第三十一話 壬生邸の輝夜姫
文字数 3,151文字
「……っ」
白煙のように澱 むかの檻 の中で、彼は苦痛に呻 いた。五 臓 六 腑 を冒 す毒が、これでもかと彼に赤黒い血を吐 かせる。
それでも彼は耐えた。そして自分を捕らえた上に躯 を苛 み、屈 服 させようしている男への鬱 憤 がさらに増した。十二天将にして東の闘将、青龍は霧の檻を睨んだ。
十二天将は神に連なる者、従わせようとしている男――叢雲勘岦斉 に、青龍は断じて応じるつもりはなかった。それは既に晴明の式神として就いているというわけではなく、神としての矜 持 である。それに、自分が神になったかのような物言いも癇 に障 った。
――ならば青龍、安倍晴明は十二天将を従えるのに相 応 しい力量か?
勘岦斉の問いに、青龍は唇を噛む。
彼はこれまで、口では晴明を主 とは認めてこなかった。冥 がりに近しい分、いつ沈んでもおかしくはない危うい存在だ。彼が半 妖 ではなく至 って普通の人間で、それなりの能 力 を有 していたら、考え方は違っていたかも知れないが。
おそらくあの問いは、青龍に向けられたものであっても、晴明に対しての問いなのだろう。ならば青龍が囚 われている檻の瓦 解 は、晴明の力量次第ということなのだろう。
――叢雲勘岦斉、この俺を虚仮 にしたことを後悔させくれる……!
青龍は霧の檻を、怒りを込めて睥 睨 した。
◆
――まったくこんな日に、出てこなくていいものを……。
壬 生 大 路 の辻 で晴明は、今まさに一台の牛車を襲おうとしている数匹の鬼を見た。
普段は闇に紛 れていることが多い鬼だが、今 宵 は望 月 。月光によって、姿は完全に晒 されている。やはり王都に立ちこめている瘴 気 は、彼らの感覚さえ蝕 むようだ。
「お願いでございます……っ。中には十 六 夜 姫 が……」
晴明の元に助けを乞 うて来 た舎 人 らしき青年は、そう訴える。
「匂陳、鬼を牛車から引き剥がせ!」
晴明の指示を受けた天将・匂陳が、金 色 の光の刃を放つ。
『ギャア!!』
まるで地獄絵図の獄 卒 のような鬼が、苦 悶 の表情で声を上げた。手応えから見て、叢雲勘岦斉とは無関係だろう。確かに鬼たちも人を喰 らうだろうが、完全に骨にはしない。
この鬼たちの場合は、散々喰い散らかしては他を襲う――、そんな凄 惨 な状態で骸 は発見される。鬼と妖 の違いはあれど、祓 わねばならない。
「オン――」
両手で結 印 し、不 動 明 王 真 言 を唱える。
「ノウマクサマンダバザラダン、センダマカロシャダソワタヤ、ウンタラタカンマン」
青い光が閃 光 し、五 芒 星 が描かれる。
『ギィ……、アゥゥゥゥ……!』
晴明の呪 に捉 えられた鬼は、牙を向き出しにした。
「破 邪 滅 炎 ! 急 急 如 律 令 !!」
光が弾 け、鬼の姿は断 末 魔 の叫びを上げることなく塵 と化 した。
霊符を届けに行くだけが、じつにとんでもない寄り道である。
しかしもだ。気がつけば助けを求めてきた舎人の青年はおろか、十六夜姫を乗せているであろう牛車は立ち去った後だ。
――しかし、十六夜姫とは……、な。
十六夜は、十六日の夜を意味する名前だ。
妙 な偶然に、思わず笑みが漏れる晴明であった。
◆◆◆
観月の宴は、冬馬にとってはやはり、退屈なものだったらしい。
宜 陽 殿 から簀 子 縁 を進んで来た彼は正殿の階 までやってくると、高 欄 に躯 を預けて大 仰 に溜め息をついた。
「まだこれからだというのに、えらい疲れているな? 冬真」
苦笑する晴明を一 瞥 し、冬真は辟 易 した顔で言った。
「愛想笑いを浮かべているだけでも億 劫 だというに、権 中 納 言 ・藤 原 実 光 さまから我が姫はどうかとしつこく迫られたよ……」
「めでたい話だと思うが?」
