第五話 弘徽殿の中宮
文字数 4,324文字
「まったく……」
左 近 衛 府 の官 舎 にて、かの男は不 貞 腐 れていた。
黒地に輪 無 唐 草 紋 が浮き彫りされた闕腋袍 (※従四位の武官服)に身を包み、片 肘 をどんっと文 台 に置いた彼は、そこに顎 をのせて眉を寄せる。
お陰 で積まれていた書の山が崩れ、派手な音を立てて床 に落下していく。
「おい、冬真。筆を止めるなよ。終わらなくなるぞ」
そう冬真を注意したのは、左近衛府のもう一人の中 将 ・九 条 義 隆 である。
「どこのどいつか知らんが、任 務 怠 慢 にもほどがある!」
冬真の乱暴な仕草によって目の前の視界は開 けたが、書の山は周りに幾 つもある。どれもこれまで大内裏での警備の記録、起きた事件の詳細など記されたものだが、そろそろ新しいものにまとめねばと思っているうちに、たまりにたまったらしい。お陰で下級武官を総動員しても終わらず、左 近 衛 中 将 である冬真たちまで手伝う羽目になった。
もともとじっとしていることが嫌いな冬真は、数冊片付けて音 を上げた。
「惰 眠 を貪 っていたお前がいうなよ……」
なんでも冬真は、何度か船を漕 いでいたらしい。
幸い、それを咎 める左近衛府の長官である大 将 はこの場にいない。
「げっ……」
視線を落とした冬真は、自分が担当していた書を見て吃驚 した。
墨 の線がまっすぐ伸びたかと思えば右に折れ、更に左、斜めと、それは文字というよりも、何かの生き物に近い。
わかったのは、それを最初から書き直すことになったということだ。
冬真がようやく筆を走らせてしばらく、義隆が徐 に口を開いた。
「そういえば、四条の辻にまた遺骸 が転がっていたらしい」
「次から次へと、よくもまぁ事件が続くもんだ」
「感心している場合じゃないぞ。そんな状態にされたほうはどうなるとおもう?道端 では往生 できまい?」
「つまり、怨 霊 として祟 るのではと?」
「ああ。現 に、藤 壺 にいるだろ?」
藤壺の女御は道端に置かれず、墓の中だが――と突っ込むのをやめて、冬真は眉を寄せた。
「かの女 御 が、祟りに現れているというのか?」
「皆 、公 然 と口にはしないが、――お前も気をつけろよ」
義隆が、冬真に気をつけろと言ったのは「お前も藤原一門」だかららしい。
まさか藤 原 姓 全 てを祟るとは思えなかったが、飛 香 舎 の前 主 ・藤壺の女御は関 白 父 娘 に呪 詛 され、この子・第 一 宮 も呪詛されたと当時は密 かに噂になったという。
確かに関白にすれば、第一皇子が東 宮 宣 下 を受けて次 期 帝 となると、外 祖 父 となる関白 の目 論 見 は外れていただろう。しかも、子を産んだ藤壺の女御は藤原の血筋ではない。
(あの関白さまならやりかねないが、中 宮 さまはどうだろう)
中宮・藤 原 瞳 子 は薫 橘 の君 と呼ばれるほどの美女だ。
性格は父親の関白・頼房に似ず優しく、帝 が恋に走っても嫉 妬 するような女人ではないという。しかしこの噂について、頼房は否定しているらしい。
こうなると忙しくなるのは、近衛府ではなく陰 陽 寮 であろう。
(また晴明 に、美味い酒でも持っていくか……)
冬真はそう思いつつ、筆を走らせた。
◆
温 明 殿 ・内 侍 所 では、女房たちが揉 めていた。
「あなたがいきなさいよ!」
「いやよ! あなたのほうがいきなさいよ!」
行く行かないで揉める彼女たちに、藤 原 菖 蒲 は肩を落とし嘆 息 した。
「いったい、なにがあったんですの?」
「若 菖 蒲 の君 ……」
(その呼び方はやめて欲しいんだけど……)
端 午 の節 会 生まれの勝ち気な姫――という意味でついた異 称 に、菖蒲 は辟 易 していた。
「ここでは――」
苦笑すると、女房たちは畏 まった。
「申し訳ございません……、藤 典 侍 さま」
菖蒲の地位・典 侍 は内侍所では内 侍 の下、藤原姓のため「藤」を冠 して藤典侍と呼ばれている。
聞けば、弘 徽 殿 の中宮・瞳 子 が呼んでいるという。弘徽殿担当の女房が里に下がったため、呼ばれれば誰かが行かなくてはならない。
