第六話 西方に異変あり
文字数 3,650文字
水無月(※六月)が半月も過ぎると、日輪の姿が遠のき始めた。晴れたとしても、気まぐれな天の神は突然、大量の雨を落としてくる。
まさかまた青龍が雨を運んでいるわけではないだろうが、お陰で庭の隅で咲く紫陽花の色は濃くなり、雲間から覗いた日輪に対し、葉に乗った蝸牛も陽を浴びようと角を出す。
邸の簀子縁からそんな庭を見つめていた晴明は、庭に背を向けて室に戻った。
彼がいつもいるその場所には質素な几帳と屏風が置かれ、天文から暦など陰陽道の書や巻物、星を詠むための渾天儀、そして吉兆を占じる六壬式盤が手の届く所に置いてある。
特に六壬式盤は、陰陽師必須の占具である。
地盤と天盤の二層からなるそれは、これまで晴明たち陰陽師にあらゆることを告げてきた。日々の吉凶から、差し迫る危機、妖の潜んでいそうな場所まで。
地盤の上で回転する天盤に視線を落としていた彼は、胡乱に眉を寄せた。
『どうかしたのか?』
ふっと降りた神気に、晴明は僅かに視線を上げ、すぐに式盤に戻す。
顕現したのは十二天将の一人、騰蛇である。青龍と互角の神力をもつ水将だが、天将らは普段、異界にいる。主である晴明が招喚するか、何かを頼まない限りはこうして出てくることはない。
「お前こそ、どうした? まさか、物見遊山に現れたわけでもあるまい?」
呼びも命じもしていないのに出て来たということは、天将が動くほどの何かが起きたのだろう。
『当たり前だ。〝神〟が、そのようなことをするか』
十二天将の名は、陰陽師ならばまず知らない者はいない。
その十二人の名は、六壬式盤に刻まれているからだ。
彼らは〝神〟だが、晴明の最強の式神である。使役する者とされる側の約定を結んではいるが、立場的には神である天将が上である。
ゆえに、晴明がもし冥がりに沈むことがあれば即、約定を破棄するという。
「西の方角で何か起きたか?」
『先に気づいたのは白虎だ。俺は呼ばれて行っただけだ』
晴明が西の方角と行ったのは、式盤にて西に凶が出ているためだ。どうやら、占いは当たったらしい。白虎もまた十二天将だが、王都を西で守護する四神であった。
正確には、小倉山らしい。そこから妖気が流れ込んでくるという。
「妖気?」
『あの東麓は化野だろ。霊気なら理解るが……』
怪訝なその顔を、晴明は注視した。
「つまり妖がいる――、そういいたいのか? お前たちは」
騰蛇は「是」とは言わない。だが、騰蛇は神である。人間の勘よりは鋭いだろう。その勘が危ないモノと捉えているのなら、手は打たねばならないが。
「騰蛇、今のことを師匠に伝えろ」
『賀茂忠行にか?』
「私が勝手に動くわけにはいかんからな」
『……わかった』
騰蛇は硬い表情で頷くと、すっと隠形した。
◆
荒涼とした大地を、黒いモノが蠢く。
その周りに、青い燐火が群がった。
――ああ……、なにゆえ。
また一つまた一つと、燐火は〝それ〟に寄っていく。
いや、寄っているというよりも――。
蛙の化生は、また見てしまった。怖ろしくも悍ましい〝それ〟を。
皆、あの悍ましいモノに喰われてしまうのだ。骨の一本も残らずに消えるのだ。報せてくれる華も咲かぬ。
蛟――、人も妖も喰らう化け物。
ああ、なにゆえ。
なにゆえ、声が届かぬ。
なにゆえ、見えぬ。
なにゆえ、喰われねばならぬ。
お前なら――、聞こえると思ったのに。
◆◆◆
「本当なら、月見酒――としたいんだが……」
子の正刻(※午前零時)――、既に宿直の者以外は残っていない大内裏の中を、夜警に出た二人は歩を運んでいた。問題だったのは、各殿舎を見て回るべく人間が、幽鬼騒ぎに怯え始め、近衛府内では担当の押し付け合いが始まった。何せ相手はこの世の者ではない。人間相手の武官では太刀打ちできない。
よって、夜警には陰陽寮から一人ついてくることになった。
幸いこれまで、幽鬼と遭遇することはなかったらしいが、それでもである。
「相変わらず呑気な男だな、お前は」
白い直衣姿の晴明が、月を見上げて嘆く冬真に呆れた。
「そう思わんとやっていられんだろうが。なにせ俺たちがこれから逢おうとしているのは、幽鬼ときている。まったく揃いも揃って、夜警に行きたがらないとは衛府は廃れたか?」
藤原冬真は闕腋袍 に身を包み、背には胡簶 (※矢が入った箱)と武装していたが、彼とて幽鬼に弓矢が通じるとは思ってはいない。
「あの世のモノを怖いと思うのは、自然の反応だと思うが?」
