第二話 王都に彷徨う魂たち
文字数 3,802文字
ああ、なにゆえ――。
聞け。
なにゆえ、われは。
聞くがいい。我が叫びを、嘆 きを。
お前には聞こえぬのか。
我が哀 しみを、我が怒りを。
聞け。聞け。
我が鬼 哭 の声を。
さぁ――……と、風の音がする。
湿った風とともに、別のなにかが耳に触れた。
青年 は口に運びかけていた土器 から視線をあげ、半 蔀 のほうに目をやった。
「どうした? 晴明」
晴明の目の前で、同じく土器を口に運んでいた男――、藤 原 冬 真 がひとつ瞬 きをした。
「いま――、誰かの声がしなかったか?」
「いや、風の音じゃないのか?」
耳を澄 ましてみたが、冬真の言うとおり、風の音しか聞こえては来なかった。
晴明に聞こえたそれは、確かに〝声〟というよりも、〝音に〟近い。
時刻は酉 の正刻 (※午後十八時)。
一条大路は一条戻橋近 く、そこに晴明 の邸 はある。この日は、数年前にある事件で知り合って以来の仲、藤原冬真がやって来ていた。
水 無 月 (※六月)――。
長 雨 の時 季 に入ると、心まで薄雲が覆ったように鬱 々 とした気分になる。妻 戸 も開いているというのに、湿気と盆 地 特 有 の暑さに狩 衣 は着ていられず、烏 帽 子 も外した晴明であった。
対し冬真は紗 綾 形 文 様 の直 垂 と、彼は最初から冠 などは被っては来なかった。
本来は常に烏帽子を着用するのが成人男性の身 嗜 みだが、冬真は名門貴族の息子であるにも関わらず、そうした常識にはとらわれたくないらしい。
大内裏では左 近 衛 府 中将 であり、藤 原 南 家 の次期当主。ただ性格は、少々がさつではあるが。
今や、飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原一門。
藤原四兄弟を祖 として、四 家 に分かれた藤原家は、現在は関白・藤 原 頼 房 を当主とする嫡 流 の北 家 、冬真の父にして右大臣・藤 原 兼 久 を当 主 とする傍 流 の南 家 となったが、この間に枝 分 かれしていた者を含めれば、都を歩けば藤原なにがしという人に当たるというほど、藤原姓は多いだろう。
晴明は己と冬真の関係に、おかしな取り合わせだと自 嘲 的 に嗤 った。
かたや名門貴族の息子、かたや妖 の血を引きながら陰陽師に就いている自分。油断すれば冥 がりに沈む身だというのに――。
冥がりは心に宿した闇、人に非 ざるモノが棲む世界。両者は違うようで、ある日突然結びつく。ただ晴明の場合は、妖 の血を半分引いているために混ざってしまったが。
冬真はそんなものは気にしないというが、妖という存在を忌 み嫌 う人間はほとんどである。子供の頃は自分は人間だと言っても、周りの人間たちは信じてはくれなかった。
いつか人を喰 らう化 生 になる――と、思っているらしい。
さすがに現在 は、そうした奇 異 の目 と蔑 みの声は受け流す余裕は出来たが。
そんな自分が、こうして人と酒を呑み交わしているのだ。これが、嗤わずにいられるだろうか。
「また誰か死ぬと思うか?」
唐 突 に話を冬真に振られ、晴明は胡 乱 に目を細めた。
「酒の肴 に、血 生 臭 い話か?」
「そう思うのは俺だけじゃないと思うぞ? 王都の真ん中で髑髏 が転がっているんだ。そのうち、穢 れの都になるってな」
晴明は顔を顰 めた。
王都に髑髏が転がっている――、冬真の話は冗 談 ではない。現実に起きていることなのだ。何者に喰 われ、骨だけにされる――、そんな怪 死 が。
晴明は、蛙 の化 生 のことを思い出していた。
彼が棲む池の畔 で、蛟 が人を喰っていたという。
王都で人を骸にしたのは、その蛟なのだろうか。だが何故か、人を喰ったであろうモノを誰も見てはいないという。見たのは蛙の化生だけだ。
「そういえばお前、関白さまに呼ばれたそうじゃないか?藤 壺 の件か?」
「ああ……」
関白・藤原頼房の命 は、内裏を彷徨 く幽鬼を確かめて祓えというもの。
「お前を呼んだと云うことは、よほど痛くもない腹を探られたくないらしいな」
冬真がそう言って、笑みを零 した。
◆◆◆
藤壺は後宮にある殿舎 の一つ、飛香舎 の別名である。
七年前――、今 上 帝 の第一皇子が病にて亡くなったという。これにより、弟 宮 である第二皇子が東 宮 宣 下 を受けた。
問題は亡くなった第一皇子の生 母 が弘 徽 殿 の中 宮 でなく藤壺の女 御 であり、彼女もまた病で没し、皇子が亡くなったことで呪 詛 だったのではないかとされたためだ。