冬真は晴明と同じ二十五歳、父親である右大臣・藤原有朋でさえ十七歳の時には北 の方 (※正妻)を迎えたというから、結婚は早いほうがいいのかも知れない。
ましてや冬真は、南 家 の総 領 息 子 である。
「こっちにその気がないのにか?丁 重 に断ったさ。妻が欲しけりゃ、自分で探すよ。俺は」
そう言って苦笑する冬真に、晴明はやれやれと肩を落とす。
「右大臣さまが、気の毒になってきたよ……」
つくづく、名門貴族の家に生まれなくて良かったと思う晴明である。
「それより晴明、壬 生 大 路 に輝 夜 姫 がいるというのを知っているか?」
冬真の言葉に、晴明は胡 乱 に眉を寄せる。
「輝夜姫……?」
「宴で話題にのぼってな。零 落 した家の姫だそうだが、かなりの美姫らしい。なにせあの場所は大 学 寮 も近い。連中はかの姫に縁談を持ちかけているそうだが、断り続けているそうだ」
壬生大路といえば昨夜、晴明が鬼を退治した場所である。
聞けばかの姫は、満月を見ては哀 しそうに溜め息をつくのだという。
あの日――、夜 歩 きに出ていた貴族の子 弟 がなんとも香 しい薫 りに惹 かれたという。そこは築 地 塀 ではなく籬 (※竹や柴 などをあらく編んだ垣 根 )で、満月とあって邸 が見えたらしい。さらにそこからは、華 やかな襲 の衣 が垣 間 見 えたらしい。
「――姫、そろそろお休みになりませ」
女房らしき声に、かの姫はゆっくりと中へ消えたという。
あれはまさに、輝夜姫――、彼はそう思ったらしい。
しかし彼が見た姫の姿は胸から下のみ。上は邸の暗がりに紛れていたという。
「――つまり、それが噂となったというわけか」
話を聞き終えて、晴明は冬真に聞き返す。
「わかったのは、そこは橘 家 だったということだ」
「橘家というとあの橘家か?」
橘 氏 はかつては、中宮を輩 出 した家柄で、これまでに七名が公 卿 となったという。その多くは参 議 または中納言止まりであったが、中には大納言まで昇 進 した者もいたらしい。しかし参議在任三日で薨 去 した者を最後として、橘氏公卿は絶え、橘家は零落したようだ。現在の当主は但 馬 守 であった橘 俊 通 である。しかし彼は齢 は八十三、姫は彼の孫だろうか。
しかし驚くべきことは、この後だった。
酉 の正刻 (※午後十八時)を告げる鐘 鼓 が鳴り、大内裏から一条の自 邸 に戻っていた晴明は、文 台 の前で眉を寄せた。
門 扉 を、誰かが叩く音がしたからだ。
「叶 」
晴明の声に、人の子に変化していた妖 狐 ・叶が嬉しそうにふさふさの尻 尾 を揺らす。
「なにか? お師 さま」
「……誰か来たようだ。様子を見てこい。ただし――、尻尾はしまえ」
晴明も元で、妖の術を学べば尻尾の数も増えるといまだに思っている叶は、喜んで出て行き、まもなく戻ってきた。
「橘……なんとかという人間が、お師さまに来いだそうです」
この都に、橘という貴族は橘利通しかいない。
陰陽師を呼ぶとなると、なにか禍 が起きたか、それともこれから起きそうなのか。
晴明邸にやって来たのは本人ではなく、使者だという。
晴明は吉日を選び訪問すると叶に伝え、叶はそれを使者に伝えるために再び室 を出て行った。
あれから――、人の骸 が見つかったという話は聞かなくなった。
禁域の沼から目覚めたという蛟 は、まだ生きている。
叢雲勘岦斉は、いったいなにを考えているのか。
◆
かの姫は、夢を見た。
金 色 の月を背に、男が立つ。
必ず迎 えに行くと男が言う。時が来たら、必ずと。
やがて男の姿はぐにゃりと拉 げて、怖ろしいバケモノになった。
伸ばされる腕に、姫は悲鳴を上げた。
月の夜が怖い。
この身を掠 いに何かがやってくる。
なにゆえ――。
姫にはわからない。
繰り返し見るようになった悪夢。依頼、月を見ては嘆 くようになった。
わからないのはもう一つ、胸に下がる金色の勾 玉 だ。水晶の数 珠 で繋 がれており、幼い頃から姫の首に掛けられてあるという。
