第二十六話 羅城門の鬼、再び! ②
文字数 3,193文字
彼は飢 えていた。
今や何に対して飢えているのかさえわからぬ。
野を彷 徨 い、獣 肉 を捕らえ、それでも飢えは止まらぬ。
ああ、もっと。
ならば、お前の飢えを満たしてやろう。
誰かがそう言った。
ああ、これでこの苦しみが止まる。
もう二度と、飢えずにすむのだ。
◇
その鬼は、ゆっくりと間合いを詰めてきた。
近頃、都に現れ人を喰 っているという鬼――、その鬼を炙 り出すというやや無謀で、危険極まりない囮 作 戦 は成功したが、本来ならばここで――。
(おいおいおい、晴明。まさか、こいつを俺一人でなんとかしろ――とは言わないだろうな?)
冬真は太 刀 を構え、頭の中ではそんなことを思っていた。
彼の側には従 妹 ・菖 蒲 が乗る牛車がある。牛車を引く牛を導いていた牛 飼 い童 たちは、鬼が出るや築 地 塀 で固まり震えている。
いくら近衛府武官の冬真でも、鬼など異界の存在は相手にしたことがない。なにしろ、大内裏・陽 明 門 守 衛 と内裏の警 固 、あとは左近衛府内での書の整理などが彼の主たる任務である。大内裏の外に仕事で出るのは帝の行 幸 か、たまに検 非 違 使 に駆り出されるぐらいだ。
自信がないというより、果たして人間の武器が、鬼のような異界の存在に通じるのか心配だった。もしそれが効かないとなると、どうなるか想像するのも怖い。
『人間……赦 サヌ』
鬼は飛び上がり、冬真の上で腕を振り下ろした。
――キン。
冬真の握る剣が、鬼を弾き返す。
(なるほどな。要 は、時間を稼 げってか?)
囮 策 を考えた晴明の顔を再び脳裏に描き、冬真は口角をにっと上げる。
彼が握る太刀は、本来は彼のものではなかった。
降 魔 の太刀といい、晴明から渡されたものである。斃 すことは出来なくとも、都に仇 なすモノに傷を負わせることなら、冬真にも可能だ。
(信頼されてるのか、いないんだか……)
晴明の事を思った冬真は、太刀を握り直し、正 眼 に構えた。
その晴明は、錫 杖 を手に五条大路へ向かっていた。
晴明邸がある一条大路から五条大路へは、一 路 南 下 するだけでいい。徒 歩 でもさほどの距離でもないのだが、目の前を塞 ぐように何かが這 い出てきた。
「邪魔はさせない……、ということか?」
敵も然 る者――、晴明を封じる策に出たらしい。
こんなことができるのは、やはりあの男――、叢雲勘岦斉 。
晴明の前に現れたのは、無数の蜘蛛 だ。
糸を吐 く蜘蛛に、晴明は瞬時に結 印 した。
「オン、アミリトド、ハンバウンパッタ、ソワカ」
晴明の真言に、半数が塵になった。しかし蜘蛛は、さらに倍となって這い出てくる。
「いい加減にしろ! こんなことをして、何の意味がある!? 叢雲勘岦斉」
彼の怒号に、男からの返事はない。晴明は印を組み替え、唱える。
「請 願 し奉 る」
五 芒 星 の刻まれた呪札 を引き抜き、錫杖を天に突き上げる。
「十 二 天 将 招 喚 、我が意に応えよ」
掲げた錫杖の先で、遊輪 がしゃんっと鳴る。
顕 現 したのは、騰 蛇 である。
『ふん、蛆 虫 どもめ』
さすが騰蛇が相手となると、蜘蛛の反応は違った。さっと後退し、騰蛇の攻撃範囲を読んだ如 く散っていく。だが、騰蛇が放つ水 流 壁 と呼ばれる攻撃は、そんな彼らを絡 め取った。或 るモノは串 刺 しにされ、或るモノは自身の糸に侵 され、また或るモノは手足をもがれている。それでも蜘蛛はまだ減らない。
自滅した一部を見れば、どうやら蜘蛛の糸には毒があるらしい。騰蛇なら痛くも痒 くもないだろうが、晴明にすれば浴びれば間違いなく死に至る。
晴明は新たに印を組み替える。
「ノウマクサンマンダバサラダン、センダンマカロシャダソハタヤウンタラタ、カンマン」
残りの蜘蛛たちは、晴明の真言に縛られる。そして――。
「臨 ・兵 ・闘 ・者 ・皆 ・陣 ・列 ・在 ・前 !!」
刀 印 に組み替え九 字 を切ると、蜘蛛は一 斉 に拉 げて四散した。
だが戦いはこれからだ。
「騰蛇、五条大路へ先に行け!」
晴明の指示に、天将・騰蛇は何かいいたげな表情をしていたが、そのまま隠 形 した。
◆◆◆