呪詛をしたのは、孫を次 期 帝 に据えたい頼房ではないか――、第一皇子の乳母 であり、藤壺に仕えていた内 侍 (※女官の位)がそう叫んでいたという。
本当のところはどうだったのか――、口にしないまでも、現 在 もそう噂 が残っているらしい。頼房としては、自ら疑いを晴らすために動けば「やはりそうだったのか」と思われたくなかったようだ。
――だから、私か。
冬真の話を聞いていて、晴明は納得した。
いつもは帝を誑 かしているだの、異 能 で権力を得ようとしているだの言ってくる彼が、なにゆえ今回だけは調べろと言ってきたのか、晴明なら他 の廷 臣 たちに怪 しまれずに始末してくれるだろうと踏んだようだ。
晴明は帝を誑かしてはいないし、権力を得ようとも思わない。
もともと地 下 という昇 殿 (※内裏に上がれる立場)できる身分ではなかったのだ。晴明としてはそのままでも良かったのだが、功 績 を認められ、あれよというまに従 四 位 までになった。位 を返せというのなら、いつでも返すつもりの晴明である。
山 雨 来 たらんと欲 して風 桜 に満 つ――。
何かが起こる前は、前 兆 が現れるというその詩 の如 く、王都で怪 異 が起き、内裏に幽鬼が彷 徨 う。はたらしてどちらが先だったのかは不明だが。
(夏 越 しの祓 えが近いというに……)
夏越しの祓えとは、罪や穢れを除 き去る朝廷での行事である。
「いつも思うが――」
冬真が笑みを浮かべる。
「なんだ?」
「陰陽師とは大変だなと思ってな」
「思っていたら、仕事の邪魔はせんと思うが?」
半 眼 で言い返した晴明に、冬真は「邪魔をしたつもりはないんだが」と答える。
冬真がやって来たとき、晴明は貴族たちから依頼された霊 符 を片付けようと筆をとった所だったのである。帰れと言っても冬真は終わるまで待つといい、背後で待たれてもである。これのどこが、邪魔をしたことにならないのか。
◆◆◆
貴 船 から王都に向かう道を、牛車が進んでいた。
昨夜に降った雨のせいで道は泥 濘 み、乗っている人間のほうも楽ではなかった。
湿気と蒸し暑さ、贅 をこらした直 衣 を纏 っているせいで暑いこの上ない。開いた蝙 蝠 扇 で扇 ぐも、一向に涼しくはならない。
「まったく、まだ邸に着かぬのか……!?」
イライラをぶちまける男に、牛 飼 い童 が申し訳なさげに伝えてくる。
「車輪が泥濘みにはまった様子……、しばらくお待ちを」
「早く致せ!」
憤 然 と座り直した男の前に、それはいた。
「なにゆえ、こんなモノが……」
それはシュルシュルと床を這い、男の前で鎌 首 をもたげた。
なにゆえ――。
男は虚 しく昊 を見上げていた。
さっきまで、己が乗っていた牛車の音が遠ざかっていく。
ああ、なにゆえわたしはここにいるのか。
なにゆえ、誰も聞こえぬのか。
なにゆえ――。
◆
人がまた一人死んだ。
蛟 に喰われて骨になった。
骨の側に青い彼岸花。
それは、嘆き悲しむ魂 魄 が咲かせる華 。
なにゆえに、聞こえない。
なにゆえに、消えねばならぬ。
さぁ、聞くがいい。
答えよ。
我が問いに。我が嘆 きに。
風の乗るその声に、木の枝 にいた彼女は胡 乱 に眉を寄せた。
声の主はいったい誰なのか。
そんな彼女の前に、ふっと神気 がひとつ降りた。
『珍しいこともあるものね? 青龍。あなたが降りてくるなんて』
その男は素 肌 に肩 当 てをつけ、腕に領 巾 を絡 ませた姿 で顕 現 した。
『あの声、お前にも聞こえていただろう。太 陰 』
『人が蛟に喰われたって言っていたわね。でも変だわ。妖 が出たのなら、晴明が私たちに何かしら言ってくる筈 だもの』
二人は、晴明が使 役 する式 神 であった。
しかし、青龍の晴明に対する反応は厳しい。
『あの阿 呆 に肩 入 れするのは結構なことだが、奴 は冥 がりに半分染まった男だ。いつなんどき陥 ちるか知れぬ』
晴明は人間と妖の両方の血を引く半妖――。
そのことは当初からわかっていた筈である。
納得の上で、式神となった。
『相変わらず、晴明には厳しいわね。でも青龍、彼は私たち十 二 天 将 の主 よ』
青龍は青い髪に青い双 眸 をしているが、太陰は赤い髪に朱色の双眸をもつ。腰まで緩く波打って流れる髪を掻 き上げて、太陰は青龍を見据えた。
『奴が冥がりに陥ちぬと? まぁいい。その時は主たる器なしとみるまで』
言いたいことをいって隠 形 する青龍に呆 れ、太陰は溜 息 をついた。
十二天将は神――、普通なら異界にいて人 界 に降りることも人間に力を貸すこともない。
数年前――安倍晴明が、彼ら一人一人を訪ねにやって来る前までは。
太陰は、再び視線を前に戻した。
もうあの声は、聞こえては来なかった。
