期 の声を伝えるために。
◆
そこからは、平 安 王 都 が一 望 できた。
整 然 と区 画 された縦横に走る大 路 と小 路 、左 京 と呼ばれる左側を中心に連 なる甍 、高く聳 える東寺の塔 、そこには様々な人間が暮らし、心に何らかの闇を抱えて生きている。
異界から降りねば、そうした闇に触れることはなかったかも知れない。と言って、知らぬ振りもできない。また咎 人 を裁くことも、彼らの掟 が阻 む。
その男は木の上にいた。逞 しい腕に絡 ませた領 巾 を風に孕 ませ、いつもにまして険 しい彼の表情に、天 将 ・太 陰 は少 し呆 れた。
『――まだ怒っているの? 青龍』
太陰を一 瞥 した青龍は、憤 怒 の表情を崩すことはなかった。
『俺はお前のようにすましてはおれぬ』
『別に、すましてなんかいないわ。あなたが短気すぎるのよ』
凍 てつくような青龍の視線を直 に受けて、太陰は軽く笑む。
青龍は十二天将の一人だが、人界では東を守護する四 神 である。ゆえに太陰よりもっとも人界に降りる確率が高いのだが、他の朱雀・白虎・玄武に比べ、自 尊 心 が高い上に短気ときている。ゆえに、晴明の式神として下るとなった際、最後までごねていたのが彼だ。
『人とは、かくも愚 かとは……』
他人に対し嫉 妬 し憎み、更に野心の為には人を陥 そうと画 策 する――そんな人間の裏面に、彼が憤 る気持ちは太陰もわかる。
『それが、人なのかも知れないわね。みな、心の闇を抱えている。そしてそれと必死に戦っているんだわ。誰も彼も、咎人にはならなくてよ? 青龍』
『晴明 のことを言っているのか?』
『晴明を含めた全ての人間よ。ただ彼の場合は、違った意味での闇を抱えているみたいだけど』
半 妖 である晴明は、人の血と妖の血の狭 間 で必死に戦っているのだろう。人として生きていくために自身の闇と戦い、その人のために自身を削 っていく。
自分は陰陽師ゆえ――とし、それを甘 んじて受ける彼の孤独な戦いを、十二天将は見守るしかできない。そして彼がその闇に心を喰われたしても、彼らは黙って異界に去る。
神という名で括 られてはいるが結局、人界のことは人が解決しなければならない。
青龍が口を開く。
『晴明は、自分では裁 けぬと言った。人を平気で妖に喰わせているかの男を倒せぬといった。ならば、誰が罰 する? 妖を斃 したとて、かの男は諦 めまい』
『人は人が裁く――それは、わかっていることよ? 私たちには手出しできない。晴明が命じない限りはね。でもたぶん晴明は命じないと思うわ。殺せとは』
陰陽師は人を裁く任に非 ず――、晴明の言葉は正しいのだろう。だからといって、このまま非 道 な手 法 を放置することは出来ない。
『――ここで議 論 しているより、今のわたしたちに出来ることは、あの男の所在を突き詰めることよ。違って? 青龍』
『お前に諭 されるとはな……』
青龍はふっと笑って、昊 に身を躍らせた。
『ほんと、可愛げがないんだから……っ』
腰に手を当てむくれる太陰だが、彼女もまた風を纏 わせ昊を飛んだのだった。
◆◆◆
「息子を救ってくれ……っ」
悲 痛 な顔で訴 えてくる男を前に、晴明は半眼で嘆 息 した。
帝に拝 謁 し、清涼殿の簀 子 縁 に足を運んでいたときのことだ。近くに帝がいるにも構わずに、衣 冠 姿 の男は大声で晴明を呼び止めたのだ。
晴明は、その男の顔を知っていた。
男は文 官 の人事、教育などを担当し、大 学 寮 ・散 位 寮 を管 轄 する式 部 省 は式 部 少 丞 に就いていた。
初めて彼と直 に会ったのは、ある事件が発 端 であった。
その前からも、晴明が通りかかるたびに眉を顰 め、数人の廷臣と陰 口 を叩いていたが、その時は他の者たちからも陰口は叩かれていたこともあり、気にも止めなかったのだが。