内裏の奥、いわゆる後宮と称 されるその一つの殿 舎 にて、今 上 帝 は庭を眺めていた。 普段は清涼殿・夜の御 殿 (※帝の寝所)で夜を過ごす彼が、後宮に渡れば女性たちは喜 々 として身を磨きにかかるが、向かった先が弘 徽 殿 と知ると残念そうに溜め息をつくという。
なにしろ、帝の寵 愛 を得ることは家の繁 栄 にも繋 がる。
藤 原 北 家 がいい例である。関白・藤原頼房の娘は中宮となり、東宮の母にして国 母 、そして頼房は外 祖 父 となった。
弘徽殿の庭には牡丹が植えられているが、今はその時季でなく、この夜は月も出てはいない。熱を孕んだ風がたまに吹いては御簾や几帳を揺らし、さすがの今上も、纏う生 絹 の袍 を寛 げ、冠 も外した。
既に月は文 月 後 半 ――、葛 野 (※京都府にあった郡)の地は盆地のため、夏は暑くて冬は寒い。日中の熱が、夜になっても冷めないことはよくあることである。
そんな彼の耳 朶 を、近づいてくる衣 擦 れの音が触れた。
やって来たのは殿舎の主、弘 徽 殿 の中宮・藤 原 瞳 子 である。
蘇 芳 の襲 に濃 緋 の唐 衣 の女房装束、その上をたっぷりと流れる射 干 玉 色 の髪、またの名を〝薫 橘 の君 〟と呼ばれる彼の正 室 は、柔らかく笑んだ。
「今宵は残念なことに、主 上 がお好きな月は出ておりませぬ」
「そうようだね。瞳子」
今 上 は開いていた蝙 蝠 扇 を閉じ、ふっと笑う。
「突然のお越し、なにかありまして? 主上。前 触 れ(※通告)がございましたら、酒の用意もできましたのに」
そう言って瞳子は、柳 眉 を寄せる。
「何かなくては、妻の元を訪ねてはいけないのかい?」
「まぁ。皮肉がお上手ですこと」
瞳子は開いた檜 扇 の奥で、クスクスと笑う。
「最近――、王都では怪 異 が頻 繁 に起きている。これも私の不 徳 の生 すところと思ってね」
「主上が気に病むことではございませぬ。主上が万 民 や国の事を想い、神に日夜祈っておらせられることは、ここにいる者はよく存じております。国や民に仇 なすモノは、天が決してお許しにはなりませぬ。天 孫 の主上に必ずやご加 護 を」
瞳子の励ましに、今上の心は少し軽くなった。
「そういえば、若 菖 蒲 の君 はどうしたんだね? 見当たらないが」
「彼女に興味がございまして?」
浮気の虫が芽生えたのかと笑う瞳子に、今上は視線を逸らす。
「そうではないが」
「ここ三日ばかり里に下がっておりますわ。左近衛中将どのに、大事な頼まれごとをされたとか」
「それだけの理由で、許したのかい? 瞳子」
「この件に、安倍晴明どのも関わっているそうですわ」
安倍晴明と聞いて、今上はそれ以上追求しようとはしなかった。かの人物が関わっているとなると、確かに大事な事なのだろう。
周囲は彼を半 妖 だのというが、彼の力は国を禍 から護るためには必要不可欠と、今上は思っている。おそらくこの都の何処かで、彼は戦っているのかも知れない。
今上は、そう思った。
◆
五条大路では、冬真と鬼の攻 防 が続いていた。
『オノレ……、人間!』
鬼が冬真を睥 睨 し、歯 軋 りをする。
「冬真、大丈夫!?」
冬真の傍らにいた牛車の中から、菖蒲の声がした。
「なんとな……。菖 蒲 、決して出てくるなよ。いくらじゃじゃ馬のお前でも、勝ち目のない相手だ」
「それはあなたもでしょ。渡 辺 綱 さまのように鬼の首を討 てて?」
かつて――、羅 城 門 の鬼を討 伐 したという男、渡辺綱。
かの人物と比 較 されると何とも云えないが、鬼もかなり疲 弊 している。
冬真の手にした降 魔 の太 刀 は、鬼の皮 膚 を裂き、その再生を遅らせている。
鬼が、再び跳躍した。
『破 流 壁 !』
『ギャア!!』
鬼の躯 は宙で何かによって攻撃されたらしく、地に落下した。
片腕をもがれ、鬼は苦 悶 の表情を浮かべる。
「冬真!」
そして、冬真の待っていた男は漸く現れたのだった。
今や何に対して飢えているのかさえわからぬ。
野を
ああ、もっと。
ならば、お前の飢えを満たしてやろう。
誰かがそう言った。
ああ、これでこの苦しみが止まる。
もう二度と、飢えずにすむのだ。
◇
その鬼は、ゆっくりと間合いを詰めてきた。
近頃、都に現れ人を
(おいおいおい、晴明。まさか、こいつを俺一人でなんとかしろ――とは言わないだろうな?)
