第十八話 罪の代償
文字数 3,971文字
――潮 時 か……。
パキパキと爆 ぜる火の前で、男はそっと瞼 を跳 ね上げた。
彼が座 す板の間に、黒く焦 げたものがある。それを彼が見たのはこれで二度目。
男の術を、誰かが破った。いや、まだ全てではない。
――陰陽寮の人間か……。
朝廷に飼 われている陰陽師――、彼の認識ではそうなる。
男は嗤 った。
人の欲にきりはない。しかも、心に闇を抱えている。その心を軽くつつけば、人はあっさりと男に下る。願いを叶えてくれと、財 を積 む。
それに対し、彼に罪の意識はない。
妖 もまた然 り。人間が憎いと涌いてくる。お互いの願いを叶えてなにが悪い。
男――勘岦斉 は、嗤い続けると目の前に座る男と目が合った。
「……これは失礼した。亮 賢 どの」
勘岦斉の前にいたのは、法 衣 を纏 った僧だった。
◆
「ぁ……あ……、やめろ……」
御 帳 台 の中でかの男は宙を仰 視 し、意味不明なことを呟 いている。
頬 はすっかりこけ、髪も乱れ、はだけた単 衣 からは肋 骨 が浮いた躯 が覗 いていた。その姿は、晴明が以前に見た藤原惟規 ではなかった。
そんな男にぴったりと、黒いモノが貼り付いていた。
晴明は静かに、それから視線を外す。
「晴明……女は……」
冬真は、そのまま言葉を呑み込む。
女もまた、弄 ばれた一人。ただ惟規への執 着 が、招いてはならぬモノを引き寄せ、その身に入れた。既 に骸 となったこともわからず、念だけがその身に残った。
あの男は――、妖 を使 役 する陰陽師はそんな彼女の心を利用した。晴明の脳 裏 で、彼女の身に起きたことが鮮 やかに描かれる。
想像ではあったが、彼の勘 はその残酷な話を否定してはくれない。
「離サヌ……」
顔を上げた女に、背後にいた冬真が声を殺すのがわかった。
まるで――、イザナギが冥 府 で見てしまった妻・イザナミのような顔に。
「冬真、香 炉 を壊せ」
「晴明……」
「このままだと、彼女は鬼になる!」
晴明は御 帳 台 から出ると、結 印 した。
『性 懲 リモナク、マダ邪 魔 ヲスルカ!』
室 に漂っていた妖 気 が、再び黒い影を生む。
「まったく、次から次へと!」
冬真は再び抜 刀 すると、吊 り香 炉 を叩き割った。残るは、あと一つ――。
瞬 時 に、御帳台から女の悲鳴が上がる。
『アノ女ハ願ッタ。夫ニ逢イタイト願ッタ。人トハ愚 カナモノヨ。男ニソノ気ナドカタッタノトイウニ、ソレヲ信ジテ待ツトハ!』
闇は幾 度 も形を変えながら、晴明と冬真を阻んでくる。
「……言いたいことはそれだけか?」
晴明は闇を睨み続けた。
『オ前ニモ、アルダロウ? 陰陽師。心ノ中ニ闇ガ』
「生 憎 だが、お前の誘いは受けん」
晴明は狩衣の袷 から呪 札 を引き抜くと、声を張った。
「絞 縛 服 呪 、破 邪 滅 焦 !」
◆◆◆
はらはらと、桜が舞っていた。
毎年見ているのに、心はいつも切ない。
母は、口を開けば嘆 いてばかりだ。こんな筈 ではなかった――それが母の口 癖 で、父との関係も良くはなかった。母 曰 く、父には他に女がいるという。
ゆえに、姫は恋をするのに奥 手 になった。母のように自分も男に裏切られる。そう思うのにさして時は必要はなかった。
そんな姫の元に届いた恋の文 。はじめは信じられなかったが、相手はかなりの身分らしい。対 屋 に滅 多 に姿を見せぬ父が、この話に歓 喜 した。「よくやった。さすがは我が娘」と姫を絶 賛 した。隣では母が父を睨 んでいたが、父に褒 められるのは幼少の頃以来である。
そして――彼は、姫の元にやってきたのだ。
妻にする――、そう言った男の言葉に姫は夢を見た。これまで出来なかった贅 沢 な暮らし、綺 麗 な衣 、母が手に入れられなかったものが手に入る。