姫には、その記憶さえない。
この身は空 、なのになにゆえに、彼らはこの身を欲しがるのか。
ただ一つわかったことは、怖ろしいことがこれから起きること。
これまで以上のことが。
白煙のように
それでも彼は耐えた。そして自分を捕らえた上に
十二天将は神に連なる者、従わせようとしている男――
――ならば青龍、安倍晴明は十二天将を従えるのに
勘岦斉の問いに、青龍は唇を噛む。
彼はこれまで、口では晴明を
おそらくあの問いは、青龍に向けられたものであっても、晴明に対しての問いなのだろう。ならば青龍が
――叢雲勘岦斉、この俺を
青龍は霧の檻を、怒りを込めて
◆
――まったくこんな日に、出てこなくていいものを……。
普段は闇に
「お願いでございます……っ。中には
晴明の元に助けを
「匂陳、鬼を牛車から引き剥がせ!」
晴明の指示を受けた天将・匂陳が、
『ギャア!!』
まるで地獄絵図の
この鬼たちの場合は、散々喰い散らかしては他を襲う――、そんな
「オン――」
両手で
「ノウマクサマンダバザラダン、センダマカロシャダソワタヤ、ウンタラタカンマン」
青い光が
『ギィ……、アゥゥゥゥ……!』
晴明の
「
光が
霊符を届けに行くだけが、じつにとんでもない寄り道である。
しかしもだ。気がつけば助けを求めてきた舎人の青年はおろか、十六夜姫を乗せているであろう牛車は立ち去った後だ。
――しかし、十六夜姫とは……、な。
十六夜は、十六日の夜を意味する名前だ。
◆◆◆
観月の宴は、冬馬にとってはやはり、退屈なものだったらしい。
「まだこれからだというのに、えらい疲れているな? 冬真」
苦笑する晴明を
「愛想笑いを浮かべているだけでも
「めでたい話だと思うが?」
冬真は晴明と同じ二十五歳、父親である右大臣・藤原有朋でさえ十七歳の時には
ましてや冬真は、
「こっちにその気がないのにか?
そう言って苦笑する冬真に、晴明はやれやれと肩を落とす。
「右大臣さまが、気の毒になってきたよ……」
つくづく、名門貴族の家に生まれなくて良かったと思う晴明である。
「それより晴明、
冬真の言葉に、晴明は
「輝夜姫……?」
「宴で話題にのぼってな。
壬生大路といえば昨夜、晴明が鬼を退治した場所である。
聞けばかの姫は、満月を見ては
あの日――、
「――姫、そろそろお休みになりませ」
女房らしき声に、かの姫はゆっくりと中へ消えたという。
あれはまさに、輝夜姫――、彼はそう思ったらしい。
しかし彼が見た姫の姿は胸から下のみ。上は邸の暗がりに紛れていたという。
「――つまり、それが噂となったというわけか」
話を聞き終えて、晴明は冬真に聞き返す。
「わかったのは、そこは
「橘家というとあの橘家か?」
しかし驚くべきことは、この後だった。
「
晴明の声に、人の子に変化していた
「なにか? お
「……誰か来たようだ。様子を見てこい。ただし――、尻尾はしまえ」
晴明も元で、妖の術を学べば尻尾の数も増えるといまだに思っている叶は、喜んで出て行き、まもなく戻ってきた。
「橘……なんとかという人間が、お師さまに来いだそうです」
この都に、橘という貴族は橘利通しかいない。
陰陽師を呼ぶとなると、なにか
晴明邸にやって来たのは本人ではなく、使者だという。
晴明は吉日を選び訪問すると叶に伝え、叶はそれを使者に伝えるために再び
あれから――、人の
禁域の沼から目覚めたという
叢雲勘岦斉は、いったいなにを考えているのか。
◆
かの姫は、夢を見た。
必ず
やがて男の姿はぐにゃりと
伸ばされる腕に、姫は悲鳴を上げた。
月の夜が怖い。
この身を
なにゆえ――。
姫にはわからない。
繰り返し見るようになった悪夢。依頼、月を見ては
わからないのはもう一つ、胸に下がる金色の
姫には、その記憶さえない。
この身は
ただ一つわかったことは、怖ろしいことがこれから起きること。
これまで以上のことが。