それからしばらくして、殿 上 の間 (※公 卿 、殿 上 人 が伺 候 する部屋)に雑 鬼 が逃げ込んだことがあった。散々いたずらをされたらしく、その場にいた公卿が晴明に向かい、妖 を連れ込んだのはお前だろうと吼 えた。その男が、晴明の目の前にいる男――、藤 原 有 綱 である。晴明としては雑鬼を連れ込んだ覚えはないのだが、徒 党 を組んではあーだのこーだの人のことを誹 謗 中 傷 していた男である。それが、この掌返 しだ。にこやかに返答できるほど、晴明はお人好しではない。
「ご子 息 といえば――……」
晴明は、彼の息子も知っていた。
今のように内裏の中を進んでいると、数人の廷 臣 に声をかけられた。興味本位なのだろうが、呪 術 では何でもできるのかという問いに始まり、しまいには庭の石にいた蛙 を射 てみせよと言い出した。思えば、その時の蛙には酷 なことをしたと晴明は思う。
その蛙を射ろと言ったのが、彼の息子・藤原惟規 だった。
名前を知ったのはその時に一緒にいた男からの情報で、性格は言うに及ばず、行いも褒 められたものではないらしい。しかも、この父親だ。
「式部小丞さま、場所を弁 えられて頂きたい」
「以前の……その……、非 礼 は詫 びよう。ゆえに……、息子を……、惟規を救ってくれ……っ! 安倍晴明どの」
必死な有綱に、晴明は肩を落とし「吉 日 を占 じ、この日にお伺いします」と答えて別れた。
夜――、夕 餉 を済ませた晴明の元に冬真がやって来た。
夜 警 の途中で寄ったという彼は闕腋袍 に胡簶 を背負ってそれらしい姿をしていたが、どうやらそれは晴明の邸 で酒を呑 むための口 実 だったらしい。
円 座 に腰を下ろすと、瓶 子 を取り出した。
はたして近 衛 府 は、こんな男を中将の位に就けておいて大丈夫なのかと心配になった晴明だが、彼もまた呑みたい心 境 だったため、あえてそこには触れなかった。
「――あの御 仁 がそこまで必死となると、よほどのことだな」
晴明から内裏での話を聞いた冬真は、そう言った。
藤原有綱という男は、北 家 から派 生 した家の中でも歌 人 として、帝の覚えもめでたいという。子は二人いるそうだが、公に知られているのは惟規のほうらしい。
「なぜた?」
晴明の問いに冬真は軽く嘆息し、
「嫡 男 が妾 腹 だからさ。北の方としては、家を継ぐのは我が子ではなく、外に生まれた子が継ぐとなるとよくは思わんだろうさ」
と言う。
ゆえに、その第一子は元服後すぐに仏門に入られたという。
だが――、晴明が聞いた跡取りとなった二男・惟規の噂は、素 行 が良くなった。
冬真が、話を続ける。
「周りにいる連中も似たようなものさ。遊 び女 をよく邸に入れては宴をしているだの、何処 ぞの姫君と関係しては捨てただの、女 癖 はよくはないと衛府 でも知らぬものはいないほどだ。有綱さまがこれまで火消しに回っていたお陰で大事にはならなかったが」
「となると、式部小丞さまの依頼は子息の女 絡 みか」
「十 中 八 九 、そうだろうさ。引き受けることはないんじゃないのか? 痴 情 のもつれに、陰陽師はいらんだろ」
確かにそれならば、晴明の出る幕はない。
だがあの時――、晴明は微 弱 だが、有綱から妖 気 を察 知 した。今すぐに害になるものではないが、あの妖気は何処で彼に貼り付いたのか。
「冬真、式部小丞さまの邸はどの辺りだ?」
冬真が、胡乱 に眉を寄せる。
「……三条坊門小路 だが?」
晴明は、軽く唇を噛んだ。
この二日前――、天将・騰 蛇 が例の男の気配を掴 んだと報せてきた。結局また見失ったのだが、その場所が三条坊門小路だった。おそらくかの男はまたも何処ぞの者から依頼されて動いているのだろう。だとするならば、今度こそ食い止めねばならない。
夜警に戻る冬真を見送って、晴明は式 盤 を引き寄せた。
◆
「あ……あぁ……」
妻 戸 も蔀 も閉めた室 の中で、かの男は呻 いた。