――わたしは、母とは違う。
やがて姫は身 籠 もった。男との子供である。
なのに――、彼はそれから邸 には来なくなった。どんなに待っても、彼は――藤原惟規 は、姫の元に現れることも、文を寄 越 してくることもなかった。
――いいえ、あのかたは約束してくださったわ。きっと、お忙しいのだわ。
男には他にも女がたくさんいた――、そんな話を拾ってきた母の言葉を、姫は信じなかった。
――待っていればきっと、彼はわたくしの元に帰ってくる。
姫は、待った。待ち続けて――。
◆
「あ、あぁっ!」
女の絶叫と、邸 に巣 くっていた闇が『ギャア!!』と声を上げるのと重なった。
異様な形を成した闇が、青い五 芒 星 の結 界 に囚 われている。
対して御 帳 台 から蹌 踉 めきながら現れた彼女は、骸 と化 していた。
男への諦 めらぬ想いが、彼女をこの世に繋 ぎ止 めたのだろう。自身が既にこの世から離れているともわからぬほど、その念は凄 まじい。
その念を利用したものがいる。彼女の想いを利用した者がいる。この闇を招いたのは恐らく、その人物。ならば、その目的は何か。
「あなたは既に冥 府 へ旅立たれた身」
晴明は、顔を覆 う女に話しかけた。
女に罪はない。彼女はただ、愛した男に会いたかっただけだろう。今も男を愛し続ける彼女を、どうして責められよう。
「……わたしが……死んだ……? そんなはず……ない……、だって……ここにこうして――」
女は、自身の手に視線を落とした。朽 ちて骨が剥 き出しとなった己の変わり果てた手を。
「いやぁ!!」
彼女はついに、己が何者か知ったのだ。
この世の者ではないことに。
「バケモノ……、早くこのバケモノを――」
血 走 った目で、惟規が晴明に訴える。
晴明の中に、どす黒い感情が湧く。惟規こそここまで拗 れさせた元 凶 ――、その男に同情の余 地 はない。しかし、晴明は心に湧いた感情を押し殺した。
恐らく彼女の心は、とうの過去に壊れたのだろう。
幸せな想いを巡 らせていた時のまま、心だけが時を止めた。ゆえに、彼女は己がなくなっていることがわからないのだ。
惟規の反応に、彼女はようやく理解したようだ。
愛した男は、自分など愛してはいなかった。数いる女の一人に過ぎなかったことに。
「結局……わたしも……母と同じ……。こんな姿で……わたしは……」
「晴明っ、また奴が!」
冬真が叫ぶ。
結界に囚われた闇は、そこから抜け出そうともがいていた。
『小 賢 シイ真 似 ヲ……! モウ少シデ、アノ男ヲ取リ殺セタモノヲ』
「それが、お前の狙いか!?」
『アノ男ヲ消セト、願ッタ人間ガイタノデナ』
晴明は、かの男の狙いがわかった気がした。
その男は消して欲しい人間がいるという依頼を受けて、妖 を以 てその依頼に応える陰陽師。おそらくその消して欲しい相手は、藤原惟規。
依頼主は騙 された女たちか、それとも他の人間か。惟規は恨まれるだけのことをしてきたのだから憎まれても当然かも知れないが、晴明が赦 せないのは妖を使役するその男だ。
晴明は真 言 を唱 えた。
「オン、サンマンダバサラダン、センダンマカロシャダソハタヤ、ウンタラタカンマン」
『ギャア!!』
結界の中で、闇はぐにゃりと拉 げる。
「冬真今だ! もう一つの香炉を壊せ!」
「言われなくてもやるさ」
冬真は御帳台の脇にある厨 子 棚 に駆け寄ると、置かれていた香炉に向かい、剣を振り下ろす。
香炉が砕けと同時に、女は火 霊 となって揺れていた。
「名を。冥府へお送りしよう」
「……斐月 ……」
そう呟いた彼女の魂 は、晴明の泰 山 府 君 祭 文 によって溶けていった。