中宮と従姉妹 である藤 内 侍 ・藤 原 章 子 が行けばいいと思うが、彼女曰 く、内侍所の長 が離れぬわけにはいかぬ――と言ったらしい。 彼女たちが弘徽殿で行きたがらないその理 由 は、一 月 前 まで遡 る。
当時、中宮は雀 を飼っていた。その雀がある日、籠 から消えた。恐らく、女房の誰かが餌 をやろうと籠を開け、そのうちに逃げられてしまったのだろう。逃がした者を捕まえると、頭 中 将 が言っているという。
(また、面 倒 な人物が……)
頭中将・藤 原 冬 房 ――、右 近 衛 府 の中将にして、蔵 人 頭 。さらに、関白・藤原頼房の次男となれば、いずれはである。いつも人好きのする顔をしているが、時折見せる冷ややかな笑みに、さすが父 子 と思ってしまう菖蒲である。
つまり、弘徽殿に行くと頭中将が待っていて、責められるのではないかと彼女たちは思っているらしい。
結局――。
「やっぱり、こうなるのよねぇ……」
弘徽殿に向かう簀 子 縁 にて、菖蒲は上 目 遣 いで嘆 く。
彼女たちからさっさっと離れればよかったものを、苦手とする藤内侍に呼ばれてしまった。しかも藤典侍ではなく、敢えて若菖蒲の君と呼んでくること自 体 、怪 しい。
案 の定 、菖蒲が弘徽殿に行かされることになった。
弘徽殿の廂 の前で入室の許可を得た彼女は、思わず飛び退 くという失 態 をやらかしかけた。 中宮・瞳子といたのは頭中将ではなかったが――。
「やぁ、いつぞやはすまなかったねぇ」
白地に浮 線 綾 文 文 様 の直 衣 姿 で、かの人物は微 笑 んだ。
檜 扇 越 しに、瞳子が彼に視線を送っているが、かの人物も菖蒲もいえるわけがない。
かたや、他の女人の元に向かう途中で、かたやその男を幽鬼扱いした挙 げ句 、薙 刀 を振り下ろしました、などとは。
中宮といたのは、今 上 帝 だったのである。
◆◆◆
日差しが注ぐ弘徽殿――、菖蒲からすれば滅 多 に来られない殿舎だが、この時ばかりは「即、帰りたい」と思ってしまう。
いや、帝に刃を振り下ろした不 敬 を働いたのだ。厳 罰 が下るかもしれない。
そもそもあの時――、幽鬼を退治してやろうと思ったのが災 いした。
そんな菖蒲に比べれば、中宮・瞳子の装 いは白から蘇 芳 へ移 ろう撫 子 の襲 に深 緋 の唐 衣 、波打つ黒髪がさらに美しく映 えさせる。彼女は決して、薙刀など振り回したりはしないだろう。
しかしなぜか呼び出した人間 を蚊 帳 の外 に置いて、今上帝と中宮の舌 戦 が始まった。
「主上 が、かの者とお知り合いとは、相変わらずお手が早いこと」
「中宮……、まるでわたしが盛 りの付いた雄 猫 のような言い方だな……」
「似たようなものですわ、手を出すのなら、内侍所ではなく他の殿舎になさいませ。世話をしてくれるものがいなくなりましてよ? 主上」
美しい花には何とかというが、瞳子はかなりの棘を持っていたようだ。顔に似合わず、言葉は辛 辣 である。やはりあの関白の血筋と思ったが、関白・藤原頼房でも帝に対して、こうも嫌 味 は言わないだろう。確かに、菖蒲と出会った時でさえ帝は恋に走っている最中だったのだから、浮気されるほうとしては、嫌味を言いたくなるだろう。
しかし、嫉 妬 しているかいないのか、手を出しすぎと窘 めておきながら、他の殿舎ならお構 いまくという中宮・瞳子に、菖蒲は驚 嘆 した。
「あの……中宮さま……」
「あら、なぁに? 藤典侍」
「主上とはその……」
まさか薙刀で襲いかかりましたとはいえず、菖蒲は困 窮 した。
「そうだ中宮、彼女には手は出しておらぬ」
「あら、そうですの。前の内侍のこともあり、てっきりそうかと」
(なるほどね……)
最近まで瞳子の世話をし里に下がったという内侍――、恐らく帝の手がついたのだろう。
歴代の帝の中には、内侍との間に宮 (※帝の子)を儲 けた御 仁 もいたという。
帝は何かを言いかけて、半開きの蝙 蝠 扇 でその口を隠した。
それから妙な間 があき、帝が咳 払 いをした。
「どうだろうか? 中宮。彼女をそなたの新しい側 仕 えとするのは」
(はい?)