冬真は
彼の側には
いくら近衛府武官の冬真でも、鬼など異界の存在は相手にしたことがない。なにしろ、大内裏・
自信がないというより、果たして人間の武器が、鬼のような異界の存在に通じるのか心配だった。もしそれが効かないとなると、どうなるか想像するのも怖い。
『人間……
鬼は飛び上がり、冬真の上で腕を振り下ろした。
――キン。
冬真の握る剣が、鬼を弾き返す。
(なるほどな。
彼が握る太刀は、本来は彼のものではなかった。
(信頼されてるのか、いないんだか……)
晴明の事を思った冬真は、太刀を握り直し、
その晴明は、
晴明邸がある一条大路から五条大路へは、
「邪魔はさせない……、ということか?」
敵も
こんなことができるのは、やはりあの男――、
晴明の前に現れたのは、無数の
糸を
「オン、アミリトド、ハンバウンパッタ、ソワカ」
晴明の真言に、半数が塵になった。しかし蜘蛛は、さらに倍となって這い出てくる。
「いい加減にしろ! こんなことをして、何の意味がある!? 叢雲勘岦斉」
彼の怒号に、男からの返事はない。晴明は印を組み替え、唱える。
「
「
掲げた錫杖の先で、
『ふん、
さすが騰蛇が相手となると、蜘蛛の反応は違った。さっと後退し、騰蛇の攻撃範囲を読んだ
自滅した一部を見れば、どうやら蜘蛛の糸には毒があるらしい。騰蛇なら痛くも
晴明は新たに印を組み替える。
「ノウマクサンマンダバサラダン、センダンマカロシャダソハタヤウンタラタ、カンマン」
残りの蜘蛛たちは、晴明の真言に縛られる。そして――。
「
だが戦いはこれからだ。
「騰蛇、五条大路へ先に行け!」
晴明の指示に、天将・騰蛇は何かいいたげな表情をしていたが、そのまま
◆◆◆
内裏の奥、いわゆる後宮と
なにしろ、帝の
弘徽殿の庭には牡丹が植えられているが、今はその時季でなく、この夜は月も出てはいない。熱を孕んだ風がたまに吹いては御簾や几帳を揺らし、さすがの今上も、纏う
既に月は
そんな彼の
やって来たのは殿舎の主、
「今宵は残念なことに、
「そうようだね。瞳子」
「突然のお越し、なにかありまして? 主上。
そう言って瞳子は、
「何かなくては、妻の元を訪ねてはいけないのかい?」
「まぁ。皮肉がお上手ですこと」
瞳子は開いた
「最近――、王都では
「主上が気に病むことではございませぬ。主上が
瞳子の励ましに、今上の心は少し軽くなった。
「そういえば、
「彼女に興味がございまして?」
浮気の虫が芽生えたのかと笑う瞳子に、今上は視線を逸らす。
「そうではないが」
「ここ三日ばかり里に下がっておりますわ。左近衛中将どのに、大事な頼まれごとをされたとか」
「それだけの理由で、許したのかい? 瞳子」
「この件に、安倍晴明どのも関わっているそうですわ」
安倍晴明と聞いて、今上はそれ以上追求しようとはしなかった。かの人物が関わっているとなると、確かに大事な事なのだろう。
周囲は彼を
今上は、そう思った。
◆
五条大路では、冬真と鬼の
『オノレ……、人間!』
鬼が冬真を
「冬真、大丈夫!?」
冬真の傍らにいた牛車の中から、菖蒲の声がした。
「なんとな……。
「それはあなたもでしょ。
かつて――、
かの人物と
冬真の手にした
鬼が、再び跳躍した。
『
『ギャア!!』
鬼の
片腕をもがれ、鬼は
「冬真!」
そして、冬真の待っていた男は漸く現れたのだった。