「――聞いたか?藤 原 式 部 小 丞 どのがお暇 乞 いを主 上 にされたそうだぞ」
内裏・清涼殿――、御 簾 越 しに聞こえてくる話し声に、簀 子 縁 に足を運んでいた晴明は胡 乱 に眉を寄せた。
「よぉ、晴明」
晴明の前に、冬真が立った。
「式部小丞さまは、隠 居 されるようだな」
「ああ。王都を出られ播 磨 (※現在の兵庫県の西南部)で暮らすそうだ」
「それで、かの家はどうなるんだ?」
「惟規どのでは、もうあの家は存 続 はできんだろうさ。何せ、壊れてしまったからな。仏門に入られていた長男どのが、還 俗 するらしい」
あのあと――、藤原惟規は命は助かったものの、心は完全に壊れていた。聞けば王都を出て、何処ぞの邸で過ごすという。
――つまり、依頼は達成されたということか……。
晴明は、対峙した闇が言っていたことを思い出していた。
あの男を消して欲しいと、願った人間がいたのでな――。
藤原惟規はもう、人前に出てくることはないだろう。自 業 自 得 といえばそれまでだが、なんとなくすっきりとしない晴明であった。
「噂をすればなんとやらだな、その還俗する長男どのがおいでだ」
晴明は渡殿を進んでくる、法衣姿の男を視界に捉えた。
その男が、晴明の前で足を止めた。
「――安倍晴明どの……ですな。拙 僧 は亮賢と申す。此 度 は我が邸に起きたことに尽 力 頂いたとか」
亮賢は藤原惟規の異 母 兄 である。父・藤 原 有 綱 の第一子として生まれながら、妾 腹 というだけで後 継 から外され、仏門に入れられたという。
見る感じでは、穏やかそうな好青年だが。
「たいしたことはしておりません」
「謙 遜 を。本日は帝に還俗の許しをと参内したまで。礼はまたいずれ」
にっと口 角 を上げる亮賢に、晴明は目を瞠 った。
まさか――。
「どうした? 晴明」
冬真が怪 訝 そうに、眉を寄せた。
「いや……」
晴明は心に湧いた疑 惑 をのみ込んだ。
亮賢ははたして、父親と異 母 弟 を恨まなかったのか。自分を見限った父親、正妻の子として全てを手に入れることなる異母弟を。
彼がかの男の依頼主だったとしても、晴明は陰陽師である。彼を責めることはできない。
ただ――、この王都にかの男に頼る人間がいることだ。
人の闇は、なんと深いことか。
そして、その心を利用する陰陽師がいる。
晴明は人を裁 くことはできないが、かの男は報 いを受ける日がきっと来ると思う。でなければ、妖に喰 われ、骸にされた者は浮かばれぬ。
これからもずっと、嘆 き続けるのだ。
なにゆえ――と。
パキパキと
彼が
男の術を、誰かが破った。いや、まだ全てではない。
――陰陽寮の人間か……。
朝廷に
男は
人の欲にきりはない。しかも、心に闇を抱えている。その心を軽くつつけば、人はあっさりと男に下る。願いを叶えてくれと、
それに対し、彼に罪の意識はない。
男――
「……これは失礼した。
勘岦斉の前にいたのは、
◆
「ぁ……あ……、やめろ……」
そんな男にぴったりと、黒いモノが貼り付いていた。
晴明は静かに、それから視線を外す。
「晴明……女は……」
冬真は、そのまま言葉を呑み込む。
女もまた、
あの男は――、
想像ではあったが、彼の
「離サヌ……」
顔を上げた女に、背後にいた冬真が声を殺すのがわかった。
まるで――、イザナギが
「冬真、
「晴明……」
「このままだと、彼女は鬼になる!」
晴明は
『
「まったく、次から次へと!」
冬真は再び
『アノ女ハ願ッタ。夫ニ逢イタイト願ッタ。人トハ
闇は
「……言いたいことはそれだけか?」
晴明は闇を睨み続けた。
『オ前ニモ、アルダロウ? 陰陽師。心ノ中ニ闇ガ』
「
晴明は狩衣の
「
◆◆◆
はらはらと、桜が舞っていた。