とんでもないことを言い出す帝に、菖蒲は唖 然 とした。
確かにあの藤内侍から離れられるのいいことだが。
「それはいいですわね? 主上」
すっかりその気の二人に、菖蒲は全力で辞 退 した。
これまで多少の失敗は許されてきたが、中宮の側 となるとそうもいくまい。なにしろ雀の件で頭中将が犯人を捜しますなどと言っているくらいである。
どんな罰が与えられるかはわからないが、〝上品〟という言葉から離れている自分が、なにをしでかすか怖い。すると中宮・瞳子が話の矛 先 を菖蒲に向けた。
「藤内侍、あなたの武 勇 伝 は聞きましてよ? あの藤原冬真どのと、泥 棒 を追い払ったんですって?」
(誰よ? そんな話を中宮さまに吹き込んだのは……)
恐らく、藤内侍・章子だろう。
忙しいと言いながら、よくも半月前の事を覚えているものである。
半月前――藤 原 南 家 は右大臣家に、賊 が入った。
右大臣の息子は近衛府中将、よくもまぁそんな男が住んでいる邸 にやってきたものだが、その日は菖蒲もやって来ていた。
菖蒲の邸は右大臣邸から少し行った所にあり、叔 父 と姪 という間 柄 ということもあって、右大臣邸は我邸 も同然であった。
賊はなんと、屋根から菖蒲が眠る北の対 屋 にやって来た。本来なら当 主 の正 妻 である北 の方 が暮らす場所だが、右大臣の北の方はとうに他 界 し、現在は菖蒲が訪ねてくると寝所となった。さて賊だが、菖蒲も驚いたが賊も驚いたようだ。
菖蒲は悲鳴も上げず、賊を睨んだのだから無理はない。
そのあとは、菖蒲は思い出すも恥ずかしい。
ただ、従兄 である冬真 に「お前が可愛らしい姫でなくてよかったよ」と言われたが。
確かに、その時は今のように女房装束ではなく、緋 袴 に五 つ衣 という小袿姿 だったが、檜 扇 で男の顔を叩 き、足を引っかけて転ばす姫は菖蒲ぐらいだろう。
いくらここでは存 分 に暴 れてもいいと帝と瞳子に言われてもである。では遠 慮 なく、とはいかないだろう。
「ですが……中宮さま……」
言い募 る菖蒲の言葉を、またも帝が遮 った。
「藤内侍、例の幽鬼の件、存じていよう? もしアレが中宮を呪っているのならば、守って欲しいのだ」
「はぁ……」
気が重いが、帝に言われてしまっては嫌とはいえない。
「そういえば、主上。安倍晴明どのにも今回の件を依頼されたとか?」
「わたしとしては、アレが藤壺 でなく、さらに、そなたたちを祟るモノではないと祈りたいのだよ」
帝の言う〝そなたたち〟の中には、関白も含まれているのだろう。
「主上、わたしも父も、藤壺さまと宮を呪詛などしておりませんわ」
まっすぐと帝を見据える瞳子の目は、偽りを言っているようには菖蒲には見えなかった。
黒地に
お
「おい、冬真。筆を止めるなよ。終わらなくなるぞ」
そう冬真を注意したのは、左近衛府のもう一人の
「どこのどいつか知らんが、
冬真の乱暴な仕草によって目の前の視界は
もともとじっとしていることが嫌いな冬真は、数冊片付けて
「
なんでも冬真は、何度か船を
幸い、それを
「げっ……」
視線を落とした冬真は、自分が担当していた書を見て
わかったのは、それを最初から書き直すことになったということだ。
冬真がようやく筆を走らせてしばらく、義隆が
「そういえば、四条の辻にまた
「次から次へと、よくもまぁ事件が続くもんだ」
「感心している場合じゃないぞ。そんな状態にされたほうはどうなるとおもう?
