第二十七話 羅城門の鬼、再び! 【完】
文字数 3,368文字
――またしても、あの男か……。
ほとんど荒 ら屋 といっていいその中で、叢雲勘岦斉 はついっと目を細めた。
見ているのは鏡である。遠くにいながらも、その場で起きていることが見られるものだが、報 せてくる現状は彼には不利なものだ。
彼は王都の人間に、恨みという恨みはない。ただ人の心の闇を引き受けて、そのまま実行しているだけだ。妖 を使 役 することに陰陽師の決まりはない。
今回の依頼主は、武尊 という男だった。貧しさゆえに、ただ己 の空腹を満たしたいが為に兄弟を殺して逃げていた男。
勘岦斉はその願いを叶えた。
人の愚 かさを、彼は熟 知 していた。欲に駆られたその背を押せば、簡単に陥 ちることも。
因 果 応 報 ――、あの男も最後は悔 いるのだ。
なにゆえと。
――吾は、お前たちとは違う。
鏡に映る満 身 創 痍 の鬼を見据え、勘岦斉は自信たっぷりに嗤 った。
非道と罵 られようと、彼はこれからも人の闇を狩る。人が人を憎むとき、あの者さえいなければと願うとき、彼はその声に応える。
だが――。
「安倍晴明……」
鏡には、その姿もあった。
妖の血を半分引きながら、朝廷陰陽師となった男。
そして、十二天将を式神とした男。
これまでの依頼人のように、勘岦斉も初めて「あの男がいなければ」と思った。
使役する妖はいくらでもいるが、安倍晴明がいる限り、彼の仕事の邪魔になる。
――いつか必ず、お前の首を狩ってやろう。安倍晴明。
鏡の中に捉えられたその顔に、勘岦斉の決意の炎は燃え上がった。
◆
五条大路の鬼は、血走った目を向けていた。彼から立ち上るのは、怒りや憎しみなどの激しい念だ。それは炎のように赤くユラユラと背後で揺れ、闇の一部を染めている。
先に到着した十二天将・騰 蛇 の一撃により、鬼の出血はかなり酷 い。人間ならば間違いなく死んでいるが、鬼の生 気 は消えてはいない。
晴明は鬼を見据え、錫 杖 を構えた。
「遅いぞ! 晴明」
冬真が息も絶え絶えに、声を上げた。
「吼 えるな。降 魔 の太刀は役に立っただろうに」
「人を寄せ餌 にしておいてなんて奴だ。ま、お前の性格は理 解 っていたが」
半眼で呆 れる冬真に苦笑して、晴明は狩衣の袷 から呪 符 を引き抜く。
『また一人、餌が増えたか』
「しぶとい奴だな。まだ喰 らう気でいる」
「冬真、お前は菖 蒲 どのを守れ」
「わかった。気をつけろよ。この鬼、かなり手 強 いぞ」
晴明は、友がいる有 り難 さを思う。
以前は誰とも関わりたくはなかった。半 妖 であることに、奇 異 や興味の目を向けられることが煩 わしく、人を避けていた。
――いずれ、お前のことを理解し、助けてくれる仲間が出来ようて。
かつて、師 に言われたことを思い出し、晴明は視線をぐっと上げた。
結 印 し、真 言 を唱 える。
「ノウマクサンマンダバザラダンカン」
晴明の手を離れた呪札が、鬼のいる場所を中心に青く光る五 芒 星 を描く。結界である。
『なにゆえ……』
鬼の漏らした言葉に、晴明は瞠 目 した。
――この鬼、まさか……。
晴明は瞑 目 し、印 を組み直す。
もし勘 が正しければ――。
彼は意識を集中させた。
◆◆◆
そこは、一面に広がる野であった。
男はもう早朝から木を切り続け、薪 を割った。朝 餉 に稗 飯 と水しか食しておらず、おそらく夕 餉 など用意はされていないだろう。
男の名は、武尊 といった。既 に二十歳を超えていたが、その躯 は痩 せ細り、まるで生きる屍 である。
ようやく最後の薪を割り終えて、武尊はどっと腰を下ろす。
――なんと惨 めで無 様 な……。
これが、今の自分なのだ。
同じ父を有 しながら、兄という男は恵まれた暮らしをし、自分は人扱いもされぬ。
父の気まぐれの末に生まれた厄 介 者 ――、兄はそう彼を罵 り、父は視界にされ入れようとはしない。暮らす場所は家 畜 小 屋 で、彼らの糞 尿 の臭いには、鼻も慣れてしまった。
満たされぬ毎日に、武尊はもう限界であった。
空腹で、空腹で、何でもいい。この飢 えを満たしたかった。
その時、彼は何を手にしたのかわからなかった。何か獣 の咆 哮 が聞こえたような気がしたが、そんなことはどうでも良かった。