隣を歩く晴明は、そんな冬真に笑った。
「衛府の人間が怖がってどうするんだよ。大内裏と帝を護る左近衛府が」
「お前も怖いのか? 冬真」
「怖くはないが、藪蛇ってこともある。触らぬ神に祟りなしってやつさ」
「悪いが、わたしは陰陽師なのでな。相手が人間ならそうするが、向こう側のモノとなるとそうもいかん」
「お前はそうだろうな……」
冬真は、怖いのは人間のほうだと思う。
出世や権力を得るためならば、政敵を追い落とす貴族たち。冬真も貴族の家に生まれたが、出世などには一切興味はなかった。
「――なにか騒々しいと思ったら、冬真? 晴明さままで――」
内裏から近い殿舎まで来ると、まだ起きていた女人がいたようだ。
冬真は自分を呼び捨てする人物を視界に捉え、目を半眼にした。
「怖くない人間が、もう一人いたな?」
晴明が笑みを零す。
「……なぜ、お前が弘徽殿にいる? 菖蒲」
声をかけたのは、冬真の従妹・菖蒲である。
「中宮さまのお付きになったのよ。主上にも懇願されたわ」
菖蒲は渾名となった若菖蒲の襲でなかったが、淡朽葉に萌黄の襲に蘇芳の唐衣という女房装束である。しかし中宮付きとはと、驚く冬真である。
「お前が、中宮さまのお付きに、ねぇ……。まさか、また幽鬼退治か? その格好で」
「するわけないでしょ!」
ぷいっと顔を向けて裾を翻した菖蒲に、冬真はやれやれと肩を竦めたのだった。
◆
深更(※夜更け)の七殿五舎――俗に後宮と呼ばれる奥内裏は、静寂に包まれていた。男子は帝と警護の者、特に許可を得た者しか入れぬ場所ではあるが、この場合は仕方あるまい。幽鬼など彷徨われては熟眠もできないだろう。
「従妹どのは大した出世だな」
「菖蒲が大人しくしているとは思えんな。ああして畏まってはいるが」
なんでも冬馬は、子供の所に彼女が作った落とし穴に何度も落ちたことがあるらしい。学習能力に欠けていた冬馬もそうだが、穴を掘った菖蒲もさすが〝若菖蒲の君〟の名をもつ菖蒲である。
ある殿舎まできたとき、晴明は足を止めた。
「ここは……」
胡乱に眉を寄せる晴明に、冬真が、
「確か、梨壺の更衣さまの殿舎・昭陽舎だ」
と言った。昭陽舎は梨の木が庭に植えられているため、梨壺とも呼ばれているらしい。
そんなときである。その昭陽舎で悲鳴がした。
「梨壺の更衣さまっ!?」
駆けつけると妻戸の側で、女房装束の女人が震えている。
「幽鬼が……いま……」
「くそっ……」
そこに、幽鬼はいない。
悔しがる冬真の傍らで、晴明は被衣姿の人影が簀子縁を駆けていくのを視界に捉えていた。幽鬼にしては、しっかりと足があるようだ。
翌――、出仕した陰陽寮には師・賀茂忠行と、その息子にして晴明の兄弟子・賀茂保憲がいた。
「昨夜、今度は昭陽舎に幽鬼が出たそうじゃのぅ? 晴明」
「駆けつけた時には、立ち去ったあとでした」
「相手は幽鬼、逃げられるのは無理はならろうて。大事にならずなによりじゃ。のぅ? 保憲」
話を振られた保憲は一笑した。
「ええ。それより晴明、例の件だが玄武から聞いたぞ」
例の件とは、天将・玄武が晴明に報せてきた小倉山での異変である。
「して、お二人の意見は?」
「小倉山に不穏な妖気、王都から離れているとはいえ、やってこないとは限らぬのぅ」
忠行が、白い顎髭を撫でながら瞑目する。
「父上、私が調べて参りましょう」
「保憲が?」
「他の誰かが危険を冒すより、私か晴明が行くのが適任では?」
「ふむ……」
忠行は思案ののち、小倉山に行くことを許した。
陰陽寮を保憲とともに辞すると、彼が怪訝に眉を寄せた。
「うかぬ顔だな? 晴明」
「保憲どの。どうも大事なことを見過ごしている気がするのです」
「大事なこと?」
たびたび聞こえる「なにゆえ」という声。
時には雨音に、時には風音に混じっては晴明の耳朶に触れる。
「相変わらず、気苦労が絶えんな。お前は」
「保憲どの……」
「そう硬くなっていては、向こうの思うつぼだぞ? 晴明。迷いを捨てろとは言わんが、いざという時に迷えばどうなるか、お前が一番よく理解っている筈だ」
そう迷えば冥がりが生まれ、子どもの時のように引きずりこまれそうになるのだ。
「とりあえず、わたしが先に行ってみよう」
「くれぐれもご用心を」
はたしてそこになにがあるのか。
晴明の心は、この日の昊の如く薄い膜が張り、はっきりしないのであった。
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