「つまり、
「ああ。
藤壺の女御は道端に置かれず、墓の中だが――と突っ込むのをやめて、冬真は眉を寄せた。
「かの
「
義隆が、冬真に気をつけろと言ったのは「お前も藤原一門」だかららしい。
まさか
確かに関白にすれば、第一皇子が
(あの関白さまならやりかねないが、
中宮・
性格は父親の関白・頼房に似ず優しく、
こうなると忙しくなるのは、近衛府ではなく
(また
冬真はそう思いつつ、筆を走らせた。
◆
「あなたがいきなさいよ!」
「いやよ! あなたのほうがいきなさいよ!」
行く行かないで揉める彼女たちに、
「いったい、なにがあったんですの?」
「
(その呼び方はやめて欲しいんだけど……)
「ここでは――」
苦笑すると、女房たちは
「申し訳ございません……、
菖蒲の地位・
聞けば、
中宮と
当時、中宮は
(また、
頭中将・
つまり、弘徽殿に行くと頭中将が待っていて、責められるのではないかと彼女たちは思っているらしい。
結局――。
「やっぱり、こうなるのよねぇ……」
弘徽殿に向かう
彼女たちからさっさっと離れればよかったものを、苦手とする藤内侍に呼ばれてしまった。しかも藤典侍ではなく、敢えて若菖蒲の君と呼んでくること
弘徽殿の
「やぁ、いつぞやはすまなかったねぇ」
白地に
かたや、他の女人の元に向かう途中で、かたやその男を幽鬼扱いした
中宮といたのは、
◆◆◆
日差しが注ぐ弘徽殿――、菖蒲からすれば
いや、帝に刃を振り下ろした
そもそもあの時――、幽鬼を退治してやろうと思ったのが
そんな菖蒲に比べれば、中宮・瞳子の
しかしなぜか呼び出した
「
「中宮……、まるでわたしが
「似たようなものですわ、手を出すのなら、内侍所ではなく他の殿舎になさいませ。世話をしてくれるものがいなくなりましてよ? 主上」
美しい花には何とかというが、瞳子はかなりの棘を持っていたようだ。顔に似合わず、言葉は
しかし、
「あの……中宮さま……」
「あら、なぁに? 藤典侍」
「主上とはその……」
まさか薙刀で襲いかかりましたとはいえず、菖蒲は
「そうだ中宮、彼女には手は出しておらぬ」
「あら、そうですの。前の内侍のこともあり、てっきりそうかと」
(なるほどね……)
最近まで瞳子の世話をし里に下がったという内侍――、恐らく帝の手がついたのだろう。
歴代の帝の中には、内侍との間に
帝は何かを言いかけて、半開きの
それから妙な
「どうだろうか? 中宮。彼女をそなたの新しい
(はい?)
とんでもないことを言い出す帝に、菖蒲は
確かにあの藤内侍から離れられるのいいことだが。
「それはいいですわね? 主上」
すっかりその気の二人に、菖蒲は全力で
これまで多少の失敗は許されてきたが、中宮の
どんな罰が与えられるかはわからないが、〝上品〟という言葉から離れている自分が、なにをしでかすか怖い。すると中宮・瞳子が話の
「藤内侍、あなたの
(誰よ? そんな話を中宮さまに吹き込んだのは……)
恐らく、藤内侍・章子だろう。
忙しいと言いながら、よくも半月前の事を覚えているものである。
半月前――
右大臣の息子は近衛府中将、よくもまぁそんな男が住んでいる
菖蒲の邸は右大臣邸から少し行った所にあり、
賊はなんと、屋根から菖蒲が眠る北の
菖蒲は悲鳴も上げず、賊を睨んだのだから無理はない。
そのあとは、菖蒲は思い出すも恥ずかしい。
ただ、
確かに、その時は今のように女房装束ではなく、
いくらここでは
「ですが……中宮さま……」
言い
「藤内侍、例の幽鬼の件、存じていよう? もしアレが中宮を呪っているのならば、守って欲しいのだ」
「はぁ……」
気が重いが、帝に言われてしまっては嫌とはいえない。
「そういえば、主上。安倍晴明どのにも今回の件を依頼されたとか?」
「わたしとしては、アレが
帝の言う〝そなたたち〟の中には、関白も含まれているのだろう。
「主上、わたしも父も、藤壺さまと宮を呪詛などしておりませんわ」
まっすぐと帝を見据える瞳子の目は、偽りを言っているようには菖蒲には見えなかった。