「お前……、なにをした……?」
小屋の入り口に、兄がいた。酷く憤 っているが、武尊にはわからない。
「あに……」
「兄と呼ぶな!鬼 畜 め!!」
鬼畜? 鬼畜はお前たちの方ではないか。
武尊の箍 がついに外れた。
目の前が真っ赤に染まり、あとのことは覚えてはいない。
走って、走って、ひたすら駆 けて――、自分が本当は何者だったのかも、彼は忘れてしまった。
「あああああああああああああ!!」
漆黒の闇の中で、彼は全て思い出した。
あの日――空腹に耐えかねて鉈 で牛を殺した。そして、駆けつけてきた兄も殺し――、喰 ったのだ。
姿はその報 いか異 形 のモノとなり、人を襲うようになった。それなのに――、なにゆえ飢えは止まらぬ。
その時、しゃんっと鈴の鳴るような音がした。
「お前は――、逃げようと思えば逃げられたのだ」
「誰だ!?」
そこには、狩衣姿の青年が立っていた。青年曰く、陰陽師だという。
「そうしなかったのは、お前に甘えがあったからだ。違うか?」
「……逃げ出していれば、違う道があったというのか……?」
「お前は最初から間違った。答えが見つからないのは当然だろう?」
陰陽師の言葉に、武尊は嗤 った。陰陽師を嗤ったのではない。己の愚かさを嗤ったのだ。
「ふふ……はは……、ははは」
そうだ。逃げだそうと思えば出来たのだ。
親や兄弟の情 など得られぬと理解っていたのに、結局はこの手を血に染めた。人を喰らう鬼に成り果てた。
逃げ出していれば、手を差し伸べてくれる人間はいたのだろうか。この飢えは、止まったのだろうか。
「――もっと早くお前に逢いたかった、陰陽師。あの男ではなく……」
自分をさらに鬼畜にせしめた陰陽師。彼に願いを叶えると言われたが、答えは出ることはなかった。このまま鬼として散るのだ。
人を食い殺した報いは受けるべきだろう。この身は地獄の業 火 に焼かれ、輪 廻 の輪 には入らぬ。本当になんて愚かだったのだ。
◆
鬼は――、昊 を見上げていた。
五芒星の結界の中、鬼は睨 んでくることもなかった。見つめる先になにを見ているのか、晴明にはわからない。
ただ、人間であった頃の彼に同情は出来る。人の心の奥底に棲む闇が、彼を鬼にした。
晴明は、過去の己を重ねる。
人から逃げ、冥 がりに救いを求めて逃げ込んだあの日のことを。
そんなに人間が嫌なら、お前も妖になれ――、闇の住人はそう晴明に甘く囁 いた。しかしそうならなかったのは、救ってくれる手があったからだ。人間の世界は苦しい事もあるが、そればかりではないことを、彼は知った。
そう、この鬼にも他の選択肢はあったのだ。
晴明は、覚悟を決めた鬼――武尊に向かい、印を組む。
「破邪滅消 、退魔調伏 」
五芒星が閃 光 し、鬼を包む。
鬼の躯 は崩れ、本来の姿となるが、それも僅 か一瞬。光の柱となって天に伸び、その光も溶けるように消えた。
「終わったな。晴明」
「ああ……」
冬真の言葉に頷 くも、虚 しさが残る。これからも、武尊のように鬼となる人間は出るだろう。人の心から人に対する憎しみや、物に対する執 着 が消えない限り。
邸 に菖 蒲 を送るという冬真を見届け、晴明も踵 を返した。
「?」
彼の前、大きな影があった。
『変わった男だな。お前は』
羅 城 門 の鬼・羅将 である。
「斃 すだけが、私の仕事ではないと思っているんでな」
『そのようだな。かつての仇 敵 に式神にならないかともちかける大馬鹿者だ。安倍晴明、お前となら妖 であれ、国を禍 から退ける力としてしまうだろうな』
羅将はそう言って笑い、闇に溶けた。
『なにしに来たのだ? あれは』
騰蛇が眉を寄せ、呆れる。
「さぁな……」
それから間もなくして、文 台 で墨 をすっていた晴明に、雑 鬼 が話しかけてきた。
彼がいうには、羅城門に鬼の門番がいるという。人間には視 えないように隠れ、外から王都に入れ込もうとしていた化 生 を、追い返したらしい。
「そうか……」
晴明はそう返事をして、半 蔀 に目をやった。
聞こえてくる蝉 時 雨 に笑みをもらすと、彼は来るべき日に備え、心を引き締めるのであった。
ほとんど
見ているのは鏡である。遠くにいながらも、その場で起きていることが見られるものだが、