毎年見ているのに、心はいつも切ない。
母は、口を開けば
ゆえに、姫は恋をするのに
そんな姫の元に届いた恋の
そして――彼は、姫の元にやってきたのだ。
妻にする――、そう言った男の言葉に姫は夢を見た。これまで出来なかった
――わたしは、母とは違う。
やがて姫は
なのに――、彼はそれから
――いいえ、あのかたは約束してくださったわ。きっと、お忙しいのだわ。
男には他にも女がたくさんいた――、そんな話を拾ってきた母の言葉を、姫は信じなかった。
――待っていればきっと、彼はわたくしの元に帰ってくる。
姫は、待った。待ち続けて――。
◆
「あ、あぁっ!」
女の絶叫と、
異様な形を成した闇が、青い
対して
男への
その念を利用したものがいる。彼女の想いを利用した者がいる。この闇を招いたのは恐らく、その人物。ならば、その目的は何か。
「あなたは既に
晴明は、顔を
女に罪はない。彼女はただ、愛した男に会いたかっただけだろう。今も男を愛し続ける彼女を、どうして責められよう。
「……わたしが……死んだ……? そんなはず……ない……、だって……ここにこうして――」
女は、自身の手に視線を落とした。
「いやぁ!!」
彼女はついに、己が何者か知ったのだ。
この世の者ではないことに。
「バケモノ……、早くこのバケモノを――」
晴明の中に、どす黒い感情が湧く。惟規こそここまで
恐らく彼女の心は、とうの過去に壊れたのだろう。
幸せな想いを
惟規の反応に、彼女はようやく理解したようだ。
愛した男は、自分など愛してはいなかった。数いる女の一人に過ぎなかったことに。
「結局……わたしも……母と同じ……。こんな姿で……わたしは……」
「晴明っ、また奴が!」
冬真が叫ぶ。
結界に囚われた闇は、そこから抜け出そうともがいていた。
『
「それが、お前の狙いか!?」
『アノ男ヲ消セト、願ッタ人間ガイタノデナ』
晴明は、かの男の狙いがわかった気がした。
その男は消して欲しい人間がいるという依頼を受けて、
依頼主は
晴明は
「オン、サンマンダバサラダン、センダンマカロシャダソハタヤ、ウンタラタカンマン」
『ギャア!!』
結界の中で、闇はぐにゃりと
「冬真今だ! もう一つの香炉を壊せ!」
「言われなくてもやるさ」
冬真は御帳台の脇にある
香炉が砕けと同時に、女は
「名を。冥府へお送りしよう」
「……
そう呟いた彼女の
「――聞いたか?
内裏・清涼殿――、
「よぉ、晴明」
晴明の前に、冬真が立った。
「式部小丞さまは、
「ああ。王都を出られ
「それで、かの家はどうなるんだ?」
「惟規どのでは、もうあの家は
あのあと――、藤原惟規は命は助かったものの、心は完全に壊れていた。聞けば王都を出て、何処ぞの邸で過ごすという。
――つまり、依頼は達成されたということか……。
晴明は、対峙した闇が言っていたことを思い出していた。
あの男を消して欲しいと、願った人間がいたのでな――。
藤原惟規はもう、人前に出てくることはないだろう。
「噂をすればなんとやらだな、その還俗する長男どのがおいでだ」
晴明は渡殿を進んでくる、法衣姿の男を視界に捉えた。
その男が、晴明の前で足を止めた。
「――安倍晴明どの……ですな。
亮賢は藤原惟規の
見る感じでは、穏やかそうな好青年だが。
「たいしたことはしておりません」
「
にっと
まさか――。
「どうした? 晴明」
冬真が
「いや……」
晴明は心に湧いた
亮賢ははたして、父親と
彼がかの男の依頼主だったとしても、晴明は陰陽師である。彼を責めることはできない。
ただ――、この王都にかの男に頼る人間がいることだ。
人の闇は、なんと深いことか。
そして、その心を利用する陰陽師がいる。
晴明は人を
これからもずっと、
なにゆえ――と。