躯 は鉛 のように重く、嫌な汗が止まらない。
「わたしは……悪く……ない……」
頭を抱 え、躯を丸め、男は繰り返し呟 く。目の前には何か転がっていたが、それが何か彼には認 識 できない。焚 かれている香に意識が何度が飛びかけ、夢なのか現実なのかさえもわからぬ。
「我が背 ……」
女が男に囁 く。
「あ、ぁ……」
「ようやく……、わたくしの夢が叶 いました。あの時の睦 言 を覚えておりましょうや? わたくしを妻にしてくださると。もう離しませんわ」
それは冷たい手だった。その手が男の首筋を撫 で、女の黒髪が男に纏 わり付 いた。
なにゆえ――。
助けを求めたくても、声が出ない。
自分に貼 り付いている女が誰なのかわからない。
「わたし……は……」
男の中で、何かがプツッと切れる音がした。
それがなんだったのか、彼にはもうわからなかった。
なにゆえに、あのバケモノは。
聞こえているか。
気がついているか。
我が思いに。
我が声に。
水を
――ただ、あのかたの
華が一つ咲くたびに、お前の
その
――これが最後だ。
〝彼〟は
◆
そこからは、
異界から降りねば、そうした闇に触れることはなかったかも知れない。と言って、知らぬ振りもできない。また
その男は木の上にいた。
『――まだ怒っているの? 青龍』
太陰を
『俺はお前のようにすましてはおれぬ』
『別に、すましてなんかいないわ。あなたが短気すぎるのよ』
青龍は十二天将の一人だが、人界では東を守護する
『人とは、かくも
他人に対し
『それが、人なのかも知れないわね。みな、心の闇を抱えている。そしてそれと必死に戦っているんだわ。誰も彼も、咎人にはならなくてよ? 青龍』
『
『晴明を含めた全ての人間よ。ただ彼の場合は、違った意味での闇を抱えているみたいだけど』
自分は陰陽師ゆえ――とし、それを
神という名で
青龍が口を開く。
『晴明は、自分では
『人は人が裁く――それは、わかっていることよ? 私たちには手出しできない。晴明が命じない限りはね。でもたぶん晴明は命じないと思うわ。殺せとは』
陰陽師は人を裁く任に
『――ここで
『お前に
青龍はふっと笑って、
『ほんと、可愛げがないんだから……っ』
腰に手を当てむくれる太陰だが、彼女もまた風を
◆◆◆
「息子を救ってくれ……っ」
帝に
晴明は、その男の顔を知っていた。
男は
初めて彼と
その前からも、晴明が通りかかるたびに眉を
それからしばらくして、
「ご
晴明は、彼の息子も知っていた。
今のように内裏の中を進んでいると、数人の
その蛙を射ろと言ったのが、彼の息子・
名前を知ったのはその時に一緒にいた男からの情報で、性格は言うに及ばず、行いも
「式部小丞さま、場所を
「以前の……その……、
必死な有綱に、晴明は肩を落とし「
夜――、
はたして
「――あの
晴明から内裏での話を聞いた冬真は、そう言った。
藤原有綱という男は、
「なぜた?」
晴明の問いに冬真は軽く嘆息し、
「
と言う。
ゆえに、その第一子は元服後すぐに仏門に入られたという。
だが――、晴明が聞いた跡取りとなった二男・惟規の噂は、
冬真が、話を続ける。
「周りにいる連中も似たようなものさ。
「となると、式部小丞さまの依頼は子息の
「
確かにそれならば、晴明の出る幕はない。
だがあの時――、晴明は
「冬真、式部小丞さまの邸はどの辺りだ?」
冬真が、
「……
晴明は、軽く唇を噛んだ。
この二日前――、天将・
夜警に戻る冬真を見送って、晴明は
◆
「あ……あぁ……」
「わたしは……悪く……ない……」
頭を
「我が
女が男に
「あ、ぁ……」
「ようやく……、わたくしの夢が
それは冷たい手だった。その手が男の首筋を
なにゆえ――。
助けを求めたくても、声が出ない。
自分に
「わたし……は……」
男の中で、何かがプツッと切れる音がした。
それがなんだったのか、彼にはもうわからなかった。