彼は王都の人間に、恨みという恨みはない。ただ人の心の闇を引き受けて、そのまま実行しているだけだ。
今回の依頼主は、
勘岦斉はその願いを叶えた。
人の
なにゆえと。
――吾は、お前たちとは違う。
鏡に映る
非道と
だが――。
「安倍晴明……」
鏡には、その姿もあった。
妖の血を半分引きながら、朝廷陰陽師となった男。
そして、十二天将を式神とした男。
これまでの依頼人のように、勘岦斉も初めて「あの男がいなければ」と思った。
使役する妖はいくらでもいるが、安倍晴明がいる限り、彼の仕事の邪魔になる。
――いつか必ず、お前の首を狩ってやろう。安倍晴明。
鏡の中に捉えられたその顔に、勘岦斉の決意の炎は燃え上がった。
◆
五条大路の鬼は、血走った目を向けていた。彼から立ち上るのは、怒りや憎しみなどの激しい念だ。それは炎のように赤くユラユラと背後で揺れ、闇の一部を染めている。
先に到着した十二天将・
晴明は鬼を見据え、
「遅いぞ! 晴明」
冬真が息も絶え絶えに、声を上げた。
「
「人を寄せ
半眼で
『また一人、餌が増えたか』
「しぶとい奴だな。まだ
「冬真、お前は
「わかった。気をつけろよ。この鬼、かなり
晴明は、友がいる
以前は誰とも関わりたくはなかった。
――いずれ、お前のことを理解し、助けてくれる仲間が出来ようて。
かつて、
「ノウマクサンマンダバザラダンカン」
晴明の手を離れた呪札が、鬼のいる場所を中心に青く光る
『なにゆえ……』
鬼の漏らした言葉に、晴明は
――この鬼、まさか……。
晴明は
もし
彼は意識を集中させた。
◆◆◆
そこは、一面に広がる野であった。
男はもう早朝から木を切り続け、
男の名は、
ようやく最後の薪を割り終えて、武尊はどっと腰を下ろす。
――なんと
これが、今の自分なのだ。
同じ父を
父の気まぐれの末に生まれた
満たされぬ毎日に、武尊はもう限界であった。
空腹で、空腹で、何でもいい。この
その時、彼は何を手にしたのかわからなかった。何か
「お前……、なにをした……?」
小屋の入り口に、兄がいた。酷く
「あに……」
「兄と呼ぶな!
鬼畜? 鬼畜はお前たちの方ではないか。
武尊の
目の前が真っ赤に染まり、あとのことは覚えてはいない。
走って、走って、ひたすら
「あああああああああああああ!!」
漆黒の闇の中で、彼は全て思い出した。
あの日――空腹に耐えかねて
姿はその
その時、しゃんっと鈴の鳴るような音がした。
「お前は――、逃げようと思えば逃げられたのだ」
「誰だ!?」
そこには、狩衣姿の青年が立っていた。青年曰く、陰陽師だという。
「そうしなかったのは、お前に甘えがあったからだ。違うか?」
「……逃げ出していれば、違う道があったというのか……?」
「お前は最初から間違った。答えが見つからないのは当然だろう?」
陰陽師の言葉に、武尊は
「ふふ……はは……、ははは」
そうだ。逃げだそうと思えば出来たのだ。
親や兄弟の
逃げ出していれば、手を差し伸べてくれる人間はいたのだろうか。この飢えは、止まったのだろうか。
「――もっと早くお前に逢いたかった、陰陽師。あの男ではなく……」
自分をさらに鬼畜にせしめた陰陽師。彼に願いを叶えると言われたが、答えは出ることはなかった。このまま鬼として散るのだ。
人を食い殺した報いは受けるべきだろう。この身は地獄の
◆
鬼は――、
五芒星の結界の中、鬼は
ただ、人間であった頃の彼に同情は出来る。人の心の奥底に棲む闇が、彼を鬼にした。
晴明は、過去の己を重ねる。
人から逃げ、
そんなに人間が嫌なら、お前も妖になれ――、闇の住人はそう晴明に甘く
そう、この鬼にも他の選択肢はあったのだ。
晴明は、覚悟を決めた鬼――武尊に向かい、印を組む。
「
五芒星が
鬼の
「終わったな。晴明」
「ああ……」
冬真の言葉に
「?」
彼の前、大きな影があった。
『変わった男だな。お前は』
「
『そのようだな。かつての
羅将はそう言って笑い、闇に溶けた。
『なにしに来たのだ? あれは』
騰蛇が眉を寄せ、呆れる。
「さぁな……」
それから間もなくして、
彼がいうには、羅城門に鬼の門番がいるという。人間には
「そうか……」
晴明はそう返事をして、
聞こえてくる