あれは、誰が誰に対しての声だったのか。
聞け。聞け。
我が声を聞け。
お前になら聞こえるはずだ。
さぁ、答えよ。
なにゆえなのか、そのわけを。
太陰は神力 を尽 くして探ってみたが、その声の主は見つけることはできなかった。
もし本当に人が喰われたのなら、じっとしてはいられないのだが。
声も聞こえなくなった今ではどうしようもなく、太陰は一人、風に吹かれていた。
聞け。
なにゆえ、われは。
聞くがいい。我が叫びを、
お前には聞こえぬのか。
我が
聞け。聞け。
我が
さぁ――……と、風の音がする。
湿った風とともに、別のなにかが耳に触れた。
「どうした? 晴明」
晴明の目の前で、同じく土器を口に運んでいた男――、
「いま――、誰かの声がしなかったか?」
「いや、風の音じゃないのか?」
耳を
晴明に聞こえたそれは、確かに〝声〟というよりも、〝音に〟近い。
時刻は
一条大路は
対し冬真は
本来は常に烏帽子を着用するのが成人男性の
大内裏では
今や、飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原一門。
藤原四兄弟を
晴明は己と冬真の関係に、おかしな取り合わせだと
かたや名門貴族の息子、かたや
冥がりは心に宿した闇、人に
冬真はそんなものは気にしないというが、妖という存在を
いつか人を
さすがに
そんな自分が、こうして人と酒を呑み交わしているのだ。これが、嗤わずにいられるだろうか。
「また誰か死ぬと思うか?」
「酒の
「そう思うのは俺だけじゃないと思うぞ? 王都の真ん中で
晴明は顔を
王都に髑髏が転がっている――、冬真の話は
晴明は、
彼が棲む池の
王都で人を骸にしたのは、その蛟なのだろうか。だが何故か、人を喰ったであろうモノを誰も見てはいないという。見たのは蛙の化生だけだ。
「そういえばお前、関白さまに呼ばれたそうじゃないか?
「ああ……」
関白・藤原頼房の
「お前を呼んだと云うことは、よほど痛くもない腹を探られたくないらしいな」
冬真がそう言って、笑みを
◆◆◆
藤壺は後宮にある
七年前――、
問題は亡くなった第一皇子の
呪詛をしたのは、孫を
本当のところはどうだったのか――、口にしないまでも、
――だから、私か。
冬真の話を聞いていて、晴明は納得した。
いつもは帝を
晴明は帝を誑かしてはいないし、権力を得ようとも思わない。
もともと
何かが起こる前は、
(
夏越しの祓えとは、罪や穢れを
「いつも思うが――」
冬真が笑みを浮かべる。
「なんだ?」
「陰陽師とは大変だなと思ってな」
「思っていたら、仕事の邪魔はせんと思うが?」
冬真がやって来たとき、晴明は貴族たちから依頼された
◆◆◆
昨夜に降った雨のせいで道は
湿気と蒸し暑さ、
「まったく、まだ邸に着かぬのか……!?」
イライラをぶちまける男に、
「車輪が泥濘みにはまった様子……、しばらくお待ちを」
「早く致せ!」
「なにゆえ、こんなモノが……」
それはシュルシュルと床を這い、男の前で
なにゆえ――。
男は
さっきまで、己が乗っていた牛車の音が遠ざかっていく。
ああ、なにゆえわたしはここにいるのか。
なにゆえ、誰も聞こえぬのか。
なにゆえ――。
◆
人がまた一人死んだ。
骨の側に青い彼岸花。
それは、嘆き悲しむ
なにゆえに、聞こえない。
なにゆえに、消えねばならぬ。
さぁ、聞くがいい。
答えよ。
我が問いに。我が
風の乗るその声に、木の
声の主はいったい誰なのか。
そんな彼女の前に、ふっと
『珍しいこともあるものね? 青龍。あなたが降りてくるなんて』
その男は
『あの声、お前にも聞こえていただろう。
『人が蛟に喰われたって言っていたわね。でも変だわ。
二人は、晴明が
しかし、青龍の晴明に対する反応は厳しい。
『あの
晴明は人間と妖の両方の血を引く半妖――。
そのことは当初からわかっていた筈である。
納得の上で、式神となった。
『相変わらず、晴明には厳しいわね。でも青龍、彼は私たち
青龍は青い髪に青い
『奴が冥がりに陥ちぬと? まぁいい。その時は主たる器なしとみるまで』
言いたいことをいって
十二天将は神――、普通なら異界にいて
数年前――安倍晴明が、彼ら一人一人を訪ねにやって来る前までは。
太陰は、再び視線を前に戻した。
もうあの声は、聞こえては来なかった。
あれは、誰が誰に対しての声だったのか。
聞け。聞け。
我が声を聞け。
お前になら聞こえるはずだ。
さぁ、答えよ。
なにゆえなのか、そのわけを。
太陰は
もし本当に人が喰われたのなら、じっとしてはいられないのだが。
声も聞こえなくなった今ではどうしようもなく、太陰は一人、風に